〈9〉



  黄昏れるには、まだ幾ばくか余裕のある時間帯──。

  山奥へと訪れたマリアは、ヒューゴが居座っていた小屋の中を再度探索していた。

  しかし結果は言うまでもなく成果無しだ。何一つ遺留品らしきものは見つからなかった。
 というよりも、一組の机と椅子しかない部屋からめぼしい物など見つかるはずもない。

  盗人でも忌避しかねない無味乾燥な小屋からでたマリアは、近くにあった切り株に腰を
 下ろした。

「ハァ……」

  自然とため息がこぼれる。このままでは、なんの成果も得られないままメトロポリスに帰
 郷する羽目になりそうだからだ。

「ねえ、セロン」

〈あ〜〉

「昨日見たアレ……なんだったのかしら?」

  思い出すだけで身震いしてしまう。

  昨夜、屋敷の地下で見た巨大な『影』。鳥類を彷彿とさせる頭部は印象に残っているのだ
 が、そこから下半身を見忘れてしまい、いまになって悔やんでいた。

〈暗くてよく見えなかったから、何とも言えないな〜〉

  セロンの諦めムードの漂う声色に、マリアは顔をしかめた。パターデルに来てから、やた
 らとセロンの倦怠感の漂う姿勢が目に付くからだ。

  錬金術や"探し物"が絡むと一転して探求心に熱が入り、血気盛んな態度を見せる。信じら
 れないかもしれないが、それが普段のセロンなのだ。

  しかしパターデルでは、その錬金術や《秘法》が絡んでいる可能性があるにも拘わらず、
 何もないことをすでに悟っているかのような、自堕落な雰囲気を醸し出していた。

〈これからどうするつもりだ? まさか、またあの屋敷に侵入しようなんて考えてないよな?〉

「別に……そんなことは考えてないけど」

  どっちつかずであったためか、思わず上擦った声を出してしまった。

〈ならいいが、余計な詮索はするなよ。下手をしたら自分の身が危険にさらされることだって
あるんだ。お前はその辺を軽視する傾向があってだなぁ──〉

  またセロンの忠告が始まったと言わんばかりに、マリアは再びため息を漏らす。

  しかし成果が見られない以上、この地に長居するのは得策ではないのは確かだ。メトロポ
 リスに帰ろうかな、と思案していたマリアの耳に微かな物音が聞こえたのはその時だった。

  山道の方からからザッザッと響くのは足音だ。エルミナだろうか、とマリアは立ち上がる。

  しかしそこに居たのは──

「……メリィ?」

「おねえちゃんが……。エルミナおねえちゃんが……」

  山道を登ってきたのはエルミナではなく、涙ぐんだ瞳をこちらへ一心に向けるメリィだった。





「ど、どうしたの、メリィ? ほら、泣いてちゃ分からないから。落ち着いて、ゆっくり話し
て。ね?」

  咽び泣くメリィをマリアはなだめる。

  山を登ってくる途中で転けたのか、着ていた服が泥や砂埃で塗れている。膝に擦り傷がで
 きており出血していた。何事かと、マリアは彼女を落ち着かせてから訊くことにした。

「おねえちゃんが一人で屋敷に行って、帰ってこないの」

「エルミナが? 一人で? それよりもどうして屋敷に行ったこと知ってるの?」

「……学校帰りに、おねえちゃんと会ったから。アンディおにいちゃんに、話があるからって。
だから『家でお留守番しててね』って、言ってた。けど、屋敷に近づくのは危ないって、前に
も言ってたから……もう何時間も帰って、こないし」

  ぐずるメリィの高ぶっている感情を和らげようと、マリアは彼女を抱きしめる。直接、屋
 敷を尋ねる勇気がなくてここまで来たのだろう。

  胸の内で嗚咽を漏らす彼女の華奢な体。こんな小さな体でここまで登ってきたのか、とマ
 リアは驚嘆し抱擁する力を強めた。

  それと同時にマリアは静かに思考する。

  もしかするとエルミナが言う村人を襲っている『化け物』と、昨夜に自分が見た巨大な『影』
 は同一のものではないだろうか?

