〈3〉



  気を取り戻したマリアは、自前のワンピースに着替えていた。普段ならこれにジャケッ
 トを羽織るのだが、今は必要ないと感じて椅子の上に置きっぱなしだ。

  部屋を出て階段を下り、エルミナに言われたとおり大広間へと向かう。

  廊下を歩いている途中、ふと何やら慌ただしい物音が聞こえてきた。眼前の──大広間だ
 と思われる場所から喧噪が響いているのだ。

「何かしら?」

  恐る恐るといった様子でマリアは、喧噪の渦へと近づいていく。騒がしい雑音の連なりは
 彼我の距離が短くなるにつれ大きくなった。

  大広間の手前で一度止まり息を凝らす。部屋と廊下の仕切りに垂らした布を潜り、マリア
 は大広間へと足を踏み入れた。

「…………なにこれ?」

  一瞬、阿鼻叫喚の地獄絵図にさえ思ってしまった。

  しかし、よく見てみると数人の子供が食卓を囲み、目の前にある食べ物に群がっているのだ。

  それを微笑ましいと感じることが出来なかったのは、凄まじい勢いで食べ物を取り合って
 いる少年少女たちの鬼気迫る形相と動きにあった。

「それボクの!」
「まって! それ半分寄こして!」
「これも〜らい!」
「あー! あたしのハムー!」

  熾烈な戦いだった。

  食器がガチャガチャと騒音よろしくやかましい音を立てる。

  食べ物が勢いよく宙を飛び、それを子供達がフォークで突き刺しにかかる離れ技をしての
 ける光景が、目の前で繰り広げられていた。

  修羅という争いがあったとしたら、これがそうではないのだろうか? と、マリアは半分
 本気で考えてしまった。弱肉強食をここまで具現化した光景は初めてだ。

〈さしずめ食事処という名の戦場。これじゃあ"戦わざるもの食うべからず"だな。がんばれよ
マリア、俺のためにも〉

「さっきのこと、まだ根に持ってるなんて心意気が小さいわね」

〈あれを恨まない人間がいたら、ぜひ紹介してもらいたいね〉

  皮肉の応酬をいったん打ち切る。これ以上周りの人から怪訝な瞳で見られるのは避けた
 いからだ。

  台所にいたエルミナが座ってと促してきたので、適当に空いている席を見つけたマリアは
 椅子に腰を下ろす。

  マリアは隣の席を一瞥した。

  そこには目があった瞬間、一目散に逃げてしまったあの少女──メリィがいた。目の前で
 繰り広げられる激しい戦いを、垂れ目気味の瞳で眺めていた。

「お姉さんが取ってあげようか?」

  さきほどの汚名返上とばかりにマリアが積極的に話しかける。何気なく言ってみた台
 詞は、しかし少女の耳には届いていないようだ。

  ジー、と眼前を見据えたメリィという少女は、こちらに気づいた様子もなく荒れ狂う食卓
 にのみ視線を向けていた。そして──

「「「「あぁ〜〜!?」」」」

  それは転瞬の間だった。

  分厚いハムの載っかった小皿が、いつの間にかメリィの手元にあり、それを見た他の
 子供達が残念そうに嘆いていた。

  寄って集って取り合いをしていた分厚いハムを、一瞬の隙をついて掴み取ったのだ。

  瞬きをした刹那の出来事。あまりの速さにマリアは呆然とするほかなかった。

「………………どうぞ」

「あ……ありがとう」

  静かに差し出されたその小皿を、マリアは頬を引きつらせながら受け取る。彼女だけ蚊帳
 の外だと感じていたのだが、それは間違いだったようだ。

  さながら孤高の狩人。

  人は見かけによらないな、と小柄な少女を見下ろしながらしみじみ思った。

「……………………」

「え、えっと、まだ何かある?」

  食べ物の載った皿を受け取った後も、何故かメリィはマリアを見上げている。嫌われてい
 たわけではなさそうだ、と内心安堵しながらも、真っ直ぐ見つめられると居心地が悪い。

「………………どうしたらおねえさんみたいに綺麗になれますか?」

「…………はい?」

  未だに子供たちの喧噪で大広間はごった返していたが、メリィのか細い声は、しっかりと
 マリアの耳に届いていた。

(綺麗? 誰が? まさか……わたし?)

