〈12〉 クリストファーは立ち上がることもままならないほどの深手を負っていた。歯を食いしば りながら肩を大きく上下する姿は何とも痛々しい。 《猛獣使い》として、裏の世界でそこそこ名を馳せている老年の錬金術師は、目の前で佇 む年若い錬金術師を前にして愕然としていた。 《シオン修道会》と共に、秘密結社の中では最高峰に当たる《薔薇十字団》という組織。 セロンがそこに属する錬金術師であると知り、打ちひしがれた様子だった。 「な、なぜ貴様のような高位の錬金術師が、こんな辺境の地に……。わ、私を追ってくるにし ても《協会》が薔薇十字団の《セフィラ》を派遣するとは――」 クリストファーの台詞が終わる前に、セロンが口を開く。 「勘違いすんな。俺はあんたを追ってここまで来たわけじゃない。探し物があって寄っただけ だ。それに、あんたは勘違いしてる。俺はもう《薔薇十字団》の錬金術師じゃないしな」 「ど、どういうことだ」 疑心暗鬼に駆られている老年の錬金術師に、セロンはさらりと言った。 「辞めたから」 ──ヒュ〜、と風の吹く音が耳朶に触れた気がした。 それくらい閑寂とした時間がほんの数秒間だけ流れた。クリストファーはしばらく、ぽか んと口を開いたまま呆然としていたが、やがて意識を取り戻したように身を震わせると、 「や……辞めただと!? 誰もが羨望する最高峰の秘密結社。その中でも最高の地位を……お、 お前は自ら抜けたというのか!?」 と、がなるようにして吠えた。 あり得ない、信じられない、といった風に老年の錬金術師は弱々しく首を左右に振る。 マリアには《薔薇十字団》の錬金術師という地位がどれだけ凄いものなのか分からない。 が、少なからずクリストファーの顔から、簡単になれるものではないということは理解できた。 「《アルス・マグナ》を探し出すためにも、薔薇十字団を抜ける必要があったのさ」 訥々とセロンが呟いた。 「《アルス・マグナ》? ……まさか、あの《アルス・マグナ》のことを言っているのか?」 「他になにがあるんだよ。真の錬金術と称されるもの。錬金術師の最大の目標であり、最終到 達地点。神に等しい知恵と力を得ると言われている伝説の代物だ。あんたくらいの錬金術師だ ったら知ってるだろ?」 セロンとマリアが追い求めている"探し物"──《アルス・マグナ》のことを聞き入ったク リストファーが呆れ顔を作り、体に走る激痛にも気にする様子もなく嘲笑し始めた。 「お、お笑い種だ! あんな空想の産物としか見られていない代物を追う人間がいたなんて。 それも手に入れた薔薇十字団の確固たる地位を捨ててまで探し続けているとは。馬鹿げて いるとしか言えん!」 嘲笑うクリストファーに、しかしセロンは平然と言ってのける。 「夢がないな、あんた。錬金術師は元々、世界の真理を知ることが最終目的だと言われていた んだ。《アルス・マグナ》はそれに最も近いものとされてた代物。探す価値は十分にあるさ」 「貴様は自分が何を言っているか理解しているのか? 《アルス・マグナ》だぞ? 錬金術を 学ぶ者ですら、その存在を知らないという輩さえいる未知の代物。錬金術なのか、果ては形と して存在するのかも解明されていない伝説上のものなんだぞ?」 「あるさ。俺の師がそういってたんだからな。少なくとも俺はあると信じてる」 「……師だと? はっ、師が師なら弟子も弟子だ。空想のものを追い求めて術師としての才を 蔑ろにしている所が似ているのだろうよ!」 侮蔑を込められた言葉に、セロンの目がすっと鋭くなる。 恐らく師を──尊敬するヒューゴの存在を馬鹿にされて癇癪を起こしたに違いない。 セロンはマリアの父であるヒューゴを崇拝するかの如く尊敬している。父親がどれだけ凄 い錬金術師であったかマリアは知らない。訊きたいと思ったこともないからだ。 しかしセロンが尊い敬うほどの人物なのだから、相当に著名だったのは間違いないだろう。 現に、セロンが得意とする『分離』の錬金術は元はヒューゴの十八番だったというのだ。 それを真似して使うほどなのだから、心酔の度合いは計り知れない。 「てめぇに何が分かる……。