〈11〉 空が黄昏れてきている。橙色に近い夕日が、周囲のものを包み込んでいた。 森林の中へと足を踏み入れて数分、突然その樹木の群れが総じて消えた。 現れたのは無数に乱立する木々に囲まれる地面の剥き出しにされた土地と、巨大な岩肌。 そしてその岩肌を背にして佇む執事の姿だった。 生い茂る緑林を抜けて、セロンはその草一本はえていない剥き出しの地面へ歩み始めた。 「鬼ごっこは終わりか?」 鼻で笑うようにセロンが嘯く。が、内心では執事の行動に怪訝な反応を示しているようだ。 地面の剥き出しになった空間を覆うようにして、岩肌と大量の樹木が天然の壁となり三百 六十度囲んでいた。 セロンの眼前、その岩肌にぽっかりとあいた洞穴が見える。山肌を直接くり抜いて人工的 に作られたと思わせる洞穴は、異常なほどの高さがあった。 十メートル近くに及ぶ、都会のビルほどの丈を誇る大きさの穴だ。 〈ねえ、セロン……〉 「隠れる場所にしては開けっ広げ過ぎ。別の逃げ道に繋がっているなら話は別だが……」 そこから推理できるのは逃げるつもりはない、ということだけだ。セロンとその執事の距離は、 ざっと見て十メートルといったところだろう。 「あんた……《 ただ対峙しているだけの煮え切らない状況に、先に折れたのはセロンだった。その台詞を 聞き取ったアンディの執事はローブの中から口端を吊り上げる。 「ほう、何故わかった?」 「合成獣を作る際に、三体以上を組み込むのは、相当難易度がいるって知人から聞いたことが あってな。そんなことが出来るのは上位クラスの錬金術師くらいだ」 クリストファーを睨みつつ、セロンは台詞を紡ぐ。 「高度な実験を行うとなると、熟練した技術が必要になる。《猛獣使い》という錬金術ならそれを 可能とするらしい。その称号を持つ錬金術師なら俺でも知ってる」 「なるほど、著名なのも問題だ。いかにも、私は秘密結社《 金術師クリストファー・ブラウン……《猛獣使い》の称号を持つ者だ」 アンディの執事──クリストファーと名乗った本物の錬金術師は、顔を覆い尽くしていたロ ーブを捲り上げた。 中からでてきたのは、若干白髪の混じった髪。そして年齢以上に老け込んだと感じられる 顔だ。しかしその顔からは、己の欲望を満たそうと瞳が爛々と輝いている。 「秘密結社の双璧と呼ばれる《シオン修道会》……。まさか、あそこの錬金術師だったか」 セロンが不愉快そうに顔を歪める。会いたくない相手に出くわしてしまった。そんな酷く 険悪な雰囲気を隠すことなくさらけ出していた。 「なぜ、こんな大事をしでかした?」 「なぜ? 貴様も錬金術師を名乗るなら分かるはずだ。錬金術という科学を学ぶ者として、そ の成果を存分に試したいと思わないか?」 「『世間に栄光を求めるな、己の力にのみ栄光を求めよ』……。錬金術師の謳い文句だぜ? 俺達の扱う奇術は俗世の表に晒しちゃいけない存在だ。都心にまで噂が広がったら最悪、 《協会》側だって動きかねない」 錬金術が使用できるからといって、必ずしも錬金術師とは限らない。マリアがそのいい例 であり、彼女は錬金術を扱えるが錬金術師としての資格を持っていないのだ。 《協会》と呼ばれる、錬金術の全てを統轄する団体に認知された秘密結社、組織、或いは 機関その他諸々に属し、属した団体から錬金術師の資格を与えられることで初めて錬金術 師と名乗ることが出来る。 セロンも、そしてクリストファーも秘密結社の類に属している、または属していたからこそ、 自らを錬金術師と口にすることができるのだ。 「それがどうした! 自らが手掛けた作品を世に示したいと思うのは、誰もが思う当然の理で はないか!」 クリストファーは血走った瞳を一心にこちらへ向け激昂した。その感情的な老年の錬金術 師に、しかしセロンは努めて冷静を装っていた。 「それをしちゃいけないのが錬金術師さ。理想を追うのは構わないが欲望を求めるのは駄目だ。 あんたはそこら辺がごっちゃになってる」 セロンの忠告をクリストファーは鼻であしらうようにして一蹴する。 「これ以上の無駄話を続けるつもりはない。