《8》
二つの影がぶつかったと同時に、紅い液体が霧のように虚空へと舞った。
魔神の放った一撃は、逸れることなく白い袴に包まれた青年の体へと吸い込まれていき──そして一刀の下に切り裂いていた。
灼熱を収めたような魔神の双眸が鈍い輝きを放ちながら、青年を見据え微動だにしない。振り抜かれた日本刀の切っ先が頭上へと向けられ、こちらも鈍い輝きに瞬いていた。
対するは、仰け反る白袴の青年。口から苦悶のようなものを漏らしたのもほんの一刹那。意識がぶつりと途切れたかのように膝が折れると、そのまま冷たくなった床へと崩れ落ちていく。
酷く凄惨な光景にも関わらず、それを傍で見ていた桜は感慨のようなものを覚えてしまう。
二つの影、血煙、埃、闇、月光。そこにあるもの全てが、まるで幻想的なものにさえ見えてしまった。
そしてこの幻想的な光景こそが、この非現実的な生活の終わりを告げていた。
* * *
突如、切の周囲に白い霧のようなものが生じる。
魔神の鎧に包まれた切の身体を、さらに飲み込もうとするそれに、しかし彼は動じる気配はない。全てを委ねるようにして、切は両目を閉じた。
一刻の間を置くと、魔神の姿は何処にもなかった。変わりに切本来の姿がそこにあった。異形な鎧も、両翼も、仮面も、全て霧の中に消えてしまったかのように魔神の面影は何一つ無い。
以前の……無表情に近い顔を見せる切だ。
彼は一つ深呼吸をして、ゆっくりと足元に視線をやる。
「…………」
そこには秋水──刃の身体が静かに横たわっていた。
切はゆっくりと膝を折り、刃の頬にそっと手で触れた。死して間もない体には、幾らかの体温が残っていた。まるで眠るように穏やかな表情で両目を瞑る遺体からは、亡き兄の姿が鮮明に切の脳裏に甦ってくる。
誰よりも強い意志を持っていた兄の存在を。
誰よりも強い実力を備えていた兄の存在を。
誰よりも強い尊敬を抱かれてた兄の存在を。
切は、その誰よりも一番に兄である刃を誇りに思っていた。
「…………」
しかし、刃の身体はいま亡骸でしかない。誇れる事はできても、頼れる事はできないのだ。それが現実であり、受け止めなければならない事実。
「陸、いるか?」
呟いたと同時に、床に一つの影が浮かぶ。
視線を上げるとそこには陸の姿があった。
「……終わったんだな」
切と同じように刃の頬を手を当てる陸の顔には哀愁が満ちていた。
「けど、こんなのってあるかよ。何で、何でこいつがこんな……」
全てを見ていたのだろう。だからこそ吐ける台詞だ。
やり場の無い怒りを堪えるように身を震わせる陸を見、切は訥々と言葉を紡ぎ始めた。
「陸、このことは他言無用にしてくれないか?」
「どういう、ことだ」
「この事実が里に知れ渡ったら、俺が"実力で兄に勝った訳でなはい"とレッテルが貼られる。それは……どうしても避けねばならないんだ」
「待てよ。お前、本当にそんなこと望んでるのか? 親父さんの陰謀も、刃が殺されていた事も里の奴らは何も知らない。刃の名誉が傷つく事は、目に見えて明らかだ」
「解ってる。この事を里にいる彼らに話さなければ、兄は……一族が続く限り永劫けなされ続けるかもしれない。けど、父ではなく、兄に勝利したという称号があれば、当主に就いたあとの信頼を掴むのは早い」
切の声音は、陸に感づかれない程度に震えていた。
その震えたか細い声で、切は振り絞るように言葉を吐く。
「兄が望んだ真神の在り方を作るために、俺たちにいま最も必要なのは信頼だ。それこそが一族の存在する意義を変えるための唯一の近道なんだ」
「お前……」
陸の言いたい事は分かる。自分が言わんとしてることは、刃を土台に真神を根本から変えようということだ。
無論、それは自分も望みはせず、出来るならすぐにでも里に帰り、今あった事実を在りのまま話したい。しかし、彼は──刃ならその選択に首を横に降る。
「ここであった事は俺たちの胸の裡に閉まって置いてほしい。いま俺たちが成すべき事は、兄の死を嘆く事じゃない。"彼が望んだ未来を作ることだ"」
一つの間がその建物の中に降りる。やがて、何かを悟ったような目付きで陸は切を見やり、
「……本当に、それでいいんだな? 尊敬していた人物が影で罵られたり、けなされるんだぞ? お前はそれを──」
「覚悟は、できてる」
決意に揺れる切の瞳。それを正面から受けた陸は、暫し考えるように見据え、やがて納得いったように嘆息する。
「解った……。ここで起こったのは切と刃の一騎打ちだ。おれは介入せずに一部始終を見ていた。それでいいだろ?」
「ああ」
「刃の遺体はおれの部下に任せておけ。丁重に運ぶように伝えておく」
陸が刃の身体に腕を通し、ゆっくりと持ち上げる。一度だけ悲しむような相貌を見せるが、それも一瞬だけ。くるりと踵を返すと、工場から出て行く。
それを見届けた切も腰を上げると、桜の下へと足を運ぶ。彼女が脅えない様に早すぎず、かといって遅すぎずに近づいていった。
「切……」
「怪我は、なさそうだな」
両腕と両足の縄を解き、ゆっくりと桜を立たせる。そして、二の句が継げずにいる桜に切は一言だけ口にした。
「……帰ろう。もう、ここにいる必要はない」
振り返り切も工場から出て行こうとする。背中から桜の視線を感じるが、彼は歩を止めようとはしない。切には、それ以上ほかに掛ける言葉が無いからだ。
|
|