──U──



「そういやさー、今朝のニュース見たかー?」

 一限目の授業が終わった直後、リーナスが声を掛けてきた

「ん……一応、見たけど」

 寝ぼけ眼をこすり、机に突っ伏していた蛮は気のない返事で答えた。昨日の仕事で睡眠時間が極端に削られてしまったため話すのも億劫だ。今日は午前中で授業が終わるとはいえ、この睡魔という名の修羅をはたして乗り越えることができるのだろうか?

「ならジェネシス社の一件は言わなくても分かるよな」

 そんな蛮の気苦労を知るよしもないリーナスは、彼のチャームポイントでもある快活な笑みを浮かべながら嬉々として話を始めた。

「実はあの事件、ただの火災事件じゃないらしい」

「どういうこと?」

「これがな、どうも吸血鬼絡みの事件らしいんだ」

 リーナスは蛮の耳元でヒソヒソと話し始めた。

「……それ何処から仕入れた情報なの?」

「今朝、ラトビア警察署のサーバーにハッキングしたんだよ。警察署の中にな、間抜けなことに職場のパソコンでエロサイトの会員登録してるヤツがいてさ〜。マシンは市販のウイルス対策ソフトのっけてるだけで、楽々侵入できたってわけ。いやもうデータベースいじり放題♪」

 リーナスは陽気に笑っているが、彼はハッキングという行為が犯罪だということを理解しているのだろうか。以前、国家機密レベルの重要なデータバンクに侵入した経歴があって、下手をしたら今ごろ少年刑務所か矯正施設行きだった、と悪びれもなく語るぐらいだから自覚はないと思っていいだろう。

「それでいろいろ覗いてみたんだけだどさ〜、なんか国連とのやり取りも少なからずあったらしくて、賞金稼ぎを派遣したっていう情報も見つけたんだよ。信じられっか? あの賞金稼ぎだぜ? もしかしたらオレの憧れのダニエルかもしれねーじゃん!」

「いや……違うんじゃないかな。たぶん」

「いいや、ダニエルの可能性もあり得なくはねえよ。事実、賞金稼ぎって有名な割には数が少ないらしいからな。他にもダニエルの可能性を裏付ける理由が色々あってだな……」

 リーナスは賞金稼ぎの何たるかを語るのだが、話を振るう相手がその賞金稼ぎというのは、なかなかに滑稽な図だ。

 期待に満ちているところ悪いが、少なくとも今現在ラトビアに駐在している賞金稼ぎは、彼が羨望している人物とは違うことだけは確かだ。

 ダニエル・ローガン──賞金稼ぎという制度が発足されてから、今まで数人しか上りつめたことのない最高峰の"S"階級を手にした者である。俗事に疎い蛮でも、それくらい知ってる。

 休みの終わりを告げるチャイムが鳴った後も、リーナスの熱弁は止まらず、二限目の授業の教師が入ってくるなり、異変を感じ取ってこちらを睨んできた。なんの因果か昨日、罰として廊下に立つよう警告した教師ではないか。

「またオマエ達か……」

 リーナスは予想どおり教師に叱られ、やはりというべきか蛮も共犯扱いされた。

 罰として廊下に立たされたのは、言うまでもない。





†             †             †





「ただいま〜」

 仕事帰りのサラリーマンよろしく、蛮は疲弊したような面持ちで、仮住まいであるアパートに帰宅した。その両手には買い物袋が幾つかぶら下がっていた。

「おう、おかえり。ん? その両手の荷物はなんだい?」

「ああ、これ? アリスの服。学校の帰りに適当に見繕って買ってきた。あんな格好じゃ、外に出られないでしょ?」

 玄関先からリビングの方へ視線を向けると、椅子に腰を下ろした状態で微動だにしない少女の姿があった。大きめのセーターとズボンを着衣しているが両方とも男物だ。

「子供用の服を単身男ひとりで買いにいったのかい? ……勇者だな」

「お願いだからそれ以上言われないで、思い出すから。店員の冷ややかな視線が今でも忘れられられなくって。ああ、ただ服選びしてただけなのに突き刺すような視線が……」

 リビングに入ると初めて、蛮の存在を認識したかのように、アリスの視線が持ち上がる。

 ただいまと告げると、両手の荷物をテーブルの上に置いて、彼女の前にさしだした。

「サイズの合いそうな物を幾つか選んで買ってきたんだ。そのブカブカの服よりは幾分かマシだと思うから、良かったら着てみてよ」

「…………」

 無表情に近い少女の顔が、蛮と買い物袋を交互にみる。一切の変化がない顔から織りなす虚空の瞳が、再び蛮に向けられ──小さく頷かれた。





 洗面所から着替えを終えた少女──アリスが部屋に戻ってきた。

「へぇ、いいじゃんか」

「うん、似合ってる」

 白のセーターに、レースをあしらった赤水玉の吊りスカート。それからラトビアは冷え込むので厚手のストッキングを履かせている。その服装は、儚い様相をみせていた雰囲気をがらりと変えてみせた。