貴様は──」 追い詰められていた立場にあるクリストファーの顔が嗜虐的に歪んだ。首からぶら下げて いた小さな 「──私のペットの餌にしてくれる」 その呼子笛を力一杯吹いた。だが、ここに来る最中にセロンが言っていたとおり、笛の音 がない。人間の聴覚では聞き取れない超音波のような類なのだろう。 しばらくすると、その呼び声に反応するようにセロンの立つ地面に微弱な振動を感じた。 「……なんだ?」 セロンの顔が警戒の色で濃くなる。 足元から伝わる微かな振動は次第に大きくなり、それはやがて地響きにも似た大きなもの へと変わっていった。 振動の震源地は、セロンの眼前──クリストファーの立つ後ろに掘られた洞穴からだ。 そして、マリアとセロンは縦長の洞穴から現れた"それ"と直面した。 〈な……なにあれ?〉 「で、でけえ……」 それはあまりにも大きかった。いや、大きすぎた。首が吊ってしまいそうなほど見上げる ことで、やっとその全貌を視認することができた。 身の丈はおよそ五メートル強。だが、それはあくまでも高さであり、全長はその倍を要し ているはずだ。 「私ほどのキメラ使いにもなると合成だけに留まらない」 極端に短い前足は使用する機会がほとんどなさそうだ。しかし、反比例するように異常な 太さに発達した両脚が余計その存在感を際だたせている。 その先端から生えた巨大な爪が地面を力強く踏みならして抉っていた。 「おい……嘘だろ」 そいつの上半身は、他の肉食動物を追随させることはない圧倒的な存在感をさらけ出して いた。 見た者は誰であろうと、畏怖を感じずにはいられない佇まい。後方で巨大な尾が左右に揺 れていた。その巨体を包み込むのは無数の鱗だ。 「嘘ではない。練達者は、このように絶滅した動物を復元することも可能なのだよ!」 大仰に両手を広げるクリストファーの後ろで、そいつは非常に大きな口元から発達した牙 をちらつかせ涎を垂れ流していた。 おそらくセロンを──餌を目前に早くも捕食者の本能を掻き乱されているようだ。 「さあ、いけ我が下僕──" クリストファーの合図と共に、全長十メートルを超える巨体が猛然と接近してきた。 「××××××××────ッ!!」 巨体の持ち主が言葉に表せないほどの絶叫を撒き散らす。 数千万年前に健在していたと言われる恐竜。そのなかでも最大の肉食恐竜として名を馳せた 恐竜界の王とも呼ぶべき存在──ディナモサウルスが長大な顎を開き、こちらへ駆け寄っ てくる。 〈って、ちょっとー! なに逃げてんのよ!〉 「アホかお前!? あんなのと正面切って張り合えるわけないだろ! 近づいた瞬間に一口で 喰われて前菜にされるのがオチだ!」 ディナモサウルスが接近を試みていたときには既に、セロンは踵を返して森林の方へと走 っていた。草木を掻き分け、セロンは密集した木々の中でも一際大きな大木の前に立つ。 「 再び錬成呪を唱えたセロンは、左腕を勢いよく木の幹へと打ち付ける。その瞬間、木の幹 の一部が塵状の物質へと分離して消失した。軋みを上げ大木が倒れる。 ちょうどその時、生い茂る樹木を踏み潰しながら森林の中へと侵入してきたディナモサウ ルスの首筋に向かって──その大木が勢いよく落下した。 「────ッ!?」 ディナモサウルスの首が、その衝撃に耐えられなかったのか反り返る。苦悶すらも絶叫と して吐き散らした恐竜の王は、しかしその鋭い瞳の闘志は決して萎えてはいなかった。 〈セロン!〉 「あれを食らってまだ倒れないのか。冗談きついぞ」 王としてのプライドか、はては生き物としての本能か。ディナモサウルスは瞳に激情を馳 せつつ、太い両脚で己の身が倒れないように支えていた。 ディナモサウルスはタイミングを計るようにして呼吸を整えている。おそらく首にもたれか かった大木を退けようとしているのだろう。 だが、その一瞬の隙こそがセロンに好機をもたらした。 「なら! ゲマトリア語を詠唱という形で紡ぎ、今度は地面に左手を叩きつける。 次の瞬間、眼前のディナモサウルスの足元が歪むようにして変化をきたし、砂状と化す。 その巨体をさながら蟻地獄のようにして飲み込もうとしていた。 