気づいたときには、全てが灰色に包まれていた











 視界いっぱいに広がる、まるでモノクロ映像のような景色。

 空と地面を隔てる、地平線の先まで続く灰色の世界。

 見慣れた建物の内観は存在せず、

 変わりに現れたのがこの不可思議な空間。

 建物の外から出たことはないが、『楽園(エデン)』の図書館にあった写真とは違っていた。

 これが外の世界、なのだろうか?

 澄み渡った青空。

 視界いっぱいに広がる青海原。

 近代的な建物。

 しかし、ここにはそれらが……無い。

 上下左右に視線を巡らせても青空や建物は存在せず、

 頭上から灰の雪が、シンシンと降り続けているだけだ。

 わたしは再び視線を周りに投げる。

 銀灰色に彩られた世界は、まるで童話などに出てくる幻想的なものだった。

 ふと、両手に若干の重みを感じて視線を落とす。

 手には溢れんばかりの灰が乗っており、

 指と指の間から、サラサラと、流砂のごとく、灰が地面にこぼれ落ちていた。

 …………。

 足元にできた小高い灰の山。

 とても大事なことを忘れている気がした。

 必死に頭を捻っても答えがでない。

 むしろ記憶を掘り出すことを体が拒否しているような感覚。

 わたしの意志とは別に、早くなる動悸がそれを裏付けている。

 ────思イ出スナ。

 確か少し前まで本を読んでいた気がする。

 ────忘レタ方ガ良イ。

 そこに同じ楽園の子供達が来て、

 命令するような口調で、公園に行ってみるといいと言っていた。

 そこに面白いものがあると……。

 彼らに言われた通り、わたしは楽園の中にある公園に向かったのだ。

 ────今ナラ間ニ合ウ。

 夕暮れ時の公園は無人だった。

 天井のアーチ状の窓ガラスから降り注ぐ西日の光り。

 ────引キ返セ。

 その光が指し示すように、ブランコの側に放置したモノを照らしていた。

 わたしはソレに近づく。

 ────直視スルナ。

 一匹の猫の死骸が、投げ捨てられるようにして地面に落ちていた。

 わたしは床で身じろぎ一つしない猫を見る。

 見覚えがあるとは思っていた。

 だがその猫が唯一の心のより所だった、チェシャであることを認めたくなかった。

 ────すべて、思い出した。

 視野が暗転し、銀灰色に包まれた世界に引き戻される。

 視線を下ろせば、そこには小高い灰の山。

 とどのつまり……これは……■したに違いない。

 つまり、わたしは、彼を含め楽園にいた人達を一人残さず■したのだろう。

 すべてが一瞬にして■んだのだ。

 現実と直面し、わたしの体は小刻みに震え始め、

 空を見上げる視界は涙で酷く歪んでいた。

 胸の奥で何かが軋むような音を立て、

 それを理解したのは、ずっと先のことだった。












 ────────心が、壊れた

















【第3章 あなたは誰? / Who are you?】
















──T──



 目を覚ますと、見慣れない光景がそこにあった。

「…………」

 起床時間になったら照明が点灯するはずなのに、今回はそれがない。自分の体が横になっているところまでは同じだが、他は何もかも全てが違っていた。

 瞳を動かし視野を広げる。以前、自分にあてがわれていた部屋よりも狭い所だった。

(これじゃ分からない……)

 むくりと体を起こす。この状態でやっと部屋の全貌を捉えることができた。

「…………」

 記憶が曖昧だが、少なくとも知らない場所だ。覚えのある白一色で統一されていた部屋とは違う。まるで資料でみた一般家庭の内装そのものだ。

(……寒い)

 寒風が肌に触れ、体がぶるっと震えた。掛け布団を引き寄せると、妙な違和感を感じた。自分のいた建物の中はいつも一定の温度で保たれていた。だから掛け布団は薄い生地で十分だった。しかし、この掛け布団は何だろうか……妙にふかふかする。

(……でも、暖かい)

 久しく忘れていた温もりを感じる。緩い安堵感が体を包むようだ。わずかながら恍惚に揺れる顔を、さらに布団に埋めようとした時だった。


 ────テーブルの横に人影を見つけた。


 板床に、それも見るからに珍妙な姿勢で座り込む少年の姿があった。

「────」

 思わぬ不意打ちに言葉を失った。

 少年はこちらが起き上がったことに気づいた様子を見せず、珍妙な姿勢を崩すことなく微動だにしない。ふと、その少年の体がわずかに揺れた。

 なんだろう、と覗き込むように体を乗り出した刹那──

「えっくしッ!!」

 ──やたらと大きなくしゃみが部屋のなかに木霊した。





†             †             †





 蛮はスプーンを片手に、牛乳にひたされたシリアルを黙々と口に運んでいた。

『昨夜未明に起きた、リーガ新市街にあるジェネシス・インダストリー社のビル火災事件は、死者二十七名、重軽傷者六十二名を出し、依然多くの謎を残したまま朝を迎えました』

