――紅霧――



     《6》


 ……契約を交わせし血筋の者よ……

 ……五百年の時を経て我は力を貸そう……

 ……破壊と絶望を撒き散らす事の出来る"力"を……

 ……汝は《守護》するために欲した……

 ……切よ……



 ……"力"を手に取り。その意を表せ……

     *     *     *

「ハアアァァァ……」
 ゆったりとした間隔で吐かれた【魔神】の呼気を前に、畏怖したような形相で秋水は後退りする。
 一歩、また一歩と。絶対の勝利を前にしていた男が、今度は奈落の底へと落とされた様相を醸し出していた。
「……う、嘘だ! ま、魔神の血に、こんな能力があるなんて、き、聞いてないぞ!」
 その顔に生気というものは無かった。
 彼の胸に沸き立つのは純粋な恐怖。闇の中のおぞましい存在を魅入ってしまった子供でも、これほどの恐怖を覚える事はないだろう。理解できない恐怖は、理解不能であるが故にその恐ろしさを増す。
 幾つもの修羅を潜り、恐れられる事こそあれ、恐れる事を知らなかった秋水は――今この時、生まれて初めて恐怖という存在を知った。

 肩甲骨の辺りから生えた、鳥類が持つものとは似ても似つかない巨大な両翼。
 両腕と両足は、獣のそれを彷彿とさせる鋭い爪を持ちえた指先。しなやかでいて肉厚な胴体及び、そこから伸びる四肢にはライダーのダークスーツを思わせる、精巧でありながらも、禍々しさを醸し出す、身体に適合した薄手の鎧。
 そして、仮面のようなものに覆われた頭部。複数あいた仮面の呼吸孔の奥で、紅に染まった瞳が純然な殺意に瞬いていた。

 そいつは、まさしく『破壊』の象徴。
 そいつは、まさしく『災い』の象徴。
 そいつは、まさしく『神々』の象徴。

 まがう事なき──【魔神】と呼ばれる災いの神だ。

「ウウウゥゥゥ……」
 【魔神】と化した切が、くぐもった様に呻き声を上げ──
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
 室内の空気を炸裂させ、波濤と化して周囲に伝播した。
 殺意が具現化し、密度をもって周辺の大気を一瞬にして侵食。波濤は颶風と化して、建物内部の埃や塵を一蹴していく。
 己の身体を、背中に生えた両翼を、激しく顫動させながら頭上にある月を見上げ絶叫。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
 吼え。叫び。喘ぎ。
 逆鱗に触れられた魔神はひたすらに咆哮し続ける。
 その間、秋水は何をするわけでもない。吼える【魔神】を前にして、ただ恐れ戦くという不恰好な姿を晒していた。
 祖父が、果ては曽祖父が、《魔神の血》にこのような能力が備わっている事を隠蔽していたとは思えない。
 特殊な血筋は代々受け継がせ、その能力を引き伸ばしてこそ意味を成す。
 つまり異能の力を持つ真神にとって、"血"に備われた能力を隠すなどという行いは、愚行を仕出かすのと同位なのだ。
 ──ならば……まさか。
 目の前にいる切の変貌は、一族にとって初の試みという事態だというのか? はたまた代を重ねるうちに血統そのものが薄れ、遠い祖先が可能としていた能力が封印されたという考え方もできる。それならば、なぜ唐突に切がそれを可能にした?
 ──今はそんな事を考えてる場合じゃない。この状況をどうすべきかだ。
 息子の身体を取り巻くのは眠っていた魔神の本質。巨大すぎる正真正銘の神の顕現。
 人の身では到底たどり着けない、常識を遥かに超えた顕現は――器となる契約者を完全に覆い隠している。
 様子からして、先程の致命的な傷は癒えてるとしか思えない。どうする、と算段を練ろうとしたとき、切の咆哮が止んだ。
 上空へと向けていた頭部が、ゆっくりと下ろされ、仮面の呼吸孔から白い息が流れ出ていた。
 人のみでありながらも、神と化したその姿に畏怖を覚えざるにはいられない。
 その根源の始まりである切の、灼熱を彷彿とさせる双眸が凄然とこちらを見据えていた。
「父よ……」
 魔物という存在が実在していたら、このような幾つもの声が重なり連ねた声音を持つのかもしれない。
 【魔神】と化した切の口から初めて発せられた言葉は、秋水の身をゾッと震わせるには充分だった。
 そんな父を直視し、彼は腰と同化してる鞘に右手に持っている日本刀を納める。
 かぎ爪のような足先が深く地面を噛み、亀裂が走る。姿勢を低くし、納刀した刀の柄に右手を軽く触れさせた。
 背中から生えた両翼を音を立てて勢いよく広げ、赤光の孕んだ双眸を眼前に向ける。
 見つめるはただ一点、全神経、全感覚を研ぎ澄まし、父である秋水を見据える。
 兄は言った。真神の在り方を変えよう、と。
 だが、その兄はこの世にはもういない。だからこそ、切はいま自分の成さなければならない事をこの時、改めて知らされた。
 兄が目指していたものを──。
 己が目指していくために──。
 切の心にもう迷いは無かった。

「いざ……参る」




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