「××××××××────ッ!!」 だが、ディナモサウルスはあまりにも巨大すぎた。セロンの錬成呪によって発動した錬金 術では効力が乏しかったのだ。 恐竜の王は再び哮り、砂の中に埋まりかけていた脚を固い地面の外側に引っかける。強引 にその場から這い出ようとしていた。 「まだまだぁ! セロンは再度、別の錬成呪を唱え、両手を地面に押し込むようにして密着させる。 そこからディナモサウルスが立つ場所まで地面に亀裂が走り、先刻の錬成呪の倍ほどの規 模を要した錬金術が発動。ディナモサウルスの巨体だけではなく、周囲一体の草木も一緒に 砂状と化した地面の中へと飲み込まれてゆく。 「××××××××────ッ!!」 ディナモサウルスが咆哮しつつ、泥沼のような砂の穴から必死になって這い上がろうとし ていた。だが、今度ばかりはセロンに軍配が上がった。 砂漠に飲み込まれるかの如く、ディナモサウルスの巨体が沈む。必死に抵抗しようとする が、返ってそれが沈下の速度を速めていた。 そして哮り狂うディナモサウルスの巨体は、物の見事に砂状の地面の中へと沈みきった。 「その若さで第二錬成法──錬成呪を完璧に扱えるとは驚きだ」 セロンと共に安堵の息をついていた矢先、横から声が掛かる。セロンの首が弾むようにし て、その声のあった方向へと向けられた。視線の先には、クリストファーの姿があった。 (いつの間に……?) 唐突に現れたクリストファーに対し、マリアとセロンは警戒心を強める。 「キメラを扱うにいたって、最大の欠点はなんだと思う?」 身構えるセロンを前にして、クリストファーはローブの中に両腕を収め泰然と佇んでいた。 両者の間合いはざっと見て五メートル弱。踏み込みと同時に詰め寄るまで二秒かからないく らいだ。 「……キメラの専門家じゃないんでな。俺は知らん」 「融通がきかないことだ。キメラも生き物である以上、少なからず知能は存在する。だが、そ れにも限界はある。低能な生物は確立した命令通りに動いてはくれない。そして感情があるゆ えに躊躇さえする」 それは当たり前のことだ。 機械でもない限り、自分の思惑どおり忠実には動いてくれないだろう。 「……では、それを解決するにはどうすればいいと思う?」 クリストファーの口元が半月を形作る。酷く陰惨な笑みだ。 「答えは簡単だ。錬金術師自らがキメラと化せばいい──この私のようにな!」 言葉を吐いたと同時に、クリストファーは身に纏っていたローブを外側へと引っ張り脱ぎ 捨てる。中から出てきたのは老いによって蝕まれた弱々しい体などではなかった。 〈な、なによ……あれ〉 「なんつー野郎だ……。自らを媒体にしてキメラを作りやがったのか」 マリアとセロンの声が引きつっている。 身の丈からして、クリストファーの体そのものは矮小だった。 だが、脆弱や痩躯という言葉から懸け離れた筋肉質の体。さらに葡萄のような赤紫 色の肌には、無数の触手のようなものが蠢き脈を打っている。 見た瞬間に"人外"という言葉が思い浮かんだ。自分が"表"側にいたら間違いなく吐 き気をもよおしていただろうと、マリアは思った。 「ハハハハッ! 素晴らしいと思えないか? これこそがクリストファー・ブラウンの最高傑作だ!」 「キメラ作りだけじゃ飽きたらず、自分の身まで手を出したのか……。あんた、墜ちるところ まで墜ちたな」 「何とでも言うがいい。行くぞ、若き錬金術師よ!」 裂帛の気合いと共に、クリストファーが地面を蹴る。互いの間合いは一瞬にして無と化した。 勢いそのままにクリストファーは右手をこちらの顔面に突き出してくる。指の折り重なった それは鋭く、人を殺すに相応しい凶器になっていた。 「チィッ──」 舌打ちと共に、セロンは上半身を反らして回避。顔の横をクリストファーの右腕が通過し ていく。 ただ、セロンはそれを傍観する風もなく、両腕で掴みにかかる。そのままクリストファーの 懐に潜り込むと、セロンは背負い投げの要領で投げ飛ばした。 「ほう……錬金術だけではなく武術の心得もあるか」 しかし投げ飛ばされたクリストファーは、空中で体勢を立て直し地面に着地する。