〈14〉



「…………死んで、る?」

「そ。わたし、五歳の頃に病を患ってね、それが不治の病だったのよ」

  唖然とするエルミナの横で、マリアはあっけらかんとした様子で応えていた。

「一日に何回かは担当医とか看護婦さんが来てくれたけど、それ以外は子供のときから病院の
個室で一人きりだった。十年近くずっと……」

「…………」

「二年くらい前かな……医者に死期が近いって言われたのは。わたしはただでさえ情緒不安定
だったんだけど、それが余計酷くなってねぇ。わたしを元気づけようとしてくれた看護婦さん
が一人だけいたんだけどね、その人にも個室に来る度に八つ当たりするようになってたの」

  忘れたことはない。あの無味乾燥な真っ白な部屋と窓から見える景色のみの世界を……。

  血縁のいない自分。誰一人として信用できない日々。その十年間、愉しいと思えたことは
 何一つ無い空白の日常。笑うという行為がなんなのかさえ忘れてしまった虚無の人生。

  世界から孤立された自分を思い出し、マリアは顔を足元の草むらへ俯かせ苦笑した。

「あの頃のわたしは……ただ、来る日々を淡々と生きる人形のようなものだった。毎日が同じ
だったから。そんな時、わたしの前に現れたのが彼――セロンよ」

  マリアは顔を上げて湖畔に視線を向けた。

  病院の屋上。全てから解放されたいと願った自分は、あの夜飛び降り自殺を図っていた。

  看護婦の見回り時間を計算に入れて、病院の屋上まで足を運んだのが、そこで彼が──セ
 ロンが待ちかまえるようにして佇んでいたのだ。

「病室の窓ガラスから見る世界が、わたしにとっては全てだったからなのかなー。その反動で
今じゃ何にでも興味を抱くようになったわ。もっとも行き過ぎた好奇心のせいで、セロンに迷
惑かけてばかりだけど」

〈……わかってるなら自重しろよ〉

「好奇心旺盛はわたしの長所よ」

  ふふん、と笑いマリアは胸を反らす。

「マリアを救った……、って事は彼が不治の病を治したの?」

「そうよ。ただ、そこから色々と問題がでてきてね。地下室で見たでしょ。セロンが消えて、
わたしが忽然と現れた入れ替わる光景を」

「み、見たけど、本当に入れ替わって、るの?」

「わたしとセロンは『転換』の錬金術で直接肉体を入れ替えることができるの。この体が表に出
ている時はわたしが主導権を握って、セロンの体が表に出てる時は彼が主導権を握るって感じ」

「でも、どうして肉体を入れ替えるなんて行為を……?」

  エルミナが納得がいかず困惑した様子でこちらを見やる。

「さっきも言ったと思うけど、わたしって不治の病だったでしょ? それでね、セロンがわた
しを助けるために自分の命を犠牲にしようとしたのよ──その不治の病を消そうとして」

  思い浮かぶのはレンガ造りの無機質な部屋だった。

  目の前で悟ったように消えていくセロンの顔は、今でも思い浮かべることができた。「後
 悔はしてない」などというキザな台詞を吐き、納得したように消えていく彼の姿を。

「そのとき使った錬金術で体から病原体が無くなり、その代わりとしてわたしの前からセロン
が消えた。セロンが犠牲になった。その時はそう思ってたんだけどね……。そこから話は大き
く変わっていったのよ」

  セロンが消えて、マリアは病院の自室で一人泣きじゃくっていた。

  助けてくれたことに恩を感じつつもマリアは決して納得していなかった。

  自分から父を──ヒューゴを奪ってしまったから、その報いとして犠牲になる。そんな自
 己満足をマリアは許すことができなかった。

  そんなことをするくらいならせめて、自分が死ぬまででいいから話をしてほしかった。

  父とどんなことをしていたのか? 錬金術とはなんなのか? 歳は幾つか? どこで生ま
 れたのか? ……訊きたいことは沢山あった。それだけで十分、罪滅ぼしになった。

  だが、その願いが叶わぬ事を知り、再びマリアは泣き崩れた。

  しばらく経った頃。自室で泣き疲れていたとき不意に、マリアの耳に何か雑音のようなも
 のが聞こえてきたのだ。何だろうと首を回しても、その部屋には自分以外誰もいない。

  ──聞こえるか?

  その声に覚えがあった。

  ──聞こえてるなら返事してくれ。

  間違いなく耳を通して彼の──セロンの声が聞こえてきたのだ。

  そんなはずはないと思いながらも、マリアは勢いよく首を動かしてセロンを探す。

  ──どうやら俺の声は聞こえてるらしいな。

  不可思議な現象に自分もセロンも当惑していた。

  しばらくするとセロンが、鏡の前に立ってみてくれ、と言うので指示通り個室に取り付け
 られた洗面台の前に立った。鏡に映るのは自分の姿だけだ。

  ──どうやら、俺はお前の目を通して物を見てるらしい。

  得心いったようなセロンの声が耳に触れる。つまりは、いま自分が視認している光景を彼
 も共有しているということか?