  彼女は黒幕が誰であるか知っていたうえで、自分に警告を発していたのかもしれない。

  所々で見せていた彼女の真摯な忠告は全て、この事件の全貌を知っていたからだと考え
 れば納得がいく。

(とすると、やっぱり犯人は……)

  おそらくはアンディという男の人だろう。エルミナと幼なじみだけという関係以上の何かがあ
 ると、自身の女の勘が訴える。

  彼女はアンディのしでかしている不祥事を止めねばと、単身屋敷へ向かったのではないだ
 ろうか?

  そして屋敷の内部で見た大量の愛玩動物らしきもの。あからさまに自然界の生き物でもない
 ものが混じっていた。

  エルミナはそれを忠告しようとして、捕らえられたという可能性も考えうる。

「メリィ。あなたはこのままお家に帰って、エルミナが言ってた通り他の子たちと一緒にお留
守番してて」

  白墨を取りだし地面に錬成陣を描きながら言葉を囁く。幾つもの憶測がマリアの頭の中で
 飛び交うが、一つだけやるべき事がはっきりとしていた。

「マリア、おねえちゃんは?」

「エルミナを迎えに行ってくる。泊めてもらったお礼もしなくちゃね」

  愛嬌のある笑みをメリィに向け、マリアは錬成陣を描き終えた。

  そこにメリィを乗せる。淡い白色の光が、仄かな熱を帯びつつ彼女を包み始めた。





     *     *     *     *     *





  メリィを孤児院へと連れ帰り、マリアは問題村外れの屋敷の前にきていた。

  山を下る途中、使用した錬金術のことでメリィにあれやこれやと、熱心に訊かれたのだが
 ……ここではそれを割愛する。

  やはり錬金術を易々と人目にさらけ出すのは宜しくない。内気な少女すら魅惑し興奮させ
 る魔力があった。

  マリアは屋敷の門の前で仁王立ちしながら、

「さて、どう動こうかしら……錬金術で門を壊して突破するなんて出来ないし」

〈諦めて帰るに一票〉

  策を練っているマリアにセロンがボソリと呟く。

「あのねぇ……エルミナたちが捕まってるかもしれないのよ? 助けようとか思わないわけ?
村人だって化け物に襲われて困ってるのに」

〈厄介ごとに巻き込まれるのはゴメンだからさ。利益無しに誰かを助けるなんて、俺の性分に
合わん。正義のヒーローなんてガラじゃないんでね〉

  お前みたいにな、と付け加えるセロンの飄々とした口ぶりに思わずムッと唸る。

  正義のヒーロー呼ばわりされるほど善良な人間ではないが、悪事を見て見ぬふりするよう
 な真似事はできない。

  エルミナの身に危険が迫っているから自分は助けにいく。ただ、それだけのことだ。

〈で、今回も不法侵入か?〉

「まさか。こんな時間帯からそんなことできないわよ。普通に話し合うわ」

〈えらく殊勝だな。どんな心境の変化だ?〉

「普通よ普通。エルミナを返してもらうだけだし。盗みに入るわけでもないから、いきなり襲
いかかってくることもないでしょ」

  門に取り付けられた呼び鈴を鳴らす。しばらくすると、屋敷の方から人影が近づいてきた。
 紫紺のローブを身に纏ったあの男性だ。

「なにかご用でしょうか?」

「ここにエルミナっていう女性が訪れたと思うんですけど、知りませんか?」

「その様なお方は存じ上げません。お引き取りくださいませ」

  ローブ姿の男性は嗄れた声で、マリアの台詞をにべもなく拒絶し屋敷の方へと翻す。やは
 り、そうは問屋が卸さないようだ。

  しかし、いまのマリアにはそれすら覆す会心の一言が残っていた。