「とりあえず昼食にしようか。二人ともまだ食べてないでしょ?」

「蛮。その前に一つ見てもらいたいものがあるんだ」

 食事の準備をしようとする蛮をフロンが呼び止めた。

「見てもらいたいもの?」

「うん、とりあえずコップ一つ用意してくれるかい?」

「…………?」

 フロンの要求に従いながらも、蛮は首を傾げる。言われたとおり食器棚からコップを一つ取り出してテーブルの上に置いた。どこにでも売っている市販のガラス製の容器だ。

「アリス、さっきと同じことをしてくれるかい?」

「…………」

 アリスは一度頷くと、テーブルの上に置いてあるガラス製のコップを両手で包み込むようにして触れた。彼女のエメラルド色の瞳は、そのコップに固定される。

「蛮ってさ、握力いくつある?」

「ハッキリと測ったわけじゃないけど、たぶん、三百キロ以上はあるかな」

「オラウータン並みってどんだけ……。まあ、その程度はあるんじゃないかと予測はしてたけど。しかしキミといいあのツンギレといいホント無茶苦茶な体の構造してるな〜」

「苦言を漏らすなら、君のお師匠サマに言ってよ」

 フロンとの取り留めのない会話の直後、アリスの方に変化があった。コップに触れていた両手をゆっくりと離す動作に釣られて、蛮とフロンの会話は自然と中断された。

「さて、蛮。なにも訊かずにこのコップを取ってくれ」

「……これでいいの?」

 テーブルの上に置かれたコップをヒョイと掴む。コップの表面や底を覗いてみるが、何の変哲もないただの器だった。

「うん、それでいい。じゃあ、とりあえず握り潰してくれ(、、、、、、、、、、、、)

「………………は?」

「だから力を込めてくれって言ってるんだ」

 口調からは冗談を感じ取れなかった。とどのつまり使い魔であるモモンガは、このコップを握り潰せと言っているわけで……。

「それ……本気に言ってるの? 自慢するわけじゃないけど僕がやったら粉々に砕けるよ?」

「モチのロンだ。ささ、グイっとやっちゃってくれ。そら、早く早く」

 酌をするような態度でフロンが急き立ててくる。反対にアリスは再び目を伏せ気味に落として、我関せずといった感じだ。

「…………」

 しばらく蛮は躊躇するが、別段この程度のことで断る必要は無いと判断し、素直に指示に従うことにした。蛮はコップを掴む手に、ほんの少しだけ握力を込める。

「…………ん?」

 違和感はすぐに襲ってきた。さらに握力を込める。

「…………!」

 頬を引きつらせながら、さらに握力を込める。

「ぬ……ぐぐぐ……ぎぃぃッ!」

 めいっぱい握力を込める蛮の顔は、青筋を立てながら完全に引き攣っていた。握力が伝わるように、握り方を変えるなど工夫してみるが、手の中にあるコップは砕けるどころかヒビ一つ付かなかった。

「だはぁっ! はぁ……はぁ……はぁ……。ど、どうなってんのこれ!?」

 蛮の顔には、うっすらと汗の玉すら浮かび上がっていた。今し方の信じられない現象を鵜呑みにできず、思わずフロンに詰め寄る。フロンはというと特別驚いた様子はなく、鼻の横に伸びた髭を弄んでいた。

「ふーん、やっぱり蛮でも無理か……。こりゃ本物とみて間違いないな」

「……一人で納得しないで分かるように説明してくれないかな」

「ん? ああ、すまなかったな。ちょっとアリスの持つ"能力"を実験してみたのさ」

「アリスの……能力?」

 蛮が「君がこのコップに細工をしたの?」とアリスに問いかけると、彼女は小さく頷いてみせて肯定の意を表した。

「じつは蛮が学校に行ってる間に彼女から頼まされたのさ。『わたしの持つ力を見て欲しい』って感じにな」

「それで……これがそうなの?」

 手の中で弄ぶようにしていたコップを、蛮は物は試しといった感じで床板の上に落としてみる。だが、そのコップは真鍮の器のような甲高い音を出し、その後静止しただけだ。コップはおおかたの予想通り無傷だった。