  そんなことがあるのかと思いつつも、マリアは歓喜のあまり再び滂沱していた。

  狼狽える彼の声を耳にしながら、喜びで涙が止まらなかった。

  少なくとも彼は存在する。姿形はなくても、自分の中に存在する。はっきりと声があり、
 話すこともできる。

  それが嬉しくて堪らなかった。

「で、そのあと色々と調べて解ったんだけど……不治の病を消すために使用した錬金術で彼が
その全ての負担を受けたわけじゃなかったの」

「どういうこと?」

「その錬成の過程でわたしとセロンの魂が混合しちゃったのよ。それによって、この世界にど
ちらか一方の身体しか現れることが出来なくなったってわけ。不治の病を消すためにセロンだ
けじゃなく、わたしも代価を払う必要があったらしいわ」

  唖然とするエルミナの隣でマリアは一笑する。

「けど、単に体が入れ替わるだけならどんなに良かったことか……。いまわたしがここにいる
けど、セロンはどこにいると思う? ここよ、ここ」

  そう言って、マリアは自分の胸の下あたりを指す。

「もう片っ方の肉体が何処にあるか解らないけど魂は常に一緒ってわけ。魂が一緒ってことは
五感も共有してるらしくて、エルミナとの会話も聞こえてるの。会話も可能なんだけど、わたし
とセロンの間でしか成り立たなくてね、他の人から見ると一人芝居程度にしか思われないのよ」

「それじゃあ、独り言が多いと思ってたのは彼と会話をしてたから」

  「そゆこと」と応えるとエルミナはほっと安堵の息を吐いていた。

「良かった、マリアって独り言が多かったからてっきり精神障害者かと思っちゃって」

「わたしたちって……やっぱ、そんな風に見えるの?」

「え、いや、そ、そういうわけじゃ!」

  エルミナの謝罪に苦笑しつつ、マリアは少しだけ自分の世界に入っていった。

  今の自分がいるのはセロンのおかげだ。彼がいなかったら、自分はあの狭い部屋で世の中
 を知ることなく、全てを拒絶したまま、つまらない死を迎えていたに違いない。

  だからこそ彼には言葉では表せないほどの感謝の気持ちでいっぱいなのだ。

  顔を合わせたことも話したことさえないわたしを、父親の弟子であるからという単純な理
 由で助けてくれた。

  だからマリアは今回の事件のエルミナのように、困っている人を放っておけないのだ。

  善人だからではなく、セロンが助けてくれたから。それだけの単純な理由。

「わたしとセロンは《大いなる秘法》っていう代物を探してるの。セロン曰く、それさえあれ
ば、この特殊な体の構造を治すことも可能なんだって」

「そうだったんだ……それでこの村に」

  納得したように頷くエルミナの側で、「本当は違う」と胸中で呟くマリアがいた。

  マリアベル・ナーディムにとって《大いなる秘法》を目指すことは、単に元の体に戻るだ
 けじゃない。

  彼女がそれを目指すのはセロンへの唯一の恩返しだと考えているからだ。

  弱音を吐くことはある。嫌気をさすときもある。しかし、《大いなる秘法》を見つけるま
 で決して諦めるつもりはないという志は、それ以上にあった。

  必ず彼のために見つけ出そうと、救われたあの日に決心したのだ。

(……ま、本人には恥ずかしくて言えないけど)

  言った瞬間、彼からどんな言葉を掛けられるか……やれ「気でも狂ったか?」だの、やれ
 「……今日は厄日だ」だの、失礼極まりない毒舌を振るうのは目に見えている。

  マリアは両腕を伸ばして大きく伸びをすると、ごろんと、その草むらに仰向けに倒れた。

「けど、結局めぼしい情報は無かったわ。また振り出しかぁ〜」

  山奥の小屋にも、そして屋敷にも父親の遺品が残されてなかった。《大いなる秘法》に関
 する情報が見つからない以上、ここに留まる理由もない。

〈完全に暗くなる前にもう一度、先生の住んでた小屋に行くぞ〉

「どうして? だって、あの小屋には何も無かったじゃない」

  茫漠とため息を吐いていたマリアに、唐突にセロンが声をかけてきた。

  草むらに寝っ転がっていたマリアは上半身を持ち上げる。

  セロンは少しだけ間を空け、やがて口を開いた。 

〈俺の感が正しければ……まだ調べていない箇所があるはずだ〉





     *     *     *     *     *





「けど、どうしてそんな風に思ったのよ。完全にもぬけの殻だったじゃない」

  陽は完全に沈み、周囲は闇に包まれていた。

  夜の森の中を霧が覆って、ある種の冷たさと恐怖感を煽る。夏の風物詩と唄われる肝試し
 というやつに近い環境だろう。

  最もマリアとエルミナ、それにメリィとアンディの四人が並んで歩くと、肝試しもへった
 くれもなかった。農夫が使用するような斧とランプを携えたアンディを筆頭に、三人は夜の
 山奥を山行していった。

