〈2〉



  そこはレンガ造りの無機質な部屋だった。

  窓がなく、空調をきかせる唯一の扉も閉め切っている完全な密室。

  縦横十メートル近い広さをした無味乾燥な部屋だ。レンガ壁の窪みの中に取り付けられ
 たランタンが、部屋を仄かな灯りで満たしている。

  その部屋の中心に一人の少女がへたり込んでいた。力が抜けたように座り込む彼女の瞳
 は虚空を泳いでいる。

「なん、で……?」

  唐突に、少女が呻くような声をあげた。か細く、それこそロウソクの火のように、いつ掻
 き消えてもおかしくないほどに弱々しい声音だ。

  少女の視線は虚空を行ったり来たりして、何かを確かめているような節があった。

「どうしてよ……」

  引きつった頬から滴が落ちる。幾筋も、幾筋も。少女の意識とは裏腹に、涙が止めどな
 く流れ続けた。

  臓腑の締め付ける感覚に耐えられなくなったのか少女は身体を丸める。そして何を思った
 のか、レンガ造りの床を両腕で乱暴に叩きつけ始めた。

  何度も何度も。やるせない気持ちを発憤するかのように、拳で床を叩きつける。十に到達
 している頃には、両腕ともに擦り傷ができていた。

「どうして! どうしてッ!」

  涙でくしゃくしゃになった顔を気に留めもせず、当たり散らすように呻く。少女は、半ば
 自暴自棄に陥りかけていた。

  記憶の残滓をかき集め、必死になって彼のことを思い出す。

  自分の前に舞い降りた《錬金術師》の少年。ただ一人、救いの手を差し伸べてくれた少年
 は生きる希望を与えてくれた。しかし、その望みの代償として彼が犠牲となった。

  ──この世から消えたのだ……跡形もなく。

  今なら思える。《錬金術師》の少年は、こうなることを事前に理解していたのだと。そう
 でなければ去り際に「後悔はしてない」なんて捨て台詞が吐けるわけがない。

  《錬金術》という、自分からしてみれば未知の神秘を扱う者だからこそ、この結末を予測
 していたに違いない。それでも彼は犠牲になることを選んだ。

「だからって……こんなこと望んでない」

  少女を助けるために少年は身を徹する形になった。しかし、少女はそれを易々と受け入れ
 ることができなかった。

  "あの人"を自分から奪ったゆえに、償いとして身命を擲ったからではない。

  全てを拒絶してきた孤立無援の自分が、少年に信頼の念を抱きかけていたからこそ、この
 現状を肯定することができなかったのだ。

  そして少女は酷く後悔していた。



  ……その少年の名前すらもわたしは知らなかった、と。





     *     *     *     *     *





「……うぅ」

  閉じた瞼の間から容赦なく差し込んでくる光に、マリアは思わず呻き声をあげた。まどろむ意識が、徐々に覚醒されていく。ゆっくりと目を開けたマリアは、

「んん……」

  覚醒しきれていない頭を懸命に働かせようと、横になっていた上半身を起こした。

  目に映ったのは、六畳一間くらいの小さな部屋だった。マリアの身体は寝間着のようなも
 のに包まれ、質素な木の寝台に横になっている。上掛けも枕も素朴な生成だ。

  ベッドの側には足つきの丸テーブルと椅子の一組。椅子の上にはマリアの私服が畳まれて
 置かれており、旅行鞄が椅子の脇に立てかけられるようにしてあった。

  横合いに備えてあったカーテンから光源が差し込む。カーテンをスライドさせると、陽光
 がさっと入ってきた。

「眩しい……」

  目に刺激が強すぎたせいか、思わず手で覆った。

  陽の光に慣れ、眼下に視線を向けると、そこには家々が立ち並んでいた。他にクワを持っ
 て移動する老人や、主婦らしき人たちが談笑してるのが見える。

  しばし、その景色を見てから、六畳一間の部屋に視線を戻す。

  マリアは考え込むようにうなり声をあげ、やがて一つの答えをだした。

「もしかして……目的地に着いた?」

  言葉に出してみたものの確信がなかった。一本道しかない僻地をただ延々と歩き続けてい
 たのは覚えている。しかし、そこから先の記憶が一切ないのだ。

(ま、まあ結果オーライよね)