「もし彼女に会わせてくれないなら、ここの村人全員に言うわよ。夜な夜な起こっている事件
にあなたの主人が関わってるって」

「…………」

  ローブ姿の男性が背後がこちらを振り返る。若干の険を込めた視線を投げかけてくるが、
 マリアは唇の端を上げて笑みを作り、余裕の体を見せつけた。

  エルミナに会わせてくれないことは想定の内に入っていた。そのためにも保険を残してお
 いたのだが、思いのほか効き目は大きかったようだ。

  ローブの男性はしばし考え込むように黙り、やがて──

「……主人がお待ちです。どうぞ」

  と、苦虫を噛みしめたような口もとをローブの端から垣間見せて呟いた。





  導かれるままに案内されたのは、かなりの面積を誇る縦長の大広間のような場所だ。紫紺
 のローブの男性は「いま主を連れて参ります」とだけ言い残し、その場から姿を消した。

  頭上の連ねる全開にされた天窓とシャンデリア。壁にかけられた絵画の数々。そして端か
 ら端まで五メートルはくだらないテーブル。これが食卓だとしたら恐れ入る。

  ここに来る途中、庭園をもう一度確認したのだが、セロンの言っていたとおり荒れ果てて
 いた。それどころか屋敷内部にも、やはり使用人らしき人影が見つからないのだ。

  懐疑的な視線を四方に巡らせていたとき、眼前にあるもう一つの観音開きの扉がゆっくり
 と開いた。

「これはこれは、美しいお嬢さんだ」

「……あなたがアンディ?」

  紫紺のローブの男性を付き添わせながら、扉から出てきた青年が優雅な笑みを湛える。

  オールバックに撫でつけられた金髪。高級感漂わせるベストとズボンに身を包んだその青
 年は、マリアの問いに恭しく答えた。

「いかにも。この屋敷の主、アンディ・ドナーは僕のことだ。僕を知ってるということは、以
前にお会いしたことがあるのかな?」

「いいえ、無いわ。エルミナから聞いたのよ」

「そうか……彼女から」

  何かを想起するようにして、アンディの視線が揺らいだ。

  しかしマリアは彼の思考など意に介した様子もなく、邪険に扱うような鋭い視線をテーブル
 を挟んだ先にいる彼にぶつける。

「痛い目みたくなかったら、今すぐエルミナを解放しなさい。この村で起きている事件の首謀
者があなただってことは割れてるのよ」

〈ちょ、直球ど真ん中できたか……こいつ真性の馬鹿だ〉

  マリアの豪胆な発言にセロンは嘆いた様子だ。

「君も彼女と同じ事を言うんだね。心配しなくていい。僕のペットは決して身勝手な行動は起
こさないよ……丹精こめて錬成し作り上げたんだから」

  強気な姿勢を見せるマリアに、しかしアンディという青年は悪びれた風もなく、その宣告
 を一笑に付してしまった。

  だがそれ以上に、いまの台詞にマリアは違和感を感じずにはいられなかった。

  彼は"錬成"という言葉を口にしなかったか?

「まさか……あなたも錬金術師なの?」

  予期せぬ事態に目を瞠るマリア。

  動物同士を組み合わせたような奇異なものを見て、動物実験が成されていたという考えが
 浮かばなかったわけではないが、そこに錬金術が介入していたことまでは読めていなかった。

「ほう、錬金術師と聞いて驚きも困惑もしないとは……。しかも、『あなたも』ということは、
君も錬金術師なのかな?」

  動揺の色が次第に濃くなっていくマリアの相貌を見て、アンディが薄く笑う。攻守が逆転
 された瞬間だった。

(……もしかして墓穴掘っちゃった?)