《アルス・マグナ》を追い続けた先生の度量の大きさが。ひたす ら理想を追い求めたあの人の偉大さが……。てめぇみたいな小者に」 「ふんっ! 何が理想だ! 何が偉大だ! 今の時代、錬金術師がただ理想を追い求めるだけ で何を得られる!? 我々だって科学者だ。誰だって心の内では栄光だって名誉だって欲して いるに違いない。時代は変わった! 理想を語る時代はとうに終わったのだ!」 最後にニヤリと笑ったクリストファー。 科学が急速に発展していくなかで、多くの科学者が栄誉を手にし、世間で名を馳せている。 錬金術は飽くまでも科学の一分野であって、通常の科学とは懸け離れた存在だ。世間の目 から逃れ、決して表に引き出してはいけない禁断の科学なのだ。 しかし、科学の歴史を掘り返してみると意外なことがわかる。今現在この世にある科学の 原初はなんとその錬金術なのだ。 つまり、俗世の表側で活躍する科学の全ては錬金術を通して生まれたものなのだ。 それなのに、原点である錬金術だけ俗世に関わることを許されないのはおかしい、と思うク リストファーの考えは至極当たり前のことだった。 身近で名をあげている同じ科学者を、ただ指を加えてジッと見ているのが我慢ならないの だろう。嫉妬心が増長し抑えきれず、パターデルの村人でキメラの実験という愚行を犯して しまったに違いない。 だが、セロンの顔に感情の揺らぎはなかった。彼はすっと息を吸うと、真摯な瞳を《猛獣 使い》に向けつつ、その一言を口にした。 「 己の信念を貫き通す台詞に、マリアは魂そのものが震えるような感覚に陥る。富や名声を 欲しようとしない、ただ探求に没頭する本来の錬金術師としての姿がそこにあった。 怯む姿勢を見せたクリストファーは、次いでよろよろと立ち上がり始める。 「私は……こんなとこで朽ちるわけにはいかない」 クリストファーは、ぜいぜいと喘ぐ。 「止めておけ。俺の右手で体の大半に相当のダメージを負ったはずだ。これ以上、体を酷使 すれば最悪──」 「ぐ、がっ! ウゥ……っ!」 苦悶を漏らし、地面に血反吐を吐き散らす。セロンの右手によって、錬成された体が蝕ま れたせいだろう。クリストファーはくずおれるようにして膝を折った。 「それだけじゃない。複数による他動物との不確定性の高い合成が祟ったんだ。高みに近づこ うとしたのが、かえって仇になったんだな」 「ふ、ふざけるな……。私は、こんなところで、朽ちる器では、ない」 「動くな。無理に身体を動かすと、さらに酷く──」 「黙れぇ──っ!」 激昂するように吠えたクリストファーが、満身の体に鞭を打って飛び込んできた。 いったい何処にそれだけの余力が残っていたのか? 地面を力強く蹴り、腕から生えた爪 牙をセロンに向けて猛然と振ってきたのだ。 「あ……」 か細く、力のない声色の主はクリストファーだった。彼の視線は己の腕の延長上に存在す るセロンの右手だ。 既に致命傷に近い深手を負った《猛獣使い》の一撃は、先刻のものと見間違えるほどに遅 速としたものだった。 その振るってきた腕を、セロンが掴み取ることは造作もなかった。 「ま……ま、だ、わた、し……」 「どちらにせよ、あんたは裁かれる運命だった。自業自得だと思え」 セロンの右手が触れた瞬間、クリストファーの体が二次の崩壊を始めた。体中に無数には しっていた亀裂がさらに伸びていく。 触れたものが錬成物ならどんなものでも破壊してしまう特殊な右手が、セロンの意思とは 無関係に、分子に近いレベルまで分解していった。 風化した脆い岩石のように《猛獣使い》の腕が、足が、胴体が、頭部が──がらがらと倒 壊して砕け散っていく。 最後には、地面の上で風になびかれる砂状の塵が残った。 「錬金術師の──キメラの使い手がキメラによって滅ぼされる、か。このオッサンの最期とし ては上等な末路だろう」 地面に積もっている塵を一瞥したのち、セロンは踵を返す。強い風が吹き、クリストファ ーの残骸をさらっていくが気にする風もなく、もときた道を辿り始めた。
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