 テレビからは朝のニュースが流れている。レポーターの女性が、リーガの新市街の中でも一際大きな、ジェネシス社のビルの前に立っていた。コンクリートやらフレームやらが剥き出しになった貧相な外観は、昨夜の事件の深刻さがうかがえる。

『バルト連邦刑事局の発表によりますと、同社の火災の原因は配線のショートによるものと見解がなされており、事件の究明に向けて全力で捜査するとのことです。なお、テロ事件の可能性は現段階で低く、リーガ祭は例年通り行われることが正式に決定。三日間で、延べ百万以上の見物客を招来する世界有数の祭典は明日開催です』

 今日の朝食はパンの変わりにシリアル。それと剥いた果物が数種類だ。

 テーブルの反対側に座るのは昨夜の少女だ。朝食の準備をするから少しだけ待つように言い聞かせた後は一言も話せずじまい。切り出すタイミングを完全に失っていた。

 少女は黙々と、小さな口に果物を運んでいく。蛮はそれを盗み見るようにちらちらと視線を送り、シリアルを咀嚼するという行動を繰り返していた。

「…………」

「…………」

 ただ朝食を食べているだけなのに、やたらと空気が重いのは気のせいだろうか?

「お見合いじゃないんだからさ〜、黙ってないでキミから切り出しなよ」

 いつの間にやら膝の上にいたフロンがいた。肩をすくめ、呆れたようなポーズをとっている。少女からは死角になっているらしく、人の気も知らずにため息なぞ吐いていた。

「なんていうかさー、四つ五つ年下の子を意識するって正直どうよ? オイラ、使い魔として恥ずかしいんですけど」

「ちょっとまてくれ。意識してないよ。全く意識してないから」

「……あからさまに動揺してるじゃん。説得力なさ過ぎ。っていうか蛮ってロリコンだっけ?」

「違う。すっごく違う。そんな気はさらさら無い、ほんとに」

 まことに遺憾の意である。自分は決して幼女趣味など持ちあわせていない。ただ、なぜかこの少女を目の前にすると平静ではいられないのだ。

 だからそれがロリコンの気があるってことじゃ──という台詞を眼下のモモンガが囁くのだが、無視を決めこんだ。

「…………あなたはジョン?」

 フロンと小言で口論をしていた蛮は顔を上げた。対面に座る少女が、ジッとこちらに視線を送っている。翠玉色の瞳は、全てのものを引き付けるような魔性の魅力を放っていた。

「え、えっと……」

「……じゃあ……十三番目の魔法使い?」

(ジョ、ジョン? じゅ……十三番目の魔法使い?)

 蛮の頭のなかでは無数の疑問符が浮かび上がっていた。『ジョン』に『十三番目の魔法使い』……それらの単語に、何か重要な意味が隠されているのだろうかと、蛮は終始戸惑う。

「その……期待に応えられなくて悪いんだけど、僕はジョンでも魔法使いでもないよ。僕は蛮。蒼馬蛮っていう名前だから」

「……そう」

 感情の起伏が乏しいのか、落胆の台詞であるにも関わらず表情に変化が見られない。

 唐突に少女が椅子から立ち上がった。

「ど、どうかした?」

「…………帰る」

 消え入りそうな小声で言うと、少女は背を向けてトボトボと玄関先へ歩き出した。

「ちょ、ちょっと待った! いったいどこに行くつもり?」

 蛮は少女の腕を掴んで引き留めた。

 いきなり何を言い出すかと思えば帰るだって? 少女のいたビルは倒壊こそ免れたが、現状では足の踏み込める場所すら無いほど朽ちているのだ。

「帰るっていったい何処に? いまニュースで君も見ただろ。あのビルは火災で中が滅茶苦茶だ。戻れるわけないじゃないか」

「……それでも、わたしと居たら危ない」

「なぜ?」

 少女が振り返る。相変わらず喜怒哀楽のない能面のような顔を晒していた。だが、なぜか蛮には彼女が年不相応な重責を抱えているように思えた。いや違う。彼女はとてつもない罪を背負っている。

 それを知っているからこそ(、、、、、、、、、、)、憤りを感じずにはいられなかった。

「……わたしは、兵器だから──」

「違う!」

 蛮は少女の両肩を掴み引き寄せ、そして激昂した。

「アリス、君は兵器なんかじゃない! 人間だ! その事を絶対に否定しちゃ駄目だ!」

 蛮自身、なぜ昨日今日出会った少女のために叫んでいるのか理解できなかった。この少女のために必死に反論する様は、自分でも思うが明らかに尋常ではない。傍から見れば、臭い台詞を吐いている最中の三文芝居もいいところだ。