  蛇に睨まれた蛙よろしくマリアはたじろぐ。

  アンディはあざ笑うかのような視線を送りつつ突如ゆびを器用にパチンッと鳴らした。

  次の瞬間、全開にされていた頭上の天窓から鳥の羽撃つような音が一斉にマリアの耳朶
 に響く。

  しかし開けっ放しの天窓から飛来してきたのは鳥などでは無かった。

「あれって……まさか昨日見た『化け物』!?」

〈どうやら当たりのようだ〉

  鷲を彷彿とさせる頭部の下にあるものは、あろう事か獅子を思い起こさせる四足動物のそ
 れなのだ。さらに胴体の背の部分から巨大な両翼が生えている。

  上空から舞い降りてきた『化け物』は、四つ脚の先にあるかぎ爪を天窓の縁に引っかけ、
 大広間へと侵入してきた。何匹かが翼を巧み操って空中で漫然と飛び交っている。

  『化け物』の鋭い眼光は全て、敵意を燃やしマリアへと注がれていた。

「紹介が遅れたね。彼らはグリフォン。僕の可愛い可愛いペット達だ」

  恍惚とした顔を上空の『化け物』──グリフォンに向け、両腕を大きく広げ愛玩を自慢す
 るかのように告げる。

  しばらくしてから、グリフォンの飛び交う光景を堪能したか、アンディはゆったりとした動作
 で端麗な顔を下げた。

「村の住人でもない君が、エルミナを助けようとする行為は賞賛に値するよ。けど、僕から言
わせてもらえばそれはただの愚行だ。勢いに任せて乗り込んでくるなんて、常識では考えられ
ない。お人好しにもいいところだ」