  驚いたマリアはメリィを見返す。さっきの台詞がよほど恥ずかしかったのか、顔を俯かせ
 る少女の頬が朱色に染まっていた。

  綺麗──と言われて嬉しくない女性はいないだろう。しかし、マリアはその単語に不審や
 不快にも似た感情を抱いていた。

  端麗な顔の輪郭、鋭角に折れた眉、薄くて小さな口元と唇、肩口に垂らした亜麻色の髪と
 エメラルドの瞳。抜けたように白い肌を包むのは淡紅色のワンピース。誰がどう見てもマリ
 アは美女と呼ぶに相応しい容姿を備えていた。

  実際にマリアは美人や綺麗、可愛いなどという常套句で褒められたことがある。

  だが、マリアからしてみればそれらは全て社交辞令でしかなかった。自分の機嫌を逆なで
 すまいとする、愛想よく笑う大人たちの顔しか浮かばないのだ。

  それに……

〈なあ、この子、眼がおかしいぞ。視覚障害の可能性有りだ〉

  ……これである。

  つき合いの長いセロンに否定的な言葉を告げられては、己の容姿に自信すら持てないのだ。

〈しっかし、マリアが綺麗? ぶはははははッ! 可哀相に、子供だから人を見る目が肥えてない
んだろうな〜。例えそうだとしても性根が最悪だから誰も寄ってこないけど……あーはははは!〉

