「かれこれ五時間、か……」 会議室の壁に設置された時計を見て、ワイシャツの襟元をはだけさせた男がぼやいた。彼の周囲には似たような格好をした老若男女が、十数人はいる。 そこは縦横五メートルほどの広さの空間だった。絨毯が敷き詰められ、横長のテーブルと椅子が数脚置かれた、ご多分に漏れない典型的な会議室だ。 「おれたち助かるのかな?」 「そんなの知るわけないでしょ。どうしてわたしがこんな目に……。ああ、もう、誰でもいいからなんとかしてよ!」 「先輩、この状況下じゃどうしようもないっすよ。第一、犯人は吸血鬼ですよ? 死にに行けって言ってるようなもんじゃないっすか。それにこれだけ時間が経っているのに助けにくる気配がないんじゃ、どう考えたって……」 会議室に沈黙が下りた。 空調が停止してるため、場の空気が澱んでいた。それが相まって囚われの身である彼らの理性は酷く不安定だ。下手をすれば一触即発といった、重い雰囲気が立ち込めていた。 外から直接オートロックが掛けられているため、逃げ出す手段は皆無に等しい。しかもビルを占拠したのは吸血鬼だ。意気消沈する彼らの顔には、悲愴感のみが漂っていた。 …………誰か……ますか? ふと、会議室にいた何人かの社員が顔を見合わせる。外から人の声が聞こえた気がした。幻聴かと思ったようだが、少なくとも自分だけが聞き取ったわけではないと、数人の社員は疑わしげに目配せした。 「……いるなら返事をしてください。誰かいますか?」 会議室の外から聞こえてくる声は偽りではなかった。 「キミは……誰だね?」 社員の一人が意を決し、扉の前に立ち語りかけた。 「国連より派遣された賞金稼ぎです。遅くなってすみません。助けにきました」 扉を挟んで物言う賞金稼ぎの台詞に、囚われの身だった社員の瞳にみるみると生気が戻る。賞金稼ぎといえば、対吸血鬼のプロフェッショナルと謳う専門家ではないか。半ば諦めムードだった場の雰囲気は、一転して活気づき始めた。 しばらくするとオートロックが解除されたのか、会議室のドアが横にスライドして開いた。部屋に入ってきたのは一人の少年だった。 黒を基調とした身なりの少年は、辺りを見回す。 「他に人質はいますか?」 「い、いや……恐らくわたし達だけだ。他の社員は定時で帰ってると思う」 「分かりました。これからあなた達をエレベーターホールまで案内します。そのエレベーターを使って一階まで降りてください。外で警察が待機しているはずです」 「キミはどうするつもりだ?」 「まだやり残したことがあるんで残ります。それと分かる範囲で構いませんから、このビルを占拠した吸血鬼の情報を教えてもらえませんか?」 エレベーターが下っていくのを確かめた後、蛮は踵を返してホールから離れる。 「んで、次はどうする?」 「…………」 蛮は無言のまま熟考する。人質の救出という目標は、あくまでも吸血鬼の探索の手ついでだ。賞金稼ぎとして、これからより一層の慎重な行動が必要になってくる。 「カフェテリアにいた吸血鬼……おそらく僕の動向を知ってて先回りしたんだと思う。社員の情報だと管理室は敵の手に落ちてるって言うし。多分、人質を逃がしたこともバレてるはずだ」 「そこいらに監視カメラがあるからな。ってことは吸血鬼側はもう人質に用は無いって事か?」 「おそらくね。それでもビルから脱出しない理由が最上階にあるはずなんだ。もっとも、それも後少しなんだろうけど」 「なら急いで上らなきゃ駄目じゃんか。バルト共和国に来て初の吸血鬼捕獲チャンスなのに」 フロンの台詞に、蛮は気疲れしたような溜息を吐いた。 バルト共和国に一ヶ月近く滞在しているものの、今日まで何の成果も上げられていないのは蛮自身がよく知っている。フロンの何気ないであろう台詞は、蛮の心を揺さぶった。 「そうしたいのは山々だよ。けど、こっちの動向が完全に知れ渡ってるとしたら、上に行く前に気づかれる可能性が高い。警察の特殊部隊を見たでしょ? テロリスト対策を教科書通りにやるからしっぺ返しを喰らう。二の舞はゴメンだよ」 「なら、カメラの死角になる場所から上るしかないな。……非常用階段とか」 「ノー。相手は間違いなくプロだ。そんな稚拙な手が通じるとは到底思えない。ビルの構造をまともに把握してないのも痛手だね。入る前にあの警視にビルの見取り図を見せてもらえばよかった……」 「肩を落としてる暇はないぞ、蛮。残り三つの反応にこれといった動きは無いけど、蛮の話が本当ならもう逃げ出す算段くらいは打ってるはずだからな」 使い魔にせっつかれるのは不本意だが、蛮は己の思考能力をフル動員させ、妙案を編み出そうと唸り声を上げる。