「これって、たしかガラス製のコップだよね?」

「だった、というべきかもな。ただ現段階では物理法則を無視しているようにしか思えないから、別の力学的な現象が引き起こった可能性もある。まあ、信憑性ゼロだけど。ラプラスやマクスウェルの仕業じゃあるまいに。やれやれ、アインシュタインも真っ青だ。そこでオイラは陰秘学(オカルト)がらみかと考えてみたんだが……」

「オカルト……つまり魔術ってこと?」

 フロンの口から出た単語は、蛮にとって特に驚く要素ではなかった。現に目の前にいるモモンガは、錬金術という名の秘匿に精通しているからだ。

「特徴的には魔術工程の"強化"って行為に似ている。けど……外界のマナの流動も感知できなかったし、彼女自身がオドを放出した形跡も無いんだ。それに"強化"っていう魔術工程は物質そのものの存在値を底上げするものさ。周囲の元素霊を物質に通す以上、送り込むことのできる絶対量が決まってて限界というものが──」

「ちょ、ちょっとまって!」

 思わず蛮は、フロンにストップをかけた。

「どうかしたかい、蛮?」

「いや……魔術や錬金術の存在は僕自身で立証してるようなものだから否定しないよ。君が錬金術を得意としてるのも分かる。けど、今の説明じゃ全く理解できない。もう少し分かりやすくならないかな?」

 丁寧に解説したつもりなのかもしれないが、蛮は頭上に疑問符を浮かべる他なかった。

 首を傾げて唸る蛮を見て、フロンは肩をすくめるとゆっくり説明を再開した。

「ここにはコップという容器がある。入れるのは水だ。このコップには定められた容積があって、それ以上に水を注ぐと溢れてしまう。ここまでは分かるかい?」

「まあ……それくらいなら」

「魔術は一般人の視点からすれば非常識な現象でしかないけど、実際は魔術を行うにあたって相応の代価を払ってる。エネルギー保存の法則や因果法則にのっとり、この世の素である五大元素って代物をな。つまりだ。どんなに"強化"っていう魔術を行使したとしても、これほどの強度を持つ物質にはならないのさ」

 フロンは教師のような説明調といった具合で言葉を紡ぐ。

「なのに、このコップは下手したらダイヤモンドなみの強度を持ってる。蛮の握力にも耐えるほどの硬度だからな。それくらいだと解釈してもいいだろう」

「ダ、ダイヤモンドって……このコップが?」

「ちょっと大袈裟かもしれないけどな」

 目を剥いた蛮は、拾い上げたコップをまじまじと見る。見た目はごく普通の器であるにも関わらず、その実、こんな安っぽい代物がダイヤモンドなみの強度を持つというのか?

「普通は無理さ。"強化"の魔術を行使したとするなら等価交換を完全に無視しているし。とすると魔術というより超能力なのかな……いや、超自然的な能力に該当する以上、そんな力があるとは到底思えない……でも合成能力なら可能かも。けど、それにしたって限度があるはずだ。むしろ魔術や超能力っていうより──」

 顎に手を当てて思慮深くするフロンを見て、蛮は嘆息する。錬金術師の原動力は探求心だと彼は前に言っていた。知的好奇心をくすぐるモノが現れようなら、それを解明しようと躍起になるのが錬金術に精通する者の性らしい。

「ちなみにアリス自身にはこの能力のこと訊いたの?」

「訊いたけど分からないってさ。だから見てほしかったらしい。けど、お師匠サマあたりに訊けば分かるかもしれないな。オイラ以上に博識だから」

「……フルカネルリに? それこそ無理だよ。ニライカナイに連れていけとでも?」

 蛮は肩をすくめて、曖昧な表情をつくった。

「……どうして」

「ん?」

「どうして……怖くないの?」

 無言に徹していたアリスが、唐突にそんな言葉を漏らした。見上げてくる視線は相変わらず覇気を感じさせない。それでも問いかけてくる声音に、憂いのようなものを蛮は感じた。