  さきほどの仕返しとばかりに、自分の耳に響くセロンの嘲笑は酷く癇に障った。

  しかし騒ぎを起こせば、冷たい目で見られるのは明らかだ。そのため、もっと有効な報復
 行為を実行するべく、マリアは視線を食卓の隅から隅まで見渡した。

  レップブリカでは豊富な種類で有名な"アレ"が、この食卓にあることを願って……

「ふふ……」

  マリアは思った。天は我に味方したと……。

  ほくそ笑む彼女の目線の先には、他の朝食に混じって"アレ"が皿にもうけられていたのだ。

〈ちょ、ちょっと待ってくれ!〉

  視覚を共有しているセロンにも、マリアの目に映る"アレ"が察知できたのだろう。さっき
 までの態度とは打って変わって狼狽した様子だ。

〈それは、あれだ、なんというか、その……〉

  口ごもるセロンに、マリアは嬉々とした笑みを浮かべる。

  優越感に満ちた顔。本人に自覚は無くとも、それはまさしく嗜虐嗜好の者にしか作ること
 のできない恍惚な笑みだ。

  マリアは、ゆったりとした手つきで食卓に並べられていた"アレ"を手に取り、

〈や、やめ……ひ、ひぎゃ──!!〉

  口の中に入れた瞬間、セロンの断末魔が耳朶に触れた。

  その間もマリアは口に含んだ"アレ"──『チーズ』をゆっくりと咀嚼する。

「んー、おいしい」

〈ぬ、ヴ、あ、ぐぅ、ウエぇぇ〜〜〉

  味わい深く舌鼓を打つと同時に、セロンの吐き気を催すような声が聞こえた。

  セロンの数少ない弱点として挙げられるのが食べ物のチーズだ。このチーズが幼少の頃か
 ら大の苦手らしく、ただ視認するだけでも寒気を覚えるくらい肌に合わないらしい。

  以前、マリアがそのことを詳しく聞くと、セロンはチーズの醗酵という行為に嫌悪感を覚
 えているらしいのだ。

  しかし、それを言うならば主食に取り上げられるパンだって同じだ。パンの生地は小麦を
 パン酵母で醗酵させて作る食べ物だ。

  だが、そのことを問い質すと、セロンは簡潔にこう答えた。

『だって、うまいじゃん』

  理屈もへったくれもなかった。

  その曖昧な答えを疑問に思いつつも、彼の弱点を握ることができ大きな強みになったのは
 確かだった。

  味わっていたチーズをゆっくりと呑み込む。マリアは鼻を鳴らし、ほかの子供たちに聞こ
 えないように勝利の言葉を囁く。

「セロン、これ以上酷い目にあいたくなかったら少し黙ってなさい」

〈……イ、イエッサー〉

  セロンを黙らされることに成功したマリアは、周りの子供たちと一緒に朝食を食べ始める。

  台所から水差しを持ってきたエルミナが、

「ねえ、マリアはどうしてこの村に来たの? ほら、ここって何もない所でしょう。あまり観
光客も訪れないから」

  と、訊いてきた。

  マリアは少しだけ逡巡した様子を見せるが、介抱してくれた恩を仇で返すわけにもいかな
 いと、自供する犯罪者のような降参した口調で話を始めた。

「ちょっとした"探し物"があってね、その情報収集ってところかしら。わたしの父親が以前、
この辺に住んでたって聞いて尋ねてきたの。……ヒューゴ・ナーディムって人なんだけど、知
らない?」

「ヒューゴおじさん? もしかして、あなたヒューゴおじさんの娘さんなの?」

  エルミナのおっとりとした目が、少しだけ驚きに見開かれた。

「知ってるの?」

「ええ、もう随分前のことよ。山奥の方に住んでて、あまり会ったことはないけど。時たま麓
に下りてきたときは、よく手品を見せてもらったから印象に残ってるもの」

「手品?」

「うん、どんな物でもヒューゴおじさんが手で触れたら、、、、、、一瞬で砂のように崩れていくの。凄か
った、種や仕掛けを捜そうと他の子供達と一緒に躍起になってたけど最後まで分からなかっ
た」

  嬉々として喋るエルミナに対し、会話を聞くマリアの顔は何故か浮かばれない。難色を示
 すマリアをよそに、エルミナは話を続ける。

「この村にいたのは半年くらいかしら。別れ際に、どんな仕掛けを使ったの? って聞いたの。
そしたら『おじさんは魔法使いなのさ』って言葉少なに村を出て行ったのよ。それにね──」

  そこから先の会話はマリアの耳には届かなかった。激しい葛藤に苛まれ、それどころでは
 なかったのだ。

(本当に……この村にいたんだ)

  マリアはこみ上げてくる怒りを抑制するのに必死だった。表情に出すまいと徹しながらも、
 胸の内は父親に対する憎しみで満ちていたのだ。

  マリアはヒューゴ・ナーディムを父親として認めていない。

  否。それ以上に人として最低だと見下す気持ちすらあった。なぜなら自分が七歳の時に、
 あの男は何を思ったのかしらないが、その姿を消したのだ。それこそ唐突に、忽然と……。

  当時、幼いながらも自分は捨てられたのだと悟った。

  悲しみよりも怒りのほうが大きかったのを今でも覚えている。訳の分からない探求のため
 に、実の娘を捨ててしまう行為を理解できず、また理解する気にもなれなかった。

  そして挙げ句の果てに、あの父親は──

「──マリア?」

「え、あ、ごめん、えっと……なに?」

  エルミナの声で思考の渦から引き戻されたマリアは、努めて平静に返事を返そうとしたが
 失敗した。先ほどの考え事がまだ尾を引いていた。

  だが、エルミナはマリアの変化に気づいた様子もなく言葉を紡ぐ。

「結局、ヒューゴおじさんって何者だったのかしら?」

  それは最も訊かれたくない質問だった。

  というよりも、答えられないというのが正直な感想。父親が何者であるかを明かせば、
 "特別な科学"に関する情報を露呈してしまう恐れがあるからだ。

  しかし、思わぬ方向からきた援護によってそれは解消された。

〈この際だ、言っても構わないぞ〉

(……本気なの?)

  疑わしげな視線の集中砲火を浴びまいと、マリアはセロンとの会話を避ける。セロンも慣
 れているのだろう、マリアの返事を待たずに言葉を綴った。

〈こんな辺鄙な田舎じゃ、広まってもたかが知れてる。問題ないだろ〉

  セロンの言い分は的を射ていた。

  目覚めたとき窓ガラスから見た風景からしても、このパターデルという村は相当な田舎だ。
 そのことは、この村と一番近い都市を行き来する定期便の回数の少なさからも分かっていた。

  マリアは一息つき、視線を周囲に向けた。エルミナやメリィ、他の子供たちの視線が自然
 と集まっていた。

 しょうがないな、とぼやいたマリアは覚悟を決めて、その一言を呟いた。





「その人…………《錬金術師》だったの」








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