一対三という数的に不利な状況であるため、イニシアチブを取ることは必須。更に、すぐにでも実行に移ることのできる手段となると……。 「ん?」 蛮は一つ、声を漏らした。 「まてよ、非常階段がダメなら……」 「どうかしたのかい?」 「……この方法はどうかな?」 肩に乗っているフロンに耳打ちする。数秒間、蛮のひそひそ話は続いた。それが終了すると、聞き手だったフロンは見るからに怪訝な瞳を露わにした。 「…………マジ?」 「うん。これくらいしか方法なんて残されてないでしょう」 「いや……。それは名案というか、どっちかっていうと無謀としか思えないんだけど」 「他に方法があると思う? 敵に気づかれず最上階に行けて、かつ先手を取る方法」 「確かに主導権は握れると思うけどさ。けどな〜、それはいくらなんでも……」 「じゃあ、他に案がある?」 肩の上で今度はフロンが唸り声を上げた。腕を組んで代案を出そうと頭を捻っているが、時間も迫られている状況下では、いいアイデアなど浮かぶはずもない。フロンは戦争末期の敗残兵のように肩を落とし、 「………………もう皆まで言わない。好きにしてくれ」 ガックリとうなだれるフロンを尻目に、蛮は自らの案に納得しながら嬉々として頷いた。
体格の良いスーツ姿の巨漢は、パードレの口端が吊り上がったのを見逃さなかった。 「解読できたのか?」 「ああ、ロックが解除された。パスワード……承認。開くぞ」 眼鏡のブリッジを再び上げたパードレの視線の先で、その現象は起きた。円筒型の物質の節々からプシュー、と白煙が排出され炭酸の抜けるような音が空間に木霊する。 筒の周囲を覆っていた無機質な金属が、ガクンという重厚な音と共に、中心で二つに別れる。金属板は上下に展開を開始し、ゆっくりとその中身をさらけ出していった。 硬質化する空気。 まるで、ツタンカーメンの墓を暴くような緊張感が、その部屋を満たしていくようだった。 しかし、事態は急変を迎えた。 「ダグラス、パードレ! 無事か!?」 突如、唯一の出入り口にあたるドアが勢いよく放たれた。 部屋に入ってきたのは仲間内の一人で、ビルの管理室を任せておいた人物だ。ドアの前でアサルトライフルを左右に振って、血走った瞳を部屋の随所へ向ける。 「ここじゃ……ないのか?」 「トム、一体どうしたんだ?」 「おいおい、この部屋で銃を振り回すのは止してくれ」 三者三様の反応があったが、その中でも機転が早かったのはスーツ姿の巨漢──ダグラスと呼ばれたリーダー格の男だった。 「落ちつけ。血相を変えていきなり銃を振り回す奴があるか。一体なにがあった?」 「……賞金稼ぎが来た。相手はガキだが、足止め用に配置しておいたグールは全滅。そのうえフィンが殺され人質は全て逃がされた」 「人質にもう用はないが、フィンが殺られただと? しかもガキに?」 「ああ、監視カメラにもしっかりと残ってる。どういうわけか知らないが、その賞金稼ぎのガキはフィンが一般人を装っていたにもかかわらず吸血鬼だと見抜きやがった」 自らの過失に対して憤るように、トムという男は吠えた。 ダグラスは内心焦り始める。目的の代物はすぐにでも奪取可能だ。回収後、例の賞金稼ぎと鉢合わせになる前に、急いでこのビルを離れる必要があると判断するが── 「……ちょっと待て。そのガキはいまどこにいる?」 「それが分からないんだ! 突然、カメラの前から姿を消しやがった! だから急いでここに来たんだ!」 「なん、だと……」 ダグラスの顔が不吉な予感に強ばる。 「ほんとさ! 人質をエレベーターで逃がした後、少しの間だけカメラに映ってたんだ。なのに数分前にぱったりと姿を見せなくなった!」 「非常階段は? もしくは関係者も立ち入り禁止の建物裏側のルート──」 「どの線も無い。非常階段は各フロアに入れないようロックを掛けておいた。他のルートを使用するとしたら相応の時間が掛かる」 トムの答えがダグラスを決断へと導いた。 「なら急いでここから離れるぞ。パードレは目標の回収。トムは脱出ルートの確保を最優先に行動を──」 途中、ダグラスは言葉を切った。その一室の光明が陰りを見せたので、ダグラスはなんとなしに視線を背後の窓ガラスの方へと向けたのだ。 それは刹那の出来事だった。 フロアの一面外壁を覆っていた窓ガラスに黒い"影"が浮き彫りになる。その"影"が段々と大きくなっていく現象は、目の錯覚だとダグラスは瞬時に悟った。