日常という安寧
非日常という戦場
それは不一致の一致の永遠の連鎖



















【第1章 日常の維持 / Maintenance in daily life】


















──T──



 年末に差し掛かった神無(10)月の今日。

 長年の風化か、アールヌーボー調のアパートの一室のレンガ壁に亀裂が走っていた。そこから隙間風が容赦なく侵入してくる。

 中世ドイツの商業都市の特徴が多く残った、ハンザ同盟時代の町並み。凝った装飾で有名なバルト共和国の首都リーガの建築物への修繕費用も、さすがに一般のアパートメントにまで廻らなかったというところか。

 その部屋の床の上で坐禅を組む一人の少年がいた。

「…………」

 結跏趺坐の姿勢と、組んだ足の上で手を合わせた法界定印の型。ギリギリまで落ちた瞼のわずかな隙間から覗かせる半眼は、無心に虚空を見つめていた。

 無言のまま坐禅をする姿は洋式の内観にそぐわない。しかし少年の坐禅は堂に入っており、禅寺に住まう僧侶、もしくは如来坐像のそれを彷彿とさせた。

 日本人の少年だった。

 黒髪で中肉中背。年の頃は十五、六といったところか。外見は日本にいけばどこにでもいるようなごく普通のものだ。

 だが零度近い極寒のなか、薄着で坐禅を組む姿は大人顔負けの貫禄があって威風堂々の一言に尽き──

「へっくしッ!」





†             †             †





 見るからに古くさい電気式のストーブが、八畳ほどの部屋に備えられていた暖炉の変わりに室温を上げるが、効果はイマイチのようだ。

 その隣では、先刻まで坐禅を組んでいた少年──蒼馬蛮(そうまばん)が台所で朝食の準備をしていた。単純なハムが二枚、フライパンの上でジュウジュウと音を立てている。

「うぅ、寒……」

 蛮は鼻を啜りつつ、片手で卵二つを割り器用にフライパンの中に落とす。卵の白身がハムの上で白濁していき目玉焼きへと変化していった。

「フローン。トースター見てくれるー?」

 蛮は背後へ声を掛けた。それに反応するようにしてヒョコッと現れた物影が、食卓テーブルの上にあるトースターめがけて一目散に駆け抜ける。

 物影はムササビやモモンガを思わせる齧歯類の小動物だった。身の丈は尻尾を含めると三十センチ、といったところだろう。

「あと少しってとこだな。皿だしとくかい?」

「んー、お願いー」

「ほいきた」

 その齧歯類の動物──フロンは流暢な人語で答えた後、テーブルの上から助走をつけて食器棚へ向かって跳躍する。食器棚を器用に開けて皿を二枚取り出した。

 フロンがテーブルへ皿を置く頃には、フライパンの中にあるハム入り目玉焼きも完成していた。トースターからパンを二枚取り出し、皿の上に置く。さらにそのパンの上に先ほどの目玉焼きを載せて簡易朝食の完成だ。

「さて、と」

 蛮が椅子に座ると同時に、フロンがテーブルの上にペタンと腰を下ろした。一人と一匹は「いただきます」と挨拶をして朝食の目玉焼きトーストに齧り付く。

 飼い主とペットとは違う、どこか滑稽でシュールな光景だった。

 まるで童話のワンシーンを想起させる摩訶不思議な絵図。人の言葉を喋り、黙々と朝食を小さな身体に詰め込んでいくフロンに対し、しかし蛮は取り立てて驚いた様子はない。むしろ慣れ親しんだように平然と朝食をたいらげていく。

「そうだ。テレビテレビ」

 片手でパンを頬張りながら、蛮はリモコンでテレビの電源を付ける。チャンネルを切り替えると、タイミングよく朝のニュースが流れていた。

『お早うございます。十月十五日水曜日、朝七時のニュースです』

 イングランド、ウェールズ、スコットランド三国による散発的紛争の膠着。国連のいつもの声明。アジア大陸横断鉄道四十周年記念。レヴァナーの試合はチャンピオンリーグの決勝戦が迫っている等々──テレビに映し出されたニュースキャスターは記事を読み上げていく。

『──続いて昨今、リーガの新市街で立て続けに起きている婦女暴行による事件です』

 ほんの少しだが、蛮は眉間を寄せた。

『八月初旬から現在までに約二十六件起きているこの事件ですが、いまだに解決の糸口は掴めておりません。犯行時刻は主に真夜中。アルベルタ通りやスタブ通り近辺など深夜帯を狙っての犯行であり、警察は同一犯人による事件と見て捜査を続けております』