「怖くないって、なにが?」

「…………」

 質問を質問で返すと、アリスはついと視線を落とした。いったい何に対して恐怖を覚えるというのだろうか。蛮はおもわず小首を傾げた。

「鈍感だな〜、蛮は。アリスは自分の力を恐れていないか訊いてるんだよ」

「え? ああ、それは十分に驚いたけど……これといって怖がるものでもないかな。こういった超常現象は小さい頃からよく目にしてたから。それに──」

「オイラもいるしな」

 フロンがビッと親指を立てるポーズをとる。その台詞に疑わない存在は、この場にある超常現象の筆頭といっても過言ではないはずだ。モモンガが人語を喋ってる時点で、蛮の非常識さが極まっているようなものだ。

 蛮はアリスに向かって微笑み、

「とりあえず昼食にしよう。お腹、空いてるでしょ?」

 小春日和を思わせる蛮の笑顔を見たアリスは、目を瞬かせつつ、小さく頷いた。





†             †             †





 昼食をすませた一行は、旧市街のメインストリートであるカルチュ通りを歩いていた。

 蛮はロングコートのポケットに両手を突っ込み、縮こまっている。その隣ではウールのジャケットを着込んだ銀髪の少女が、足並みを揃えていた。

 周囲では明日おこなわれる祭りの準備が、急ピッチで進められていた。作業服を身に包んだ建築家やら大工が、催しのための巨大な山車の作成に取りかかっている。

「アリス、寒くない?」

「……べつに」

 あしらうような感覚で口にしたわけではなく、それが彼女の素の返答のようだ。

「蛮は寒がりだからな。用事が無いときは引きこもってばかりだし」

「悪かったね、引きこもりがちで」

 蛮はアリスの肩の上に座っているフロンを睨め付けるが、特に反省している素振りはない。ここら辺で一度、主従関係をハッキリさせておくべきだろうか?

「外出したのはいいとして、これからどこに行くつもりだい? 暇を持て余すくらいならアリスを連れて旧市街を案内してあげたら?」

「一ヶ月近く滞在してるとはいっても、ガイドできるほど街のこと知ってるわけじゃないよ。新市街ならまだしも旧市街はねぇ……。気分転換がてら外に出たつもりだし」

 アパートに戻ればガイドブックの一つや二つはあるだろう。しかし今から取りに戻るのは億劫であるし、誘った身としてもアリスを道端に置いていくような真似はできない。

 新市街は吸血鬼の捕獲のために訪れる機会が多く、地理もある程度は把握している。しかし、ここからでは距離が遠すぎる。それに例え出向いたとしても、オフィスビルやらで密集している新市街では気を休めることもままならないだろう。

「フロンはどう? 案内役できない?」

「んー、最低限の観光スポットは解るけど月並みだぞ? リーガ大聖堂とかバルト記念塔とか有名処しか知らないよ。どっちかっていうとオイラの場合、歴史に関する知識の方が強いからな。この街はもともと島じゃなくて、陸続きの土地だったってこととか」

「初耳だね。どうして島扱いになったの?」

「先の大戦で攻め込んできた吸血鬼対策のためさ。簡単に説明するとだな……」

 バルト共和国はユーラシア大陸に接した国であるため、当時のベラルーシやウクライナと同様に、自ずと吸血鬼との抗争による最前線となった。特に大陸間で起きた第十回十字軍などの聖戦を始め、この辺一帯の土地は人類と吸血鬼の激戦地と化していたのだ。

 そこでリーガに住む人達は、旧市街の周囲を完全な水路にすることで水際作戦に持ち込むことにしたのだ。リーガの旧市街と新市街を結ぶピルセータス運河の幅を極端に広くすることで、彼らの侵攻を妨げようとした。吸血鬼は陽光と同じくらい水を嫌う弱点があったからだ。

 その作戦は功を奏し、水に触れることすらできない吸血鬼に対して効果覿面だった。

 西側にはダウガヴァ川が、東側には新たに造られたピルセータス運河が流れ、外部から旧市街へ向かうことは困難を極めた。吸血鬼は橋を架けたり船などで街に侵攻しようとするが、上陸戦では守備側に有利に働いたため、戦争が終結するまでの残り数年をなんとか生きながらえることができたらしい。

