万物のふたたび元素に返るはこれ自然のさだめ、
されど無に帰するものはひとつだになし。

────ルクレティウス著『物性論』












     第1章 【目覚めればそこは……】





     〈1〉



  タニス大陸は海岸の方角によって気候が異なる。

  大陸の最南端にある国家──地中海沿岸のレップブリカ王国は、夏になると気温の割には
 日射しが強く、空気が乾燥しやすいというのが特徴的だ。

  もしも、レップブリカを訪れるときに、このことを事前に調べておかないと──

「暑……」

  ──その国の一角を歩く少女のように、日射病寸前にまで追いやられる可能性もある。

  頭上で輝く太陽が、これほど憎く感じたことがあっただろうか、とその少女は記憶を探る。

  だらだらと続く地固めのみされた一本道に陽光が降り注ぎ、上空からと地面の反射からなる
 熱の二重攻撃に、今にも気が滅入ってしまそうだ。

  右と左を見れば草木に生い茂る樹林。目を凝らしても奥まで見ることは不可能。それくらい
 広大な樹木の群れが、眼前でこれ見よがしに屹立している姿は憎たらしいことこの上ない。

  絶望に苛まれたような渋面を浮かべた少女は、その僻地をただ黙々と歩き続けていた。

「おかしい……四時間近く歩いてるっていうのに、目的地が見えないなんて変よ。もしかして
……祟られてるのかしら?」

  飽くまでも己の不手際ではない、と言わんばかりの豪胆な発言。

  その間もカラカラと……箱形の鞄に取り付けられた車輪の乾いた音が、少女を冥界へ誘う
 ように響いていた。





     *     *     *     *     *





  疲労困憊の体を見せる彼女は──名をマリアベル・ナーディムという。

  背中で一つに括って、肩口から胸に垂らした亜麻色の髪と、前髪の間から垣間見せる翠玉エメラルド
 の色彩を帯びた瞳が印象的な少女だ。

  身長は百六十にも満たない痩躯。整った顔立ちと均整の取れた容姿を持ち合わせているが、
 現在その顔は暑さで苦渋に歪み、身体にはぽつぽつと汗の玉が浮かび上がっていた。