 ニュースに目をやりつつ、コーヒーメーカーから蒸らしていたコーヒーを取りだし一口啜る。テレビを見すえる蛮の色違いの目(オッドアイ)は、どことなく鋭かった。

「今回の相手……やっぱり今までと勝手が違うね」

「ただの暴行事件なら、大きく取りただされないことを相手はよく理解してるんだろうな。もっとも一番のネックともいえる『衝動』をどうやって抑えているか。それを突き止めるのが今後の課題だな」

 フロンは再び猛烈ない勢いで、目玉焼きトーストに挑み掛かっていた。

「バルトに来て一ヶ月半。ここまで思うように事が進まないとは……」

「なに言ってるんだい。奴らを相手にして事件が簡単に片づくわけないじゃないか。らしくないな。なにか気がかりでもあるのかい?」

「ん? あ〜、うん、まあ……。いつまでも留学生って立場に身を置かなきゃいけないと思うとちょっと、ね。最近は夜ごと探索に出てるからさ、寝不足で教師に目を付けられてるんだよ」

 嘆息してうなだれる蛮に、フロンは肩を竦める。

「やれやれ、授業中に居眠りなんて愚行もいいところだ。日頃の学問や勉強はなんのためだと思ってるんだい? 知力を鍛える意味は応用にあるっていうのに」

「……最終的にいらなくなるじゃないか」

「分かってないな蛮は。学校で学んだことを一切忘れてしまった時に、なお残っているもの、それこそ教育なんだ」

 反論の言葉を口にしようとするが、目の前のリス科の生物に口論で勝ったためしがないことに気づく。返答に窮している蛮に追い打ちを掛けるかの如く、フロンは饒舌に話を続けた。

「しっかし蛮も物好きだな。こんな朝早くからそれも極寒の中で瞑想だなんて。睡眠不足ならはぶいちゃえばいいのに」

「こればっかりはどうにもね。昔ながらの習慣というか簡単にやめられないよ。それと坐禅──言いくるめると禅は瞑想とは方向性が違うよ、禅は悟りを開くものだから」

 瞑想は本来、心を御して統一に導く──言うなれば祈りの行いだ。あくまで例えだが、神やイエスなどの姿を心の中で描く。つまり思い浮かべる修行だ。

 反対に禅と呼ばれるものは言葉や文字に囚われない行いである。何かを考えるのではなく、心を完全に無にする。それによって本能が、この世界の事物を理解する。それが悟りを開くという事柄なのだ。

「もっとも僕自身は涅槃に辿り着こうなんて思ってないけどね。ただ、急に止めたりしたら師匠の檄が飛んできそうでさ……まあ、もう死んでるんだけど」

 ハハハ、と空笑いする蛮の血の気のない顔はどことなく引きつっていた。

「ふーん、でも零度近い場所でしかも板床の上でするもんなのか?」

「本当は禅堂とかでやるのが一番だけど、そんな要求通るはずないし。それに僕の場合は精神統一の意味合いが強いから、このさい場所はどこでもいいんだよ。……止められないし」

 コーヒーを啜る蛮の姿は、どこか哀愁を帯びていた。

 以前、相棒のラグナにそのことを話したら「麻薬依存症とどこが違うんだ?」と突っ込まれたことがある。一緒にしないでくれ、と弁明したのだがその道程で「あぁ……似てるかも」と不覚にも思ってしまった。

 ……これが悟るってことなのだろうか?

「でもさー、何もこんなオンボロアパートじゃなくて、市長が用意してくれたホテルにすればよかったんだ。今のところ犯行は全部が新市街で起きてるんだから」

「それは僕も思ってた。でも分が悪いのはしょうがないよ。こういう仕事してる以上、そういった障害を克服しないといけないのは常だし。それと市長の御厚意は嬉しいけど……」

「根本的に蛮はホテル住まいがイヤなんだろ? 堅苦しいとかの理由で」

「ご明察。それにホテルってさ、セキュリティーとかしっかりしてるから操作とか判りづらくて嫌なんだよ。僕が生粋のアナログ人間だってこと知ってるでしょ?」

「あ〜、懐かしいな〜。初仕事終えたときに買ってもらった、当時最新の携帯端末機(PMP)を派手にぶっ壊しちゃったもんな。っていうかボタン何回か押しただけで壊れるってある意味才能じゃん。そんなのフィクションだけの世界だと思ってたぞ」

 君の方がまんまフィクションじゃないか、と蛮は思ったが口には出さないでおいた。

「ま、蛮の場合は育った環境があれだからな。分からなくもないけど……」

「でしょ? それに今のところここでの私生活に支障はないからね。ここには長年積み上げてきた風流っていうか趣きがあっていいじゃない」

 得心がいったように微笑む蛮を見て、フロンは一度部屋を見回した。

 手狭なワンルームには折りたたみ式のベッド、ラック付きのテレビ、タンス、食卓テーブルといった家具が敷き詰め、床に人が一人横たわれる程のスペースしかない。くわえて築何十年ときてるものだから、建て替えが必要だと言わんばかりに老朽化が進んでいた。