  一歩間違えれば命の危険性があったかもしれない。

  しかし、「助かったんだからいいじゃない」と自分自身に納得させるように、マリアは頷
 く。終わりよければ全てよしという言葉をこれほど身近に感じたことはなかった。

「セロン、起きてる?」

〈…………〉

  声をかけたにもかかわらず返答がない。

  自分が起きているのだから、セロンが起きているのは自明の理だ。だから、返事が返って
 こないのはおかしい。マリアは少しだけ険を含めて再度、声をかけた。

「ちょっと、起きてるの分かってるんだから返事しなさいよ」

〈……あァ?〉

  セロンの声は凄みをきかせていた。

「あんた……なに怒ってるのよ」

〈これが怒られずにいられるか?〉

  どうやらご立腹のようだ。獣の威嚇にも似た反抗的な態度。思わずたじろいだマリアは、
 しかし性分からかすぐに反抗的な口調で物言う。

「一応……助かったんだし。それのどこに問題があるってわけ?」

〈大問題だ、馬鹿たれ。一歩間違えればオダブツだったかもしれないんだぞ。どうして、お前
はそう悠長なことが言えるんだ〉

「だから、それは……」

〈この際だから言わせてもらうぞ。お前は何でもかんでも即決しすぎるんだ。前もって準備を
しておけって、日頃から注意してただろ。どうして、お前はそういつも……〉

  ぐだぐだと続くセロンの忠告に、マリアは億劫そうにため息をついた。そのまま延々と続
 く熱弁を右の耳から左の耳へと流す。

  この行事もすでに日常茶飯事に近い。忠告を真摯に受け入れ、唯々諾々と指示に従うのも
 いいかげん飽きてきたマリアは、話の調子に合わせてうんうんと頭を垂れる。

(それにしても……ここどこだろ?)

  セロンの癇癪を起こさない程度に、辺りを見回す。

  ほとんどが木で作られた家具と調度品。質素な雰囲気に新鮮さを覚えたのは、彼女自身が
 都会に住み慣れているからだろう。そう思っていた時だ。

  部屋と廊下を結ぶ扉が開いた。

「良かった、起きてたのね」

「……あなたは?」

  マリアは扉の前に立っていた少女に問うた。くすんだ赤毛を三つ編みにした温厚そうな
 女性が、そこに佇んでいたのだ。

  自分より若干年上に見える二十がらみの彼女は、見る者を安堵させる柔和な笑みをこち
 らに向けていた。

「私はエルミナ・ブランシェット。エルミナでいいわ。あなたのお名前は?」

「えっと……わたしはマリア……マリアベル・ナーディム。不躾なんだけど、一つだけいい
かしら? ここは"パターデル"っていう村で間違いない?」

「え? ええ、そうよ」

  きょとんと小首を傾げるエルミナという女性を前に、マリアは「そっか……着いたんだ」
 と得心がいったように頷いた。自分とセロンが目指していた目的地──パターデルという村
 に無事に赴けたことに対し、マリアは安堵の息を吐く。

  ──やっと"探し物"の手がかりを見つけ出すことができる、と。

「それにしても驚いた」

「え、なにが?」

「なにがって……覚えてないの? 昨日の夜、村の出入り口前であなたが倒れてたのよ。子
供たちが見つけてなかったら、大変なことになっていたかも」

「子供たち?」

「ええ、ここは孤児院なの」

  相変わらず顔に笑みを張り続けている女性の言葉に反応して、マリアは再度辺りを見回す。

  孤児院という場所がどういう所かは知識にはある。しかし実際に訪れるのは初めてだった。
 マリアは興味津々といった様子で、視線を部屋の随所に移していた。

「ん?」

  マリアの目が一カ所で留まった。

  エルミナの後方。彼女の背後で、こそこそと動く物体を捉えたのだ。

  目を凝らして見ると、一人の少女が恐る恐るといった様子で、こちらを見てくる。まるで
 同年代の少年少女たちが遊んでいるのを、羨ましそうに傍観している幼子のような仕草だ。

