子供のように、無邪気に信じるのではなく

  大人のように、現実を受け入れるのでもなく

  この世の真実を見いだそうと"彼ら"は探し続ける

























  《アルス・マグナ》を求めて…………





















     序章 【舞い降りた奇跡】





  魔法使いや悪の化身といった架空の人物。はては不思議な世界へ導かれるといった摩訶不
 思議な現象をいつまで信じていたかと問われたら──わたしはつい最近まで信じていたと、
 さして間もあけずに答えるだろう。

  まあ、わたしの境遇を知ってしまえば「それなら仕方がないね」と、いらぬ同情と一緒に
 返答が返ってくるはずだ。最も安い同情が欲しくてこんな事を言っているわけではない。

  諸事情とはいえ同年代の少年少女とは全く別物の生活を強いられるのは、窮屈このうえな
 なかったのは確かだった。

  覚えてるのは真っ白な部屋と、毎日同時刻に尋ねにくる医師と看護婦。そして窓の外から
 見える景色のみだ。

  毎日が同じ事の繰り返しだった。

  だからこそ想像力や価値観を育むという名目で渡された小説や童話の暇つぶしは、わたし
 にとって暇つぶしでは終わらなかった……





「さあ、起きるんだ」

  寝ているわたしの枕元で何かが囁いてる。

  重い瞼を開けると、そこには二本足で立つチョッキを着たウサギ。

  わたしはびっくりしてベッドから飛び上がるが、彼は人差し指をわたしの唇に当て、紡ごう
 とした言葉を封じてしまった。

「大声を出しちゃ駄目だ」

  わたしはコクコクと頷く。

  つぶらな瞳を向けつつ愛嬌のある笑みを浮かべたウサギは納得したように、わたしの唇か
 らゆっくりと人差し指を離した。そして、こう告げたのだ。

「君を僕の住む世界に招待しよう」

  手を差しだして微笑むウサギ。この手を取れば、彼の言う別世界へ連れて行ってくれると理
 解できたのは、リズムの乱れた胸の鼓動が落ち着きを取り戻してからだ。

  しかし、初対面の──それこそ二本足で立ち、喋る奇妙なウサギにそんなことを言われて、
 はいそうですかと納得する人がいるだろうか。

  ましてそれが子供なら、泣き出すか困惑するのが普通だろう。

「怖がることはない。君は選ばれたんだ」

  踏ん切りのつかないわたしを察してか、ウサギは再び笑う。

  嫌味な笑みではない、友好の含まれた笑みだ。戸惑いは払拭。わたしの意志を決定づ
 けるには十分だった。

  わたしは恐る恐るといった感じで、自分の手を差し出す。緩慢とした動作。しかしウサギ
 は、わたしのもどかしい動きに茶々を入れることなく待ち続けてくれた。

  なんとも紳士的なウサギだ。

「焦る必要はない。一瞬で着くからね」

  あと少しで互いの手が重なる。わたしは彼の導きで、恋い焦がれていた幻想的な世界へと
 連れて行かれるのだろうか? そう想像するだけでワクワクする。

  言葉を喋る動物や気が短い太っちょの女王がいる城かもしれないし、お菓子で作られた家
 かもしれない。

  或いは、いきなり海賊船に乗り合わせてしまい、彼ら海賊に捕まってサメの餌にされる絶体
 絶命のピンチが待ち受けているケースも考えられる。

  だけど、わたしは物語の主人公。

  物語が必ずいい方向へと進むのは決まっているのだ。





  ……ホント、そんなことが起きればよかった。

  けど、現実は厳しい。幻想は現実の前では虚しいものでしかなかった。

  子供の頃に描いた幻想は、望もうと望まないと、大人という存在に自分が近づいていくに
 つれて、「ありえるはずがない」と感じずにはいられなくなってしまうのだ。

  いや、本当はずっと前から気づいていた。ただそれを否定したくなくて、気づかない"フリ"
 をしていたにすぎない。

  いつしか、わたしは小説や童話すら手に取らなくなっていた。空想や幻想を抱いていいの
 は子供のうちだけ。今の自分にはその資格がないのだ。

  そして真っ白な部屋で毎日同時刻に尋ねにくる医師と看護婦の二人に顔を見合わせ、窓
 の外から見える黄昏の街並みを俯瞰して一日を終える──そんな同じ事の繰り返しだった
 日常に戻っていた。

  そのまま漫然と月日が流れ──











  ────わたしは彼と出会った。





     *     *     *     *     *





「あなたは……誰?」

  そこは病院の屋上。

  夜気の冷たさすら忘れてしまうほどの光景が、いまわたしの目の前にある。眼前の光景に
 わたしは唖然とし、尻餅をつくという羞恥をさらけ出しながら大口を開いていた。

  月光の下──独り少年が佇んでいた。

  それだけならまだいい。しかし、完全に寝静まった夜中に、それこそ誰も寄りつきそうに
 ない病院の屋上に少年が一人佇んでいるのは理解の範疇を超えていた。

  年の頃はわたしと同じくらいの十五、六歳だろうか。肌を刺すような寒風にはためく外套
 を身に纏ったその少年は、微動だにせずわたしを見据えている。

  まるで、わたしがここに来ることを事前に察知していたかのように……。

「アルケミスト……」

  唐突に返答が返ってきた。

  ぽつりと呟いた少年の声音は、まだ成長しきれてない幼さが残っている。だが、その威風
 堂々とした佇まいが実年齢以上の存在感を与え、幼い部分を消去していた。

  胸が早鐘を撞くように高ぶる。

  決して錯覚ではない。

  諦め、無いものだと悟っていた空想染みた光景が、いま、わたしの目の前で展開されてる
 ……そう信じて疑うことができなかった。

  当惑し続けるわたしを意に介すこともなく、少年はさらに言葉を紡ごうとする。冗談でも
 揶揄するわけでもなく、毅然とした態度と、真摯な瞳を向けて──その一言を口にした。



















「…………錬金術師だ」























  ──────理想を求める幻想的な物語ファンタジーが始まる。








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