 フロンは蛮にジーと視線を送り、やがて胡乱げに目を細めた。

「風流っていうか、どっちかっていうとあるのは風化じゃん。レンガ壁の所々に亀裂が走って隙間風が入るし。隣人の声も駄々漏れだし。っていうかそれも睡眠不足の原因なんじゃない?」

 口元に近づけようとした蛮のコーヒーカップが止まり、その顔が凍り付く。重い空気が立ち込めるなか、その原因である蛮は暗澹とした表情を覆い隠すように両手で顔を塞いだ。

「……も、盲点だった」

 己の失態に呻く蛮を尻目に、フロンは残り少なくなっていた朝食を平らげていた。彼は食後のコーヒーを一口飲んだ後にフーと一息吐き、

「殊勝な心は時として身を滅ぼすか……。やれやれ、肝心なところで抜けてるんだから」

 物覚えの悪い友人を窘めるようにして、フロンは一言付け加えた。





†             †             †





 リーガはバルト海に面する北東ヨーロッパ、バルト共和国の首都で国内では最も歴史の長い島地の都市である。

 リーガ湾に流れ込むダウガヴァ川の左岸に位置する同国最大の人口を持ち、毎年ヨーロッパをはじめ、アジアからも数多くの観光客が訪れることで有名な都市だ。

 特に圧巻なのは二十一世紀初頭の"先の大戦"後も奇跡的に残ったロマネスク、ゴシック、バロックなどのアールヌーボー調の一部建築物だ。これらは世界遺産に登録されており、今もなおその芸術的な姿は一目みるだけの価値がある。

 もっとも、それらは蛮にとっては、すでに見慣れた景観であり、強い感動を覚えることなく欠伸をこさえる始末だった。

「ふぁ〜。……眠い」

 ロングコートのポケットから手を抜き、蛮は欠伸を噛み殺す。もう片方の手は路面電車の吊革に掴まっていた。

 蛮を乗せた路面電車は旧市街から、ピルセータス運河の上を渡り新市街へと移動する。アールヌーボー調の建物が軒を連ねていた視界には、いつしか無機質な高層ビル群が並ぶようになっていた。

 昔は旧市街と同じようにモダンな建物が並んでいたそうだが、"先の大戦"で大半が倒壊。国家同士の併合もあり、再建と同時にIT産業に力を入れ始めている。カルヴァラ王国の独擅場と言われていた携帯端末機市場も、今では双璧をなすまで成長を遂げた。

 蛮は何となしに路面電車のガラス窓ごしに空を見上げる。巨大広告が立てかけられたビルの更に上では、灰色の曇り空が燻っていた。絵の具で塗りたくったような鼠色の天頂は、蛮の気分を凹ませるのに十分だった。

「……鬱になりそうだ」

 フードからひょこりと、フロンが顔を出した。

「元気だすんだ、蛮。明後日は久々に快晴らしいからな」

「ってことは明日は曇りか」

 先ほどのアパートの一件がよほど堪えているのだろうか。ボーとした曖昧な姿勢は見るからに倦怠感が丸出しだった。

「もうすぐ大きな祭りがあるじゃないか。仕事を忘れて少し気晴らしでもしたら?」

「ん? ああ、そっか。今週だったね」

 生返事した蛮は外を見渡す。新市街の街灯や看板、ビルの広告には一つの行事に関する情報が大々的に張り出されていた。

 『過越(リーガ)祭 10/17(金)〜10/19(日)開催』

 同じ電車の中にいる二人組の女子学生も、それらの広告の内容を見て会話を弾ませていた。今週末から始まるリーガ祭りが楽しみなのだろう。

 蛮のアパートは旧市街にあるため、否応にもそれら祭りの準備が目立つ。早朝から機材を積んだトラックがアパートの前にある狭い道路を行き交い、出店などの屋台骨を組み立てる金槌の打つ音が響いていたせいだ。

「祭りね……。ラグナの事も考えると、自分だけ遊びに行くのはさすがに気が引けるな」

「フンっ。あんなツンギレ放っておけよ。少しくらい羽を伸ばしたってバチは当たらないさ」

「……ツンギレって」

 相棒のラグナとフロンの不仲はいつものことなのだが、そこまでぞんざいに扱うのはどうなのだろうか。それに、いつも両者の延々と続く口喧嘩を止める緩衝材ないし、仲介人の自分の身にもなってほしいと蛮は心底思った。

(まあ、あり得ないけどね……)

 平気を装うのも辟易してきた蛮は、再びため息を吐く。

 無機質の塊である路面電車は、そんな蛮の暗鬱な思いを汲み取ってくれるはずもなく、新市街の中心部へ向かって淡々と走り続けていた。






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