「ああ、ごめんなさい。この子の紹介がまだだったわね。ほら、メリィ」

「…………」

  エルミナが促すが、少女は彼女のスカートにしがみつき出てこようとしない。マリアから
 は死角になっていて全貌は見えないが、若干たれ目気味の大人しそうな少女だ。

  こちらを見ては俯き、また顔を上げて見ては俯く。飽くまで目安だが、身長や表情からし
 て十を超えて間もない程度の年頃だ。

「この子があなたを最初に見つけたのよ。メリィ、お姉さんに挨拶なさい」

「…………」

  少女は黙したままだ。

  ふと、マリアとその少女の視線が重なった。マリアがにこりと微笑むと、少女は驚いたよ
 うに目を大きく見開き、早足で廊下に出て行ってしまった。

「う……わたし、なにか悪いことしたかしら」

「ごめんなさい。あの子、人見知りが激しくて……悪気は無かったのよ」

〈いいや違うね。きっと、マリアの内に潜むどす黒い負のオーラに感づいたんだ。やるなー、
あの子。マリアの恐ろしさを直感で理解するなんて将来は大物間違いなしだな〉

「うるさいわね、あんたは黙ってて」

  セロンの皮肉った物言いをマリアが一蹴する。

  しかし……

「ご、ごめんなさい。メリィにもきちんと謝らせておくから」

「へ? あ、いや、ち、違うの。エルミナのことじゃないのよ、あ、あははは……」

  どうやらエルミナは、自分が怒らせてしまったのだと勘違いしているようだ。

  マリアは急いで誤解を解き取り繕うとするが、

〈ほら、聞いたことあるだろ? 子供にしか感じ取れない未知の力とか。きっと、それを感じ
取ってるんだろ〉

「いいかげん喋るな!」

「ひ……!」

  またやってしまった、とマリアは後悔する。

  エルミナに謝罪している間、セロンの嘲笑が耳朶に響いた。

〈まあ、これを機に俺に対する態度も改めてほしいね〉

  これ以上の堂々巡りは拙いと、マリアは口にチャックをしたかのように押し黙る。

  セロンの声は他者には聞こえない。『魂』のみのセロンの声は口外されることなく、マリ
 アのみにしか聞き取れないのだ。

  それを好機と取ったのかこれ見よがしに、べらべらと喋りだす。

〈お前の突発的な言動には、ほとほと嫌気がさしてるんだ。十代でこれだけ気苦労してる若者
も珍しいと思わないか? 頭脳は少年期、けど心は老年期ってな〉

  マリアは感情を抑制する。

〈暴走列車じゃないんだからさ。このエルミナって人のように……つーのは、どだい無理とし
ても穏やかになってほしいもんだ〉

  マリアは必死になって感情を抑制する。

〈こっちにまで災難が振られたらたまらないんだよ。少しは自重しろってこと。今年で十八に
なるいい娘が、子供でも解るようなことができないなんて。デカイ餓鬼のお守りをしてる俺の
身にも──〉

  マリアの限界はとっくに臨界点を超えていた。

  無言のまま、すっくと立ち上がると、側にあった丸テーブルの前に移動する。端と端を右
 手と左手でガチッと押さえ込み──何を思ったのか、マリアは勢いよく頭をテーブルに打ち
 付けた。

〈がばァっ!〉

  耳朶に木霊すのはセロンの悲鳴だった。

  それを合図にマリアの頭を打ち付ける速度が加速していく。無言のまま、何度も何度も金
 槌のように振り下ろされるマリアの頭部。同じ回数だけセロンの絶叫が響く。

  その奇怪な光景を狼狽しながら見ていたエルミナが、心配そうに声をかけた。

「マ、マリア……」

「なぁ……にッ!?」

〈ふギィっ!〉

「そ、その、どうして頭を打ち付けてるの?」

  エルミナの顔が青ざめている。

  しかし、マリアは気にせず頭をテーブルに振り下ろす。

「何か!」
〈あがッ!〉
「幻聴が!」
〈ぐげッ!〉
「聞こえちゃって!」
〈イッだ──!〉

  マリアが頭部をぶつけると同時に、セロンの悲鳴が響く。

  この二人には"感覚の共有"という特殊な現象が備わっている。人が外界のものに感知
 するための感覚機能。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚と呼ばれる五感の全てを共有してい
 るのだ。