「……というわけだ。旧市街の建物が比較的原型を留めているのも、そういった理由があるからさ」

「へぇ、そうだったんだ」

 暫くひた歩いていると、何度か訪れたことのある市庁舎前の広場に行き着いた。

「この辺りは祭りの中心地になるから、当日は相当にぎやかになるはずだぞ」

 フロンが言うとおり、広場は表通り以上に混雑していた。広場の中央に据え置かれた石像の周囲を、準備段階の露店などが敷き詰めるようにして連ねている。

「祭りを明日に控えてるから込み入ってるね。場所変えない?」

「そうだな。じゃあ今度はリーガ大聖堂に行ってみようか」

 蛮とアリスは首肯する。一同は混雑している広場を後にした。





†             †             †





 市庁舎広場の北に位置する場所に、リーガ大聖堂と呼ばれる教会があった。

 ロマネスクやゴシック、バロックにいたる様々な建築様式が混在した外観。建物の屋根は、ラピスラズリよりも濃い藍色で統一されている。教会には高さ百メートルほどの塔が隣接しており、その屋根の上にある風見鶏が北風を受けくるくると廻っていた。

 教会の中に入ると、教壇の背後にキリストの磔象が掲げられていた。しかし、それ以上に目を引くのが、半円形の張り出し部分の壁に嵌められた四枚のステンドガラスと、左隣の壁に設置された重厚なパイプオルガンの存在だ。

「ティゼンハウゼン一家と聖母マリアを始めとしたステンドガラス群。それに世界有数の大きさを誇るパイプオルガン……よくもまあ原型を留めていられるもんだな」

 フロンが感心したように、しきりに頷いている。

「……昔、ジョンが言ってた」

 沈黙を貫いていたアリスが唐突に言った。

「……きみは創造主である神の手の内からこぼれ落ちた片翼。メシアに護られし始まりにして終わりのイヴ。よくわからないけど、その言葉は印象に残ってる」

「そういえば今朝も『ジョン』って名前を口にしてたな。誰なんだい、そのジョンって人物は?」

「…………わからない」

 アリスは小さく頭を振った。

「一人っきりだったわたしに優しくしてくれた人。ほんの一ヶ月のあいだだったけど……彼がいたから、今のわたしがある」

 ジョンと呼ばれる人物を語りかけるアリスの口元は、少しだけ綻んでいるように見えた。同時に蛮も相好を崩す。久方ぶりに見るアリスの弛緩した横顔が、懐かしく思えて──

(久方……ぶり?)

 蛮の体が、ぐらりと小さく傾いた。

「蛮、どうかしたかい? 顔色が優れないぞ」

 アリスの肩の上にいたフロンが心配そうに尋ねてきた。蛮は平然とした口調で「なんでもない」と答えるが、その実、激しい鈍痛に見舞われた。

 久方ぶりのはずがない。アリスを救ったのはつい数時間前のことで、そのあいだ彼女は一度たりとも笑っていない。ならばどうして、彼女の綻んだ顔が懐かしく思えてしまうのか?

(そもそも、どうして僕は初対面のはずのアリスを知ってるんだ?)

 昨日から立て続けに襲いかかってくる奇妙な現象は、もはや偶然とは言い難かった。体調は至って健康そのものだ。何かしらの後遺症が残っているとも考えられない。だのにアリスの言動の幾つかに、体が異常な反応を示している気がしてならなかった。

「……バンは、雰囲気が似てる」

「え?」

 唐突に隣から声を掛けられる形になり、蛮の口から惚けた言葉が溢れた。視線を横に移すと、アリスとフロンがこちらを見上げていた。

「聞いてなかったのかい? そのジョンって人物が若干だけどキミに似てるんだってさ」

「……僕に?」

 自分を指さしながら、蛮はアリスに問いかけた。アリスが確認するようにジッと視線を送ってくる。宝石を彷彿とさせる翠玉色の双眸に見つめられ、蛮は年がいにもなく目を泳がせる。