「暑い〜。ほんの少し前までは大したこと無かったのに、この急激な変化はどういうわけ?」

  己の軽率な行動が招いた、などという結論は端から彼女の念頭に置かれていないようだ。

「それに何時間も歩いてるのに目的地が見えないなんて……やっぱり祟られ──」

〈お前が後先考えずに行動に移ったせいだろ、この馬鹿マリア!〉

  旅行カバンを必死に引きずる彼女の耳に、突如として若い男の声が響いた。だが、その僻
 地には彼女以外に人影らしきものは見あたらない。

  名前の方ではなく愛称の『マリア』で呼ばれた彼女は──しかしその声に取り立てて驚い
 た様子もなく、長時間歩き続けて乾いた唇を重々しく開いた。

「セロン……麗しき乙女が猛暑に照らされて困ってるのよ。何とも思わないわけ?」

  言葉の節々に、呪詛染みたものが混じっているようにさえ聞こえる。

  だが、怨念を抱いているようなその声に先ほど激昂した彼──セロンは嘆息をついた。

〈誰が麗しき乙女か。ったく、無謀なことしないで、さっきの街で一泊すりゃ良かったんだ。
そうすれば、こんな面倒なことにならなくて済んだのに〉

「だって、馬車が一日に一度しかでないのよ? 次が明日ですって? 冗談じゃないわ。明日
まで待ってられるわけないでしょ」

〈何も考えずに突っ走りやがって。とばっちりを受ける俺の身にもなれ〉

「う、うるさい!」

  マリアは疲弊している体に鞭を打って激昂した。

  端から見ると一人芝居か、酷いと精神の障害を持つ人だと思われるだろう。だが、あいに
 く彼女は一人芝居などという趣味は無いし、精神障害者というわけでもない。

  先ほどから語りかけるセロンという少年は霊的なもの──つまり『魂』のみの存在なのだ。
 分かりやすく解釈するなら『幽霊』という言い方がしっくりするかもしれない。

  セロンには実体がない。だからマリアを含めて誰も視覚することなど不可能。第三者から
 見れば唖然愕然呆然である。

「それにしても、暑すぎよこれ……」

  長時間歩いているせいか視界が霞んで見える。そのうえ意識は朦朧。このまま、さらに歩
 き続けようとしたらさすがに洒落では済まないだろう。そう危惧したマリアは……

「と、とりあえず休憩……」

  ……右へと方向転換。道ばたに生えた草むらを横切り、目の前にそそり立つ樹木へと、お
 ぼつかない足取りで向かう。

  休める場所を見つけたマリアはそこに腰を下ろす。背中を木の幹に預け、深呼吸を繰り返
 し、何とか気を落ち着かせた。

「あ〜、もう駄目。一歩も動けない……」

  四時間以上も歩いているのに、目的地が一向に見えない。

  レップブリカ王国の都市から目的地までの移動手段が馬車──それも二日に一回のみし
 か出ないと聞いたときは何かの冗談かと思った。

  逸る気持ちを抑えることが出来ず、無茶を承知で徒歩という手段を用いたのだが……ここ
 にきて、それがどれだけ無謀な行為だったのか嫌々ながら理解してしまった。

  都市と目的地を行き来する定期便の回数もさることながら、自動車や機関車が存在する御
 時世に馬車とは……。

  これから向かう場所はよほど廃れているか、過疎化が進んでいるのかもしれない。

〈急がば回れ、だな。計画性なさ過ぎ〉

「るさいわね……。セロンだって同じじゃない」

〈お前と一緒にすんな、この猪突猛進短絡思考女〉

  侮蔑のこもった台詞に、マリアの顔が紅潮する。

「な、なんですってえ! 訂正しなさい、訂正!」

〈誰がするもんか、事実だろ〉

「人の悪口言っといてタダですむと思ってんじゃないでしょうね……万年薄情非情男!」

  売り言葉に買い言葉。普段、口論が起これば必ずと言っていいほどセロンに言い負かされ
 ているだけに、反論ができて気分爽快だ。

  しかし、それがこれから始まる長き口論の口火になってしまうなどと、マリアは知るよし
 もなかった。

〈かっち〜ん。おいこら、いまかなりきたぞ? よくもヌケヌケとそれだけの暴言が吐けるよ
なぁ……こんの嗜虐趣味女サディスト・ガールが!〉

「な……っ!?」

  会心の一撃だった。今まで秘密にしてきた悪趣味を暴露されたようなマリアの顔は、羞恥
 心からか先ほどと比べものにならないほど紅くなる。

「サ、サディストって……キャー! あ、あんた言っていいことと悪いことくらいあるでしょ──!」

〈んなもん、お前に対してあるか──!〉

  二人の口論は拡大していき、歯止めの利かないレベルにまで上昇。次から次へと相手の罵
 詈雑言を吐く両者は、止めに掛かる者がいないから容赦なく続いた。

〈マリアのバーカ。バカ、バーーーカ!!〉

「バカって言った方がバカなんですぅー! セロンのバーカ!」

〈人をなぶって悦ってる女が小さいこと言ってんじゃねえよ! 嗜虐行為大好きっ子が!〉

「変な勘違いしないでよ! 嗜虐趣味は飽くまでも"あんた限定"よ!」

〈最悪だお前──!!〉

  ……人っ子一人通らない僻地。

  どうでもいいような論争が延々と続いた。





  数時間後──。

「……やめましょ、こんな言い争いしても体力の無駄なだけよ」

〈……同感だ。口論してる暇が在ったら、目的地に着くまでの体力を温存すべきだったな〉

  無駄で長い口げんかは、憔悴した体の悲鳴によって打ち止めとされた。

  両者共々、肩で息をするように語気に力がない。あれから、ほぼ通しで相手の誹謗中傷
 を吐きつづけていたのだ。当然といえば当然である。

  しかし後悔しても詮無きこと。それ以上に問題なのは、徒労に終わってしまったことを追
 憶する暇さえ無くなってきたことだ。

  西空が茜色に染まっている。このままではいよいよ……

〈こりゃあ野宿も考えないといけないな〉

「それだけは勘弁……」

  マリアの顔と声は焦燥感に満ちていた。

〈けど覚悟だけはしておくこったな、目的地に着かなかったら野宿する他ないだろ〉

「それはそうだけど……」

〈駄々こねる暇があったら歩け。少しでも希望を持ちたいなら、自らの足で切り開くんだな〉

  正論なのだが、全くもって慈悲がない。少しくらい労いの言葉をかけてくれてもいいので
 はないだろうか? とマリアは思考するがその考えもすぐに消し飛んだ。

(セロンが、そんなこと言うわけないわね……)

  マリアは自嘲気味にせせら笑う。

  では、このやるせない気持ちを如何にして発散させるべきか? その答えに至るまで差ほ
 ど時間は掛からなかった。

「セロンの薄情者〜!」

  完全無欠なまでの八つ当たりである。

  結局は、これで己の内で溜まった鬱憤を晴らす他なかった。マリアは旅行カバンを引きず
 りながら、老婆も顔負けの腰を折った歩き方でまだ見ぬ目的地へと歩を進めた。








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