それを 見つつ、セロンは不意打ちで出来た頬から流れる血を拭っていた。 「ガキの頃から先生に嫌というほど叩き込まれてきたからな。それがなかったら多分、今の一 撃で御陀仏だろう……よッ!」 語尾に力を入れたセロンは、不意を突くようにして地面に左手を突きつける。先ほどの錬 金術の効力がまだ残っていたのだろう。 手が触れた瞬間、地面の一部が砂状と化し、周囲に四散した。 「ぬぅ……! 小癪な真似を!」 煙幕のように広がる砂状の塵を利用して、セロンは木陰に隠れる。接近戦に持ち込めばこ ちらが不利なのは目に見えて明らかだと悟ったに違いない。 「これで少しは時間が──」 稼げるだろう、という言葉がセロンの口から紡がれることはなかった。 木の幹から覗き込もうとしたセロンの瞳には、いつからそこにいたのか、クリストファー の姿があった。驚愕に瞳が見開かれる。 「隠れても無駄だ! 私がキメラなのを忘れたか。嗅覚も犬並みに鋭いぞ!」 血眼を瞬かせるクリストファーは、獣の爪牙のような右腕を横薙ぎに振るう。高速で繰り出さ れた一撃は、あろう事かセロンが背を預けていた木の幹の一部を根こそぎ削ぎ落としていた。 「糞っタレが! 「遅いッ!」 埒があかないと察したセロンが立ち上がり錬成呪を紡ごうとしたが、クリストファーの上 段蹴りによって阻止される。 しかも、キメラによって得た膂力が強すぎたのか、腕で防御したセロンの体が吹き飛んだ。 「が……ぐ……ッ!」 〈────ッ!〉 セロンの体が草むらの上を転がる。五感の全てを共有しているため、その負荷がマリアに も降り注いでいた。 転がる勢いが納まったのを見計らって、セロンは立ち上がり再び木の幹に背を預け身構え た。 「高度な錬成呪を使われた時は冷や汗をかいたが……詠唱を中断させてしまえば恐るるにたり ん!」 「……本当にそう思うか?」 その言葉を呟き終えたセロンが、今度は文字通り横に飛んだ。一拍の間を置いて、先刻ま でセロンが背を預けていた樹木が、音を立てててクリストファーの佇む方向へと落ちていく。 「錬成呪が使えねえなら、錬成陣を代用にするまでさ!」 セロンは背を預けていた木の幹に、白墨で簡易の錬成陣を描き上げていたのだ。 クリストファーからは死角になっていたため確認することも不可能。軋む音を上げながら、 巨大な樹木が薙ぎ倒される。 大木の倒れる音が響き渡り、埃が舞い散った。 「不意打ちとしてはまずまずだったが、些か惜しい……。そして、何よりも戦闘慣れしている。 貴様、よほど場数を踏んでいるな?」 セロンの顔が弾むようにして声のあった上空へと向けられる。 「合成のオンパレードだな畜生……」 吐き捨てるように呟いたセロンの視線の先には、空中で静止するクリストファーの姿があ った。背中から生えた両翼が羽ばたき、彼の体を空中で留めていたのだ。 「素晴らしいだろう。これこそが生物の進化の行く末。私はその先達者として後世に名を残す のだ!」 「冗談じゃねえ……。そんなもん進化でも何でもない。ただの傲慢。人の歩むべき摂理から反 した叛徒そのものだ」 「言うではないか若き錬金術師よ……。なら、その異端の力の前に伏するがいい!」 会話を強引に終えさせたクリストファーは、背中の両翼をしならせこちらへ向かって滑空 してきた。 タイミングを見計らってセロンは回避に移るが、敵の動きは予想以上に速かった。クリス トファーが通り過ぎた後に、腕の部位に痛みが走ったのだ。 「……ッ!」 苦悩を漏らしつつ、セロンはジャケットの上から二の腕を押さえる。しかし、押さえた箇 所から滴れ落ちる血を誤魔化すことはできなかった。 「一筋縄じゃいかないようだ。少しだけ辛抱してくれよ」 〈分かってる〉 セロンの独り言のような囁きに、マリアが答えを返す。表情や言葉に出さなくても、セロンが マリアの事を案じながら戦っているのは明らかだった。 五感を共有するに当たって痛覚はまさに最大の弱点。温室育ちのマリアにとって、このように 命のやり取りをする状況は慣れていないのだ。 