「なんとなく……けど、気のせいかもしれない」

「ちなみに、そのジョンって人物と出会ったのはいつの頃だい?」

「…………六年前」

 アリスがぽつりと呟いた。

 六年前となると、当時の蛮は十歳にあたる。その頃は『里』で、天崎流小太刀術という武術の研鑽を積む苦い日々を送っていたはずだ。

 さらに、日本の近畿地方の山奥にある『里』の周囲には他に人の住む場所は存在せず、国外は勿論のこと、蛮は外の世界というものを当時は知らない。

 初めて『里』を下りたのは、それから確か一年後のこと──訳あってニライカナイに移り住むことになったときだと思う。どう考えてもアリスと出会う機会はないに等しい。

「バンは……神様を信じる?」

「……神を?」

 アリスは頷く変わりに、翠玉色の瞳を一心にこちらへ向けていた。本来なら、彼女の機嫌を取るために気の利いた事を言うべきなのだろう。

 しかし──この時の答えは違った。

「僕は神を信じない」

 キッパリと、一変の曇りもなく蛮は告げた。色違いの双眸は、鋭利な刃物を連想させるかのように細くなり、眼前のキリストの磔像を注視する。

「神なんてものは所詮、人間がすがるもの欲しさに創り出した偶像でしかないよ。もし、本当にそんな者が存在するなら……"彼女"だってあのとき死ななかったはず──」

 ハッと我に返ったかと思うと、蛮は口元を抑えた。だが、すでに後の祭りだった。何事かと、アリスとフロンはこちらを見ている。

 向けられる彼らの視線に耐えられなくなった蛮は、

「あ……その、ごめん。ちょっと外の風に当たってくる。フロンはアリスの側にいて」

 踵を返して蛮は足早に来た道を引き返す。

 蛮は颯爽と教会から出て行った。





「……怒らした」

 教会の扉を見つめながら、アリスはポツリと呟く。

「気にしなくていいさ。ちょっと訳ありでな、キミのせいじゃないから責任を感じる必要はないよ。むしろ、蛮の方から後で謝りにくるだろうし」

 フロンが髭を弄びながら平然と言う。それだけで深い信頼関係で結ばれているのが分かる。いくばくか安堵感を覚えたアリスは、再びキリストの磔像へ視線を寄こした。

「……ジョンも、バンと同じようなこと言ってた」

「同じって、何がだい?」

 アリスは磔像を見つめたまま、聞き耳を立てなければ分からないほどの小さな声で呟いた。





「────神様が大嫌いだって」





†             †             †





「はぁ……なにやってんだろう」

 リーガ大聖堂から外に出た蛮は、教会のすぐ近くにあったドゥァマ広場に足を運んだ。

 ここでも明日の祭典の準備が行われているが、市庁舎前の広場と比べるとマシなほうだ。広場の隅っこにあるベンチを見つけ、そこに腰を下ろした。

「……ふぅ〜」

 蛮は顔を手で覆った。羞恥心からか、それとも焦燥感からなのか……正直、自分でも分からない。ましてや、過去のことを掘り返すなどという愚行を犯すとは思ってもみなかった。

(気持ちを切り替えなきゃ……こんなんじゃ仕事もままならない)

 昨夜、ジェネシス社ビルで巨漢の吸血鬼が口にしていた台詞を思い出す。

『ほかの同志が必ず、この土地で復讐を成就させる』

 それが事実なら、ビルの中にいた四人の吸血鬼の他に、別の吸血鬼がリーガに潜伏している可能性があるということだ。

 しかし現状の進み具合は、思ったほど芳しいとは言えない。バルト共和国に滞在して一ヶ月以上が経つのに、今回は昨夜の事件で初めて吸血鬼と出会したのだ。それ以外の情報は無く、他の吸血鬼がどれだけリーガに潜伏しているのかも把握できないでいる。

 蛮は途方に暮れるように溜息を吐いた。

「よう。久しぶりに会ったと思ったら随分と辛気臭ェ顔してるじゃねェか、バン」

 唐突に話し掛けてきた声の主は、ベンチの空いてるスペースにどかりと大仰に座った。足を前に投げ出して背もたれに必要以上に寄りかかる仕草が、ベンチを伝ってこちら側に届く。