〈先生はな。本当に貴重なものは大抵、見つからないところに隠しておく癖があるんだ。アン
ディが『特に珍しいものは無かった』って言ってただろ。そんなはずない。先生は必ず小屋に
何かしらの仕掛けを残してるはずだ〉

「……へぇ」

  林道を歩く途中、セロンがそんなことを言ってきた。別に父親の性格がどうであろうと知
 ったことではない。しかし、娘である自分以上に、セロンが父親のことを理解している事が
 ……何となく歯がゆく思う。

  しばらく山の中を歩くとヒューゴが居座っていた小屋に到着した。

  四人で手分けして再度、小屋のなかと周囲を探索する。

「ねえ、隠し扉とかの類は見つからないわよ。やっぱり、単なる当てずっぽうだったんじゃない?」

〈マリア、アンディに斧で床をこじ開けるよう伝えてくれ〉

「ちょっと、いくらなんでもそれは……」

〈いいから言われたとおりにしろ〉

  断固たる態度のセロンにマリアは折れた。

  この辺一帯の土地も小屋も、アンディの所有物なのだから容易に床を壊すなど出来るはず
 もない。が、アンディに言うと彼は快く承諾してくれた。

  アンディは「任せてくれ」と頷くと、村から持ってきた斧を勢いよく床に打ち付け始めた。
 何度からそれをくり返すと、床板が崩れ落ちる。現れたのは穴だ。

  マリアはその空洞に近づくと、ランプでそこを照らした。

「これは……」

〈……隠し部屋だな〉

  崩れ落ちた床板から出てきたのは簡易性の階段だ。もっとも階段と口にするほど大層なも
 のではなく、ただ床板に存在する地下室へ踏み入れるための足場程度のものだった。

「よく分かったね」

〈まあ、先生の性格はよく理解してるからな。それに──〉

  感心するマリアに、セロンは一拍の間を空けてから答えた。

〈この村に先生が訪れたとき俺も一緒だったから〉

  静寂がその場に降りた。

  この男はいま何と言った? とマリアは暫くセロンの口にした台詞を飲み込むことができ
 ず、阿呆のように口をぽかんと開いていた。

「………………はい?」

〈だから、俺はこの村に来たことがあるって言ってるんだ〉

  マリアの目がくわっと見開かれる。

「そ、それならどうして事前に教えてくれなかったのよ」

〈いや、正直言うと、うろ覚えだったんだ。短い期間しか滞在していなかった上に、村は麓に
あるだろう。俺は山奥で留守番することが多かったから、麓に降りたのは数える程度しかなか
ったんだ。ほとんど記憶にないんだよ。……十年近く前の事だしな〉

  セロンは懐かしむような口調で訥々と話す。

〈確信が持てたのは小屋を実際に見てからだな。それとエルミナが先生と一緒にいた男の子が
いたって言ってただろ。たぶん、それは俺のことだ〉

  マリアは眉をひそめた。

「なにそれ? わたしそんな話し聞いてないんだけど」

「お前が先生の事を問いかけて、エルミナが答えてくれただろう。手品の後に言ったのを忘れ
たのか? 『小さな男の子も一緒にいたよ』って」

「あー……」

  放心するようにマリアは視線を虚空へと泳がせる。

  昨日の朝食の時だ。エルミナがなぜ村へ来たのかと訊いてきたので、父親の忘れ形見を捜
 しにと言ってしまったのだ。

  だが、これが不味かった。エルミナがヒューゴの手品──蓋を開けると錬金術なのだが、
 その事を口にした瞬間、マリアの琴線に触れてしまったのだ。

『この村にいたのは半年くらいかしら。別れ際に、どんな仕掛けを使ったの? って聞いたの。
そしたら『おじさんは魔法使いなのさ』って言葉少なに村を出て行ったのよ。それにね──』