 でも体が勝手に動く。そうしなければならないと、本能が囁いていた。

「…………」

 両肩を掴まれたことで身動きの取れない少女は、初めて人間らしい感情の変化を見せた。垣間見せる翠玉色の双眸は、強烈な衝撃に打ちひしがれるように見開かる。

「……た……い」

「え?」

 少女のか細い声に、蛮は思考の海から引き上げられる。

「…………痛い」

「あ、ご、ゴメン!」

 少女の肩から慌てて両手を離す。思いのほか両手に力が入っていたらしい。少女の驚きの表情は苦悶へと変わり、そして最後はわずかに頬を朱に染めていた。

「…………」

「…………」

「ハァ〜。なんかさ、見てて恥ずかしいんですけど」

 テーブルの上に、コップに注いだ牛乳をぐびぐびと飲むモモンガがいた。それを飲み干すと、プッハー! とビールを一気飲みした後の中年よろしく嗄れ声を出した。

「………………ナニシテンノ?」

「瀬戸際に立たされた恋人よろしく、哀愁漂う瞬間に我慢できなくなってな」

 おくびを漏らし、フロンがのうのうと言った。

「……リスが…………喋った」

「失敬な。オイラはモモンガだ。名前はフロン、よろしくな」

 目の前の小動物に小さな手を差し出され、少女は動揺している。いくら感受性に欠けるとはいえ、これには驚きを隠せないだろう。人の言葉を喋り、あまつさえ握手を求められているのだから……。

「あ、ちなみに普通のモモンガと一緒にするなよ。オイラはロートリゲンモモンガっていう世界で一匹しかいない大変珍しい種であり、お師匠サマ譲りの博識で、さらに蛮の使い魔であって、キメラにも属し錬金術にも精通している高次の──」

「フロン、そこまでにしておきなよ。この子、表情には出さないけど明らかに混乱してるから」

 確かにそうだな、と素直に頷いたフロンは、何かを思いだしたように蛮を仰ぎ見た。

「なあ、今日って学校だろ。行かなくていいのかい?」

「ヤバっ。完全に忘れてた!」

 テレビの上にある置き時計を見ると、登校する時刻をとっくに過ぎていた。急いで身支度をする。だが玄関先に向かおうとした蛮の足が不意に止まり、

「でも、彼女のこともあるし。今日は休んだ方が……」

「なに言ってるんだい。昨日の今日で突然学校を休んだりしたら、敵に感づかれる可能性だってあるじゃないか。それに今日は午前だけだろ。さっさと行って、さっさと帰ってくればいい。この子はオイラが面倒みてるからさ」

 フロンの言うことも一利ある。それに、このぎくしゃくとした状況を一旦落ち着かせる意味でも、彼の案は都合が良かった。

「じゃあ、お願いしてもいい?」

「任せとけ!」

「えっと……アリス。そういうことだからもう少しだけここで待っててくれないかな? 午前中に必ず帰ってくるから。とりあえずそれまで」

「…………」

 少女は上目遣いでこちらを見るだけで反応がない。フロンが「学校で居眠りしてるのに、その上遅刻なんてしちゃ留学生の面目丸つぶれだろ?」という言葉を掛けてきたので、少女の反応を確認せずに外へと出て行った。





「それじゃあ、蛮が帰ってくるまで待とうか。とりあえず席に着いたら?」

 玄関先に向けていた視線を少女は部屋の方に戻す。目の前のモモンガの提案に従い席に着くことにした。

 それにしても──と、少女は思う。





 ────なぜ、彼はわたしの名前を知っているのだろう。





†             †             †





 路面電車に滑り込むようにして乗り込んだ蛮は、吊り輪に掴まりながら嘆息した。

 しばらく経ってから、蛮は拳を開いては握りしめるという動作を繰り返し、その一挙一動を念入りに確かめる。

(最後にメンテナンスをしてもらったのは確か半年ほど前、か)

 今朝方の自分の振るまいは一体なんだったのだろうか。らしくない言動を察したフロンが、旨く取り繕ってくれなければどうなっていたのだろうかと、内心気が気ではなかった。

 蛮は空いたもう片方の手で、ポケットからPMPを取り出す。

「…………」

 ビルの中にいた当初は記憶があやふやで、フロンの詰問に対してもいい加減に答えた。だが、いまは記憶がハッキリとしている。あの少女を救いだすために、コンピュータセキュリティを一瞬で解いたことは間違いない。

 蛮は携帯のボタンに、腫れ物に触れるような手つきで指先を近づける。指先が心なしか震えているのは、また彼が機械オンチだというレッテルを貼られているからだ。

(…………ええい、儘よ!)

 意を決したように携帯のボタンを押す。銃でも突きつけられた人質さながらに目を瞑った。

 そのまま暫く待つが反応がない。

「…………ん?」

 そろ〜り、と蛮は目を開く。手のひらの中にあるPMPはウンともスンともいわず──そして唐突にブラックアウトした。

(なッ!?)

 機械オンチであることは自覚しているが、それにしたってこんなフィクションみたいな展開があるのだろうか。電源を再びオンにしてみたり、再起動に関する手順をあらまし試してみたが結局は無駄な行為だった。

 蛮は無言のまま、手中にあるPMPを静かにコートのポケットに閉まった。

(ああ……またラグナに怒られる)

 吊革に掴まって項垂れる蛮の顔には、筆舌に尽くしがたい哀愁が漂っていた。無論、路面電車はそんな蛮の憂鬱な気持ちを汲み取ってくれるはずもなく、新市街の中心部に向かって淡々と走り続けていた。






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