  敵愾心を燃やした瞳を向けつつ、「そんなことは分かっている」と胸中で呟く。

  自分がお人好しの分類に入っていることは重々理解している。それでも眼前に困っている
 人がいたら助けに入るだろう。例え、自分の身に危険が迫るとしてもだ。

  ──セロンがそうであったように、、、、、、、、、、、、、自分もそうでなければならない。

  大広間に緊迫感が漂う。形勢はあきらかにこちらが不利だ。

「無駄な抵抗をする前に降参したまえ。そうすれば痛い目に遭わずに済──」

「嫌よ。さっきも言ったでしょ。大人しくエルミナを解放しなさい!」

  頭上で飛翔しているグリフォンにも怖じけずマリアは毅然と叫んだ。

  しかしその物怖じない態度はこの場では逆に働いてしまったようだ。彼女の強固な意思が
 気にくわなかったのか、アンディが目を細め鋭い眼光をこちらへ投げかけてくる。

「ならば……少しお仕置きが必要のようだ。──行け」

  片手を持ち上げたアンディは呟き終えると、すっとその手を下ろす。

  その瞬間、頭上で待機していたグリフォンの群れが一斉にマリアへと飛来してくる。銃器
 の弾丸のごとく一直線に迫っていた。

〈これだけの相手お前じゃ無理だ! いったん逃げろ!〉

  マリアは背後にあった扉を開けて、脱兎の如く駆け出す。

〈廊下側の通路へ行け! 手頃な部屋に入って急いで『転換』の錬金術の用意をしろ!〉

「分かった!」

  玄関先にでたマリアは外へと向かわず、廊下の方へと方向転換。昨夜、忍び込んだときに
 通った横幅の広い通路を駆け抜ける。

  走っている最中、壁際に扉を発見した。いまは錬成陣を描くための時間を稼ぐためにも、
 隔離された部屋が必要だ。マリアは扉の蝶つがいに手を掛けるが──

「う、嘘でしょ!? こんな時に鍵が掛かってるなんて!」

〈横に飛べ!〉

  セロンの声に反応して、咄嗟に己の身を横へと投げ出す。一秒前まで自分がいた場所をグ
 リフォンがもの凄い勢いで通過し、そのまま扉をぶち破っていた。

「──っ!」

  パラパラと破壊された扉の木片が床を打つ音は酷く生々しく感じた。自分がそこに立って
 いたときの事を考えるとゾッとするような光景だ。

「クアアアアァァァァ──!」

〈立ち上がってすぐ走れ! 他にも追ってくるぞ!〉

  しかし考え込んでいる時間は与えてくれないようだ。つい先ほどまで自分が走り抜けてい
 た通路を何匹ものグリフォンが飛翔してくる。

  目標は言うに及ばずマリアだ。体中に戦慄が血流のごとく走るが、いまはその事をとやか
 く言う暇はない。立ち上がったマリアは一心不乱に走り始めた。

〈こいつら……お前を喰い殺す気だ〉

「じょ、冗談でしょ! 幾ら何でもそこまで──」

  アンディの台詞からは捉えるとだけ聞こえた。しかし、セロンの指摘した通り彼らには明
 確な殺意がある。肉食獣さながらの獲物を目の前にした捕食者のそれだ。

  だがここにきて生物としての優劣の差が顕著にでていた。マリアの逃げ足では、グリフォ
 ンの追跡を振り切れなかったのだ。

「クアアアアァァァァ──!」

〈来るぞ! 今度は左からだ!〉

「く……っ!」

  二撃目もセロンの合図と共に回避したが、これだけ群れをなして襲いかかってくる怪獣の
 魔の手を全てかいくぐるなど不可能だ。

「こんなところで──」

  だからこそ機転を利かせる必要があった。胸ポケットから白墨を取り出すと、絨毯の敷か
 れた床に強引ながらも錬成陣を迅速に作り出す。

  円と五芒星を描いている刹那、一匹のグリフォンが立ち止まっているマリアを見て、好機
 と取ったのか一直線に飛来してくる。

「グアアアアァァァァ──!」

「──死んでたまるかあッ!」

  あと少しでも早ければ、そのグリフォンは今頃マリアの人肉に有りつけていたかもしれな
 い。だがその狙いは儚くも叶うことはなかった。

  ──横幅の広い回廊に爆発音が響いた。

  閃光が迸り、轟音がその場にいた全ての者の耳朶に響く。ゴゴゴゴン、と瓦礫の崩れるよ
 うな音が木霊し、廊下の天井が倒壊してそのグリフォンを押しつぶしていた。

  マリアの体も爆風の反動で、爆発地点から数メートル距離の離れた所で尻餅をついていた。

「よっしゃあっ!」

〈よくねえ! 下手したら死んでたぞ!〉

  ガッツポーズを取るが、セロンが真っ向から否定してきた。

  『分離』の錬金術の失敗を逆手に使った手段は確かに危うかった。場合によっては自分も、
 瓦礫の下で絶命しているグリフォンと同じ末路を辿る可能性があったのだ。

  眼前で粉塵が舞う最中、他のグリフォンが警戒しながらもマリアを捕捉しようと接近を試
 みている。しかし、それでも扉を調べる若干の猶予は残されていた。

  立ち上がると、すかさず等間隔に並んだ扉の蝶つがいに手を掛けて開くかどうか調べる。

  この行動を何度かくり返していると、運良く鍵のされていない部屋にたどり着けた。が、
 勢いがよすぎたのかマリアの体が廊下から一室の方へと前のめりに倒れる。

  急いで立ち上がり翻ると、グリフォンが強襲してこられないように扉をしめて施錠をした。
 マリアが一瞬だけ、安堵するように扉にコツンと額をつけた刹那──


  ゴガンッ!!


  ──という鈍い音を立てながら、顔の横を鋭利な何かが通過していた。

  扉を破砕したそれは紛うことなくグリフォンの嘴だ。頬にかすり傷一つできなかったのは
 僥倖としか言いようがなかった。

〈グズグズするな、急げ!〉

  反論している暇などない。扉一枚では時間稼ぎも甚だしいが、それでも錬成陣を描き上げ
 るには間に合う、と己に渇を入れる。白墨を取りだしマリアは錬成陣を描き始めた。

〈落ち着いてやれよ……失敗したら一巻の終わりだ〉

  廊下側から扉を破壊しようとする嫌な音が響く。畏怖しつつもマリアは慎重な手つきで描
 き終えた円と五芒星の外縁に、ゲマトリア語を綴りにかかった。

(大丈夫……落ちつけマリア)

  自分に言い聞かせるように心の中で囁く。マリアは『治癒』という錬金術のほかに、もう
 一つまともに扱える錬金術が存在した。

  それが『転換』の錬金術──この状況を打破できる唯一の切り札。

  扉からグリフォンのかぎ爪が飛び出し、鋭い眼光が隙間からマリアを射抜く。刻一刻と近
 づいてくる死の足音。諦めて身を委ねてしまいたいという感情が芽生え始めている。

  ──こんなところで挫けてたまるか!

