――紅霧――



     《7》


 切の佇んでいた床が凄絶な音と共に穿たれたと同じくして、一瞬にして彼の姿が秋水の横合いへと現れた。
「──ッ!?」
 秋水に見えたのは、光すら遅れたのかと錯覚させる残像のみ。秋水の動体視力を持ってすら、その程度しか認識できなかった。瞬時に消えたとしか思えなかったのだ。
「オオオオオォォォォォッ!!」
 察して間もなく、咆哮と重なるようにして、目の前に白刃が煌いた。
 切の鞘から放たれた刃は、秋水の身体を真っ二つにせんと斬り上がる逆袈裟斬り。烈風すら巻き起こしかねない本当の意味での神速の一閃は、見切るなど困難だ。
 だが秋水は無意識に──それこそ長年の経験で培われた勘が、自然と彼の身体を動かしていたのは不幸中の幸いだった。秋水の右腕が、切を視認したのと同時に身を守るようにして持ち上がっていたのだ。
 切と秋水。二人の凶刃と凶刃がぶつかり合い──
「ガアアアアァァァァァーーッ!!」
 ──秋水の身体が、冗談のように上空へと投げ出された。
「な──ッ!?」
 驚愕に目を見開いた秋水は、切の異常なまでの膂力に度肝を抜かされた。
 いくら《脳の境界》が外れているとはいえ大人一人を、それこそ直接放り出すのではなく日本刀を中心に置き押し上げたという事実に身震いしていた。
 それでも何とか空中で体勢を整えた秋水。しかし眼下から迫り来る一つの影を直視し、やはり驚きから愕然せざるおえなかった。
「な、なんだと!?」
 凄まじい勢いで接近してくるのは切だ。床が砕け、衝撃の反動で跳び上がる魔神。
 だが秋水が驚いたのは彼が単に近づいてくるからではない。それだけならここまで愕然とする理由がつかない。
 驚く理由はただ一つ。

 飛んでいるのだ、、、、、、、

 肩甲骨辺りで生えた両翼をばたつかせ、一直線に脇目を逸れることなく猛追してくるその様は、空を飛ぶという希望を抱く、人間が望む姿は存在しなかった。
「ウオオオオァァァァーーッ!!」
 希望や羨望よりも、無意識に畏怖や恐怖を抱いてしまう様相。
 一匹の魔神が秋水に斬りかかってくる。
 真下から迫り来る日本刀の軌跡。秋水は足場などない中空で、何とか体勢を整えながらも日本刀を垂直に奔らせた。
 銀線が月夜によって鈍く光る。建物の真ん中辺りで閃光が奔り、空間全体にそれが波のごとく広がった。
 しかし、それが完全に掻き消えるを待てないとばかりに、別方向から秋水の命の芽を潰そうと切は斬りかかっていた。
 迅速かつ的確に、一刹那の間を置いて凶刃を閃かせる。
 両翼を巧みに動かし、四方八方、上下左右と空中で身動きの取れない秋水に襲い掛かる。幾何学的な動きは、幾何学的な剣線を生み出していた。
「ぐ……こんなことがッ!」
 その間、秋水は防戦一方だった。着地することすら許されない境地に立たされ、幾度も飛来してくる息子の剣戟に狼狽しながらも日本刀を翳し、空中で錐揉みしながらも防御に入る。
 切の怒濤のラッシュ。それは圧倒的なまでの力量を目の当たりにさせていた。
 何本にも連なっている支柱に足を掛け、時には両翼のみで方向転換。三角跳びの要領で秋水に斬り込みに掛かる。
 異常なまでの膂力と怪奇な両翼は、それこそ人に身では決して到達する事の出来ない領域まで上らせてくれる。
「ガアアアアァァァァーーッ!!」
 怒号の叫びと同時に切は、日本刀を大上段の構えから振り下ろし秋水を吹き飛ばす。
 秋水は苦悶を漏らしつつも、切と離れ離れになったチャンスを見つけ出し、空中で体勢を整え久方ぶりの地面へと着地。吹き飛ぶ時に生じた推進力を、日本刀を地面に突き刺すことで相殺させる。
「はぁ……はぁ……」
 喘息持ちのように喘ぐ秋水。擦過傷が身体の節々に奔っていたが、どれも致命傷に至ってはいない。しかし……それ以上の恐怖が、彼の身体を蝕み震えをきたしていた。
 そして眼前には二枚の翼を大きいながらもゆっくりとはためかせ、静かに着地する切の姿が。
 無慈悲で圧倒的な強さ。その禍々しい姿はある種の既視感を秋水の脳裏に映し出していた。
「ふ、ふざけるなッ! なぜ、私がこうも圧される!? 真神最強の剣士と謳われたこの私が! なぜ、なぜッ!?」
 大人の言う現実に打ちひしがれた子供のように、秋水は罵詈雑言を吐く。
 日本刀を構えながらも、畏怖した心は既に自信という言葉から懸け離れ、脆弱に打ち滅ばされそうになっていた。強烈な殺意を前にして、平常心を保てようか?
 彼我の距離があることを察知し、切が日本刀を鞘に納めた。だが、それは秋水への情けではない。続いて腰を深く落とし──後の動作は秋水の思ったとおりに行われた。
「……居合、だと?」
 両足の鋭い爪を地面に咬ませ、左肩を前に出すように上半身を曲げ、左手を腰と同化した鞘に添える。両翼を大きく広げ、かぎ爪状の足を再び地面に食い込ませる。右手を軽く柄に触れさせるその様は、紛れもなく《居合》だ。
「私を……馬鹿にしているのか」
 再び同じ手を使ってこようとする切に、秋水は憤りを感じた。
 《万華鏡》の前に破られた技を再び使うということは、それだけ自分の力に自負を持っているのだろう。それが秋水の琴線に触れ、無性に腹が立った。
 執念と狂気の入り混じった表情を顔に貼り付け、彼は呟く。
「……いいだろう。そうくるなら私は、貴様を完全に地に伏させてやる。我が《秘剣》──《万華鏡》でな!」
 怒気を糧に恐怖を強引に四散させ、秋水は苛虐する者にある特有の獰猛な笑みを顔に貼り付ける。血走った瞳は、目の前にいる魔神を屠ろうと猛り狂ったように爛々と輝いていた。
 日本刀を肩口まで持っていき、上半身を横に捻る。日本刀の切っ先が水平に構えられ、奇怪な様相を呈していた。それは《八行の構え》の一つである《無形構え》。
 そして、そこから紡がれるのは《魔術》を組した三方向からなる斬撃の《万華鏡》だ。
 距離にして十メートル。まるで時が止まったかのように、対峙する二人は動かない。
 言葉を探すための沈黙ではない。交わす言葉がない故の沈黙でもない。
 それは終焉への沈黙であり。動いた瞬間、どちらかに命の灯火が消える沈黙だ。