  ──そこから先の事は覚えていない。

  恐らくその間にヒューゴが子連れだったことを話したのだろう。

「どうかしたの?」

「え、あ、ううん。なんでもない」

  マリアはランプを片手に、階段を降りていく。

  現れたのは六畳ほどの小さな部屋だ。ほこり臭い小部屋には、同じようにほこり臭いテー
 ブルと椅子があった。

  しかし、マリアの視線は別の所へと向けられていた。

  ──大量の書物と用紙がそこかしこにあった。

  いかにも手製と思わせる素朴な本棚に収められた大量の書物。そして書き留めサイズの用
 紙がその部屋の至る所に無造作に散らかっていたのだ。

  テーブルの上然り、椅子の上然り、床の上然り……。それらの全てが埃を被っていた。

〈床に散乱してる紙片があるだろう……どれでもいいから一枚取ってくれ〉

「ねえ、この幾何学的な文字と記号の集まりって……」

  拾い上げた古ぼけた紙の埃を払い、視線を落とす。そこには、マリアには直接理解できな
 いながらも、見知った文字が記載されていた。

〈ゲマトリア語、それも錬金術に関する資料だな。おそらく……不治の病を消すための錬成の
構築式。そのプロトタイプってところか〉

「これが……」

〈俺がお前に使用した錬金術──その錬成を構築したのは先生だって以前に話したことがあっ
たよな。……もっとも、今でも信じてはないと思うが〉

  マリアは視線をその紙に向けたまま黙っている。

  不治の病を消した錬金術を構成したのはヒューゴだと、病院の一件のあとセロンから教わ
 っていた。最もそれを今日まで信じたことは無かった。

  入院している娘を置いていった父親を、助けてくれた直後に信じることなどできようか。
 セロンの言っていることは、飽くまでもヒューゴのしてきた身勝手な振る舞いを納得させよ
 うとする弁解にしか聞こえなかった。

〈半信半疑なのは解る。端から見れば父親に捨てられたって思うのが当然だ〉

  セロンの言葉がマリアの体の節々を貫くかのようだった。

  言葉なら幾らでも嘘はつける。しかし、直接その証拠を見せつけられてしまうと、何をど
 うすればいいのか解らなくなっていた。
 
〈先生にどんな意図があって《大いなる秘宝》を探してたかは知らない。錬金術師としての探
求心からかもしれないし、お前の病魔を取り除くためだという推測もできる。だが……その真
実を知ることができるのは積もるところ本人だけなんだ〉

  だが、その本人はもうこの世にはいない。

  直接、訊くこともできない。

〈それでも、先生はお前のことを片時も忘れなかった。俺にもよく話してくれたし、この床に
落ちている幾つもの資料がその事実を訴えてる〉

  ふと、マリアの視線がテーブルの上にある細長い代物へと向かった。何となく、それを掴
 み取ると、

(万年筆……それもボロボロの……)

  手にもったそれを、角度を変えて見る。

  一体全体、どれだけ使い込めばこれだけくたびれた不格好なものへと変貌するのか。あち
 こちに傷跡があり、滑り止めなのか万年筆の手に持つ所にはテープが巻かれていた。

  機能性を重視した万年筆は、本来ある高級感というものが微塵も残ってはいなかった。

〈深夜に一人黙々と何かに取り組んでいた先生の背中は今でも覚えてる。頭を抱えながら、躍
起になって。おそらく病を消す構築式を組み立てていたんだろう〉

  何かが、胸の奥から何かがこみ上げてくるような感じがした。漠然とした感覚。言葉で表
 せるけど、言葉した瞬間、自分の自尊心が崩れるような気がした。

〈お前は見捨てられていなかった。先生は必死になって、お前を救い出そうとしていたんだよ。
俺は、それを目の前で見ていたから分かる〉

  セロンが言っていたことは嘘では無かった。

  ただ、自分はそれを肯定したくなくて拒絶し続けていたのだ。

  居てほしいと思った時に、居なかった彼を憎んでいた。好き勝手にやっていると思いこんで
 いたのに、彼は親としての大義を果たそうとしていたのだ。

  そして──それはマリアの不治の病を消すという形で果たされた。

  けど、彼はもういない。なぜなら、ヒューゴ・ナーディムは死んだから。

  本人を見ることもできない。本人の前で話すこともできない。

  怒ることも。

  泣くことも。

  何もかも理解するのが遅すぎた。

〈だから……許してあげてほしい〉

  目頭はとっくに熱を帯びていた。

  こみ上げていた涙は既に頬を濡らしていた。

「ずるいよ……。今になって、そんな……」

  嗚咽を漏らしながら、マリアは床にくずおれる。

  埃にまみれた紙を気にする様子もなく、ヒューゴの努力の結晶を胸に抱き、体を揺する
 ようにして涙を流す。

「ごめん……ごめんね、お父さん……!」

  マリアは大声を上げて泣き出した。

  自然と"お父さん"という言葉がでた事に、気づいた様子はない。言葉では言い尽くせない
 ほどの謝罪と、悲哀……そして感謝がマリアの胸の内をかき混ぜていたからだ。

  そんな泣きじゃくるマリアを、セロンは静かに見守っていた。








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