足を引っ張っていることに対して、マリアは申し訳なさを感じた。 「ふははは! 追い詰めたぞ、若き錬金術師よ!」 度重なるクリストファーの猛攻をなんとか振り切りながらも、セロンは木々を抜けた岩肌 へと追い詰められていた。 その光景を《猛獣使い》の錬金術は愉しげに上空から睥睨している。 「もう逃げ場はないぞ若き錬金術師」 「…………」 逃げの一手とはいえ、数を重ねれば疲労は蓄積する。キメラと化したクリストファーとの 体力差が顕著に表れていた。セロンは顔を俯かせながら、肩で息をしている。 その体の所々には、ナイフで切ったような切り傷が幾つもできていた。致命傷を避けたとは いえ、あれだけの怒濤の攻撃を完全に回避するのは不可能だった。 「次で終わりにさせてもらう。最後に言い残す言葉はあるか?」 「…………」 「無い、ようだな。ならば死ぬがいい」 生々しい宣告を下したクリストファーが上空から、それも先ほどの滑空とは比べものにな らないほどの速度で飛来してきた。 空を切り裂きながら一直線に近づいてくるクリストファーに対し、セロンは顔を俯けたま ま無言を貫いていたが、 「あんた、他のキメラと同じで錬成によって新しい身体を手に入れたんだよな。だったら――」 上空から滑空してくるクリストファーに向けて、セロンはのろりとした動作で視線を上げ る。その双眸は鋭く、闘志は萎えていなかった。 「―― 彼我の距離が狭まれ、セロンは それを視認したクリストファーが嘲笑したように見えた。おそらくセロンが錬金術を使用せず、 ただ闇雲に腕を出しただけだと思ったのだろう。 「馬鹿め!」 クリストファーがひどく陰惨な笑みを刻み、滑空を試みる。飛来してくる敵を見ても、セロンは 逃げようとせず、ただ右腕を突き出した状態で待ちかまえていた。 空から攻めてくるクリストファーが拳を握る。キメラ化によって得た怪力は計り知れない。ただ 殴るという行為だけで、セロンの右腕は一瞬で砕けてしまうだろう。 彼我の距離が一メートルに達したとき、クリストファーは猛然と拳を繰り出した。 互いの手が激しい音と共に衝突。バチンという鞭を打ち付けるような音が木霊する。 「「…………」」 久しい静寂がその場を包み込む。 クリストファーの拳をセロンの右手が掴み取るという形で、両者は硬直を維持している。 猛獣使いの両翼と、ぶつかる衝撃によってか砂塵が巻き上がっていた。 「ば、馬鹿な……なんなんだこれは!? か、体に亀裂がァーッ!」 悲鳴を上げたのはクリストファーだった。彼が言葉にした通り、体中に亀裂が走り、そこ から鮮血が迸る。激痛からか、クリストファーは地面に蹲り悶絶していた。 「俺の右手はちょいと特殊でな。触れたものが錬成物なら、それが有機物だろうと無機物だろ うと分解しちまうんだ」 呻き声を上げながら震えるクリストファーを、今度は逆にセロンが俯瞰していた。 「もっとも、分解されるレベルが毎回異なっていて、原子に近いレベルでの分解もあれば、細胞 の一部を破壊する程度で留まることもある……。使い勝手がイマイチだから極力使わないよう にしてるんだよ」 セロンを見上げたクリストファーの視線は、ある一点に釘付けになった。 「薔薇と十字架の折り重なった刺青……。ロ、《 度肝を抜かされたように、クリストファーの瞳が見開かれる。その視線はセロンの右手の 甲に掘られた奇妙な刺青へと向けられていた。 「き、聞いたことがあるぞ。《シオン修道会》と並ぶ秘密結社の双璧、《薔薇十字団》。その組織が 有する最高の実力派集団、《セフィラ》に異例の若さで就任した少年がいると……よもや貴様が」 苦渋に歪んだ顔からは、戦意が失われつつあった。 「触れた物が錬成された物質なら、どんなものでも分解してしまうという神の手を持つ少年。 クリストファーは強ばった声音で必死に言葉を紡ぎ出す。震える体を押し留めようともせ ず、目の前に佇む少年に畏怖の念を抱いていた。 「《薔薇十字団》の錬金術師――《
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