なぜなら、その"影"は大きくなっているのではなく、近づいてきているからであり── けたたましい破裂音と共に、ガラス窓が勢いよく割れた。 「────ッ」 ダグラスは驚愕した。 ちりぢりになって宙に舞うガラスの破片の中に、人影を発見したのだ。視線が一瞬だけ交差する。濡れ羽色の髪の間から覗く碧眼の人影は、こちらを一瞥した後、部屋の床に着地。ドアの前に突っ立っていたトムに向かって、一目散に駆け出していた。 「なっ──!」 トムの両目が見開かれる。突如として乱入してきた人影の、機敏な動きに戸惑いを隠せないようだ。銃を構えて応戦しようとするが、パードレの注意があって安全装置をかけ直していたことを忘れていたらしい。 人影は鈍い光沢を放つナイフを取りだし、トムの懐へ潜り込ませる。ナイフの切っ先は、なんの躊躇もなく胸元へ吸い込まれた。 「トムッ!」 「よせ! 目的に当たる、ここで銃は使うな!」 ダグラスが同胞の体を貫通した相手にアサルトライフルを向けるが、パードレがそれを制止していた。 痙攣を繰り返すトムをおぶさるような格好で、乱入者はこちらに視線を注いだ。真っ直ぐ投げられた、彼の左右非対称の冷淡なオッドアイに、ダグラスとパードレは静かに息をのんだ。
(作戦成功) 監視カメラが内部に行きとどいている以上、階段もしくはエレベーターなどの手段は、ビルを占拠した吸血鬼に通用しないと察していた。 だから蛮は むろんビルの正面からではなく、その背面を利用した。隣は暗闇に包まれたビルが隣接していたので、人目に立つこともない。ただ最上階まで高さがあるので、突風(加えて寒風)に煽られるという不足の事態に幾度か見舞われた。 それでも、もともと曲芸紛いのことは幼少の頃に、徹底的に叩き込まれたのだ。蛮が屋上に辿り着くまで、さほど時間を要することはなかった。 屋上にたどり着いた後は、ビルの屋上に設置された火災用放水機のホースをロープのように使って、最上階の部屋に突入したという次第である。 「さすがに吸血鬼だってこんな大胆不敵な発想は読めないさ」 肩の上でフロンが文字通り肩をすくめていた。 蛮は事切れて寄りかかってくる吸血鬼の屍体を無造作に床へ落とす。その途端、残りの吸血鬼の瞳に殺意が点火したのを見てとった。 蛮は斜に構えた。吸血鬼の数を半分に減らしただけでも僥倖だ。それにこちらとて生け捕りにする気はさらさら無い。 吸血鬼は総じて「デッド・オア・アライブ(生死問わず)」だ。灰に帰らないよう朝日が昇る前にでも、警察側に屍体を渡してしまえば報酬は得られる。 「……ん?」 ふと蛮の視線が、眼鏡を掛けた細面の男の背後へ向けられた。円筒型の筒──まるで培養槽のような器のなかに、エメラルド色の液体が隙間無く満たされ、 ────その液体に一人の少女が浸されていた。 ガラスの筒の中で漂う少女は、二次性徴を迎えていない幼さが残っていた。百四十前後の華奢な裸体の背中で、腰辺りまで伸びた髪。適度な長さにそろえられた前髪から覗かせる、伏せられた瞳。整った端麗な顔の輪郭は、液体に浸されたまま微動だにしない。 「──────」 しかしその少女を見た瞬間、蛮の心臓が飛び跳ねんばかりに動悸した。 唐突に膝が折れる。呼吸困難に陥った老人よろしく、過呼吸を繰り返し始めた。 「あ……か……がァ……!」 突然の振る舞いに、前方にいる二人の吸血鬼は訝しんでいるようだ。 「お、おい……一体どうしたんだ蛮!」 フロンが心配そうに語りかけるが、蛮の挙動は止まらなかった。 ドッと脂汗が滲み出る。床の上でうずくまり、握り拳をしきりに振るわせていた。突然襲ってきた悪寒や激痛とも違う、ある種の衝撃の波に揉まれているような気分だった。 「ふぐゥ……ウぅ……あ……が!」 衝動は一向に収まらない。 胃の中のものを全てぶちまけたい感情が体内を駆け巡る。何が起こっているのか自分でも分からなかった。培養槽のなかに収められた少女を目にした瞬間、電気ショックのような強烈な刺激が襲いかかってきたのだ。思考が正常に働かず、ろれつも回らない。 「……はぁ……はぁ……」 それでも意識が完全に遠退いているわけではなかった。こみ上げてくる吐き気を抑え、蛮はぎらついた瞳を吸血鬼へ向ける。 それを見て吸血鬼が後退った。 蛮は震える手でもう一本のナイフを取りだし、構えを正した。 「…………ろ」 蛮は小さく呟く。 「……め…………ろ」 そして体勢を低く落とし、蛮は吸血鬼に向かって突進を敢行した。 「止めろ! ────
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