 思わず蛮は苦笑した。誰何する必要もないと悟ったその口調は、自然と砕ける。

「久しぶりだね、ラグナ。そっちの方はどう? うまくいってる?」

 蛮の賞金稼ぎの相棒にあたるラグナが、ベンチの隣に座っていた。

「まあ、ボチボチってとこだな。それよか、ニュースみたぜ。ビルを一棟丸々焼き払うなんて、オマエ、相変わらず顔に似合わずやることが豪快すぎるんじゃねェか?」

 鼻先でせせら笑うようなラグナの仕草に、蛮はムッと唸った。

「失礼な、ビルに火を付けたのは僕じゃないよ。どうも吸血鬼が事前に爆発物を設置してたらしいんだ。恐らくは証拠隠滅用にだってフロンが言ってたけど」

「なるほどな。ま、今回の吸血鬼たちなら、それくらいの芸当は訳ないだろうよ」

 隣でゴソゴソと物音がする。何となしに横目で見ると、ラグナが煙草に火を付けている最中だった。火を付け終えると紫煙を燻らせる。蛮は眉をひそめた。

「まだ煙草吸ってるの? しかもアークなんとかっていうキツイやつ」

「アーク・ロイヤルだ。別にいいじゃねェか煙草吸うくらい」

「よくない、煙草なんて百害あって一利なしだよ。そもそも君も僕と同じで未成年じゃないか」

「おいおい、オマエまで堅っ苦しいこと言うなよ。うちのオヤジやフルカネルリのババアじゃあるまいに。オマエも一本吸うか?」

 差し出された煙草のケースを訝しげに見つつ、蛮は手で制して断った。

「そういう問題じゃないよ。それよりも、さっきの話どういうこと? 今回の吸血鬼なら訳ないって……」

 ラグナが紫煙を吐き出す。切るような寒さによって生じた白い息と、煙草の紫煙が混じり合ってしばらく空間に漂ったのち、周りの景色に溶け込むように消えていった。

「今回、オレたちが相手してる吸血鬼は転化する前まで『GRU』っていう軍関連の機関に所属していたらしい。詳しいことはオレのオヤジかテメエの使い魔に訊け」

 舌打ちをする相棒の横顔は、汚いものを口にするような不平不満が垣間見えた。ここにフロンがいなくて心底良かったと思う。彼らが鉢合わせになった途端、周囲のことなどお構いなしに口論が始まるのは火を見るより明らかだ。

「他にはなにかある? こっちは正直手詰まりなんだけど……」

「…………」

 ラグナは物言わず、しばらく喫煙を楽しむ仕草をしていた。やがて煙草の芯の長さが残り少なくなると、その吸い殻を足元に落として揉み消した。

「この土地に"魔術師"が潜伏してる」

「まさか……」

「残念ながら本当さ。しかも厄介なことに、今回の首謀の吸血鬼と手を組んでるときたもんだ。まったく迷惑この上ねェぜ。あとでオヤジに賞金の上乗せ請求しねェとな」

「…………」

 ラグナの辛辣な物言いを聞きつつ、蛮は静かに考える。

 今まで吸血鬼という存在を追うがてら、様々な困難に巻き込まれてきたが、この一件はその中でも更に際立ったもののようだ。

 ────魔術師。

 魔術に携わり、《結社》と呼ばれる組織から魔術師として承認された者の総称──と、フロンから聞いたことがある。計測できないモノを信じ、操り、学ぶ、現代社会とは相容れず、省かれた存在。ゆえに世に隠れ忍ぶ異端者とも呼ばれているそうだ。

 一ヶ月近く吸血鬼の探索を続けても発見できなかったのは、その魔術師が関係しているからなのだろう。後でフロンに相談する必要がありそうだと、蛮は判断した。

「それじゃあ、オレはこの辺で消えるぜ。粗方、言いたいことは言ったしな」

「もう?」

 いつの間に二本目の煙草に火を付けていたのか、それすらも既に芯が短くなっており、ラグナは無造作に捨てて踏みつけた。

「今のオレたちは赤の他人だ。必要以上の接触は危ねェ。特に今回の一件を前にしてはな」

「うん……そうだったね」

 ベンチから腰を離したラグナは、野暮な足取りでその場から離れていく。今回の件に関しては、事前に別行動を取ると決めていたのだ。特にターゲットの身辺に近い場所にいる彼にとって、今回の接触で肝を冷やしているに違いない。

(いや、神経が太いから案外そうでもないかも……)

 ふと、そのラグナの足が止まった。

「どうかしたの、ラグナ?」

 ラグナは背を向けたまま、振り返らずに言った。

「今回の一件はとにかく危険がつきまとう。気を付けろよ」

「…………」

 再び歩き出すラグナの背を見て、蛮は苦笑せざるを得なかった。

 彼らしくもない意外な一言だった。それだけ今回の敵を脅威と捉えているのか、それとも単に一ヶ月ほど離れ離れに行動していたため慣れない言葉が出たのか──とりあえず後者はないな、と蛮は判断する。

 再び歩き出したラグナの背中に向かって、「君も気をつけて」と奮起を促した。

 ラグナは応じるようにして片手を上げ、広場から出て行った。






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