  要するにマリアが見ているものは、セロンも見ており。マリアが聴いているものは、セロ
 ンも聴いている。食事や匂いを嗅ぐという行為にたいしても同じ事が言えるのだ。

  つまり──

〈か、軽口叩いてすまなかった! だ、だから! そ、そう何度もぶつけるのはよせ! って
いうか、どう考えても全面的に俺が被害者だろ――!〉

  マリアが痛みを感じれば、セロンも痛みを感じてしまうのである。傍から見てもこれほど
 難儀な因果関係もあるまい。

「怪我しちゃうよ……」

  エルミナが安否を気遣う言葉を口にする。

「大丈夫ッ! こう見えてもッ! 頑丈だからッ!」

〈痛だだだだッ! ちょ、やめ! 割れる割れる、頭が割れる──ッ! ごめんなさい──!
許して──!〉

  セロンの救いを求める懇願が実ったのか、マリアの頭を打ち付ける速度が落ちてゆく。上
 下運動が停止。荒い息をするマリアの額は出血は無いものの、赤く腫れていた。

「エルミナ……」

「は、はい」

「ごめん、着替えたいから独りにしてもらえる?」

「う、うん。朝食の準備は整ってるから、着替え終わったら一階の大広間に来てね」

  そう言うとエルミナは部屋を出て行く。パタパタと早足で歩くスリッパの音が生々しく響
 き、マリアの気分を惨憺とさせていた。

「はぁ……セロンのせいでとばっちり受けたじゃない」

〈俺のせいか!? どう考えても逆だろ、逆!〉

  セロンの必死の抗議もマリアは無視する。椅子の上に載っかっていた自分の衣服を手に取
 り、着替えを始めた。

〈最後に一つだけ発言権が欲しい〉

  苦情を訴えていたセロンが、妙に冷静な声で話しかけてきた。

「改まってなによ?」

  マリアが眉をひそめて怪訝な態度をとるが、セロンは淡々と嘯いた。

〈この状況が無意識で無自覚で、先ほどの一時的な暴走によって生じた偶発的な産物なのは重
々承知している。だが、この事態を長引かせることはお互いの尊厳を著しく傷つけてしまうわけ
で。つまりは争いごとなく穏やかに、それこそ平和に、平穏に、平静に物事が解決することを俺は
深く望んでいるわけだ〉

「……何が言いたいわけ?」

  遠回しな言い方にマリアは訝しむ。

  まるで、人の大勢集まった場所で事前に用意していた台詞の入った紙を、アクセントをつ
 けずに読み上げていく発言者のような口調だ。

  きっと良からぬことじゃないな、と思いつつ、マリアは次の台詞を待っていた。

〈服着替えてるの丸見え。せめて、目を閉じるか目隠しくらいしてくれ〉

  寝間着を脱いでいたマリアは、自分の体を見下ろす。

「…………」

  下着だった。

  ここでマリアはいらない思考を働かせていた。自分とセロンは感覚を共有している。自分
 の感じた五感は全てセロンにまで影響を及ぼすのだ。つまり──

  マリアが着替えている姿をセロンは、ばっちり視界に収めていた。

「────ッ!!」

  マリアの顔が沸騰したかのように一瞬で真っ赤になる。声にならない悲鳴を上げ、そこら
 辺に置いてあった調度品を掴んで自分の頭にぶつけだした。セロンが激痛に叫ぶ。

「イヤ──ッ!!」

  暴れ狂うマリアに〈他意はねえ──!〉と、セロンは故意ではないと示し、激痛から逃れ
 ようと必死になって弁解する。

  しかし悲しいかな……彼女の耳には届かなかった。








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