 静寂は飽くまでも静寂に過ぎ──


「────ッ!!」
 先手を取ったのは切だった。
 床のコンクリートらしき材質をいとも簡単に穿ち抜き破砕させる。爆ぜたと同時に切は一つの弾丸と化した。
 言葉を黙したのは、息を止めることで神経を鋭敏にするためだ。桁外れの膂力による反動に、両翼の羽撃きが加味され爆発的な推進力を生む。脇目を逸れることなく、ただ真っ直ぐに突進する様は、畏怖を通り越し憧憬すら思わせてしまう。
 しかし──その光景を視認しても秋水は猛禽類のように瞳を凄ませ、彼我の距離が縮むのを待つ。先程、剣を交えて魔神へと変貌した切の実力が何となしに理解できた。
 認めたくは無いが総合的に考えて自分より力量は上だ。
 剣技は自分の方に歩がある。だが、切にはそれを補って余りある身体能力が備わっていた。飛空能力まで身に付いてしまっては、それこそ手のつけ様が無い。
 ──それでも勝機はあるッ!
 秋水が扱う剣術と魔術の融合体──《万華鏡》は通常では在り得ない別方向からの同じタイミングによる斬撃を可能とした秘剣だ。
 切の性格からして《居合》を仕掛けてくるのは間違いない。そして魔神に変貌した事がで、その居合の威力が底上げされているだろう。
 ──だが、奴の繰り出す一撃は飽くまでも一刀のみ。私の万華鏡の二刀を用いてこれを封じ、残りの一刀のもとに斬り倒す!
 飽くまでも一直線に接近してくるものだから、その姿を見極める事は可能だった。
 そして両者の間合いが一メートルと差し掛かり、
「貴様の負けだ! ──切ッ!!」
 言葉を発したと同時に《魔術》が発動。三本の白刃が銀糸と化して奔った。
 上段斬りと左右から繰り出された袈裟斬りの三連撃。
 常人には不可視の斬撃が空間を過り、その一つ一つが誘われるようにして切へと襲い掛かる。そして一直線に刃の懐へと潜り込む切も、鞘から日本刀を抜き放った。
 秋水の斜めに奔る《万華鏡》の二刀の袈裟斬りが、切の逆袈裟斬りに奔る《居合》を止めようと接近してくる。
 しかし、秋水が繰り出した二本の斬撃が、《居合》の一刀を抑える事はなかった。
「そ……」
 ……んな、と全てを言い切る前に言葉が詰まる。
 秋水の驚愕に見開かれた眼は、《魔術》によって顕現された袈裟斬りの二刀が、切の両翼によって中途半端な位置で留められている現状をしっかりと捉えられていた。
 二刀の斬撃は両翼を半分ほど切り裂くだけで静止していた。《魔術》によって顕現された日本刀は飽くまでも擬似的なものに過ぎない。故に、止まってしまえば圧す事も引く事も不可能だった。
 そして──
「……無に帰れ」
 魔神の囁きと同時に、眼前から迫り来るのはただ一つ──《居合》の一線だ。
 秋水に残された一刀の上段斬りが振り抜かれる間もなく、切の凶刃が秋水を捉え斬り抜いた。




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