  逃げることは死を意味する。それだけは決して許されない。動悸の激しくなる鼓動に引き
 つけを起こしそうになりつつも、マリアは『変換』の錬成陣を描き終えることができた。

  急いでマリアは、その錬成陣の中に身を収める。

  ほどなくして扉がぶち破られた。グリフォンの群れが一斉に襲いかかってきた。





     *     *     *     *     *





  大広間で待機していたアンディは、十分を超えてもまだ戻ってこないグリフォンに眉を寄
 せていた。

  複数による強襲ならあのような少女を捕らえるのに、それほど時間は掛からないはずだ。
 だがペットたちは一向に戻ってくる気配がない。

「クリストファー……なにか問題があったと思うかい?」

「いえ、その様なことはまずあり得ませぬ。彼らは怪我を負わさずに捕らえることが苦手ゆえ、
若干の苦戦をしいられているのでしょう」

「なるほど、確かにそうだ」

  アンディは付き人の声に納得するように頷く。エルミナもあの少女も、ペットのグリフォ
 ンたちが村人を襲っているなどという苦言を漏らしていたがそんなことはない。

  彼らは自分に忠実で命令には絶対服従なのだ。それなのに、なぜ彼らが悪いように言われ
 なければいけないのか、アンディには理解できなかった。

(なら、分からせてやればいい)

  エルミナと、そして捕らえた後の少女の二人に、自分のペットの素晴らしさを教えてあげ
 よう。そしてこれを機に村人たちにも披露すればいいのだ。きっと彼らもグリフォンの忠実
 さとその威風堂々とした佇まいに惚れ惚れするにちがいない。

「どうやら戻ってきたようですな」

  クリストファーの言葉に一時思考を中断させる。目の前の観音扉が半分だけ開き、そこか
 らグリフォンが顔を覗かせていた。

「お帰り君たち。さあ、こっちへ来て──」

  両手を広げて彼らを迎えようとしたアンディの顔が、突如として零度単位の部屋に放り投
 げられたかのように凍り付いた。何かが……半開きの扉から投げ出されたように見えたのだ。

  まるでスローモーションのようにゆっくりと時が流れる。気づいたときには、グリフォン、、、、、
 の頭部のみ、、、、、が放物線をかくようにして眼前のテーブルに墜落していた。

「────」

  そのままゴロゴロと転がるようにして、アンディの立つ場所まで寄ってくる。下半身のな
 いグリフォンの頭部は舌をだらしなく外に垂れ流しながら、白目を剥いて絶命していた。

「こ、これは……」

「だから、深追いするなって言ったのに。ったく嫌になるぜ」

  テーブル掛けに血の染みを作るグリフォンの死骸に目を向けていたアンディは、扉の方か
 ら聞こえた声に反応して勢いよく顔を上げた。

  いつの間にか全開になっていた観音開きの扉の前に、独りの少年が佇んでいた。

  青年へと成長する段階の微妙な年頃の男児は、他人様の家に泰然とした態度で土足で上が
 り込んだだけではなく、挨拶もなしに気怠げに髪を掻きむしっていた。

  突如として現れた少年は何者だろうかという疑問を抱くまえに、屍となった自分のペット
 が彼に殺されたのかという憤怒が胸の内を満たしかける。

「君は……誰だ?」

  疑惑三割怒り七割。

  赫怒に彩られた顔を隠そうともせず、アンディは目の前に忽然と姿を現した少年に詰問調
 で問いかけていた。見かけたことのない少年だ。おそらく村の者ではないだろう。

  しかし少年は悠然とした態度を崩すことはなかった。片方の手を腰にやりつつ、にやりと
 口の端を持ち上げアンディの問いに対する返答を返す。

「アルケミスト……」

  その黒髪黒眼の少年は戸惑いを隠せないアンディに向かって、さらに言葉を紡ごうとする。
 冗談でも揶揄するわけでもなく、毅然とした態度でその一言を付け加えた……







「…………錬金術師さ」








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