――紅霧――



     終章 決意


 里から持ってきた代物の殆どは陸に預けたので、身支度はことすんなりと終わった。
 唯一、切の手元にあるのは鞘袋に納められた日本刀だ。これだけは、里まで自分の手で持っていかないと落ち着かなかった。
「…………」
 無言のまま切は視線を周囲に向ける。
 二ヶ月近く滞在していた、六畳ほどの広さをもつ畳張りの一室。カーテンの隙間から漏れる陽光が、今を朝だと告げていた。早朝だ。
「長かったな……」
 いざ離れるとなると感慨を覚えてしまう。しかし、切は最後に一瞥するとその部屋から出て行った。廊下を歩くと同時に足元がギシギシと鳴った。
 あの事件の後、桜はすぐに病院へと急ぎ父親であるマスターの下へ訪れた。幸い命に別状は無かったようで、その日の深夜に一度帰って来た桜は、いま熟睡している最中だ。
 ──無理に起こす必要はないな。
 桜の部屋の前を通り、切は胸中で一人ごちる。
 書置きもテーブルに置いてきた。謝礼などは一貫して陸に任せてある。
 ──これ以上は関わる事はできない。
 真神の当主を決める死闘は、意外な結末で幕を閉じた。
 刃の肉体を乗っ取った秋水の目論み。彼が関与していたとは予想すらできていなかった。禁忌を使用したのは兄ではなく、あろう事か死去していたと思っていた秋水だったのだ。
 しかし切はそれに打ち勝つことができた。
 《魔神の血》の本質──まるで全てから解放されるような感覚は今でも忘れられない。圧倒的で爆発的な戦力を有した魔神への変貌。
 それが無ければ秋水には勝てなかっただろう。己の身に起こった変貌に恐怖しながらも、しかし切は真神の当主の件が片付いたことに安心していた。
 そして、いま里へと帰郷しようとしている。
 真神の方針、禁忌、秋水と関与していた魔術師。最も信頼できる存在を失って悲しんでいる暇は無い。やる事が山積みである以上、これらの問題を一刻も早く解決してこそ……亡き兄に顔向けできる。
 ──それまでは決して立ち止まれない。
 一階の喫茶店へと続く階段を、桜が起きないようにゆっくりと降りる。
 一歩一歩足を前に出しながら、きっと、もう足を踏み入れることは無いと切は感じる。廊下を通過し、喫茶店へと出た。
「おはよ。随分とお早いお目覚めね」
 視界の先──喫茶店のドアで仁王立ちするように佇む少女を見て、切は暫し硬直した。

     *     *     *

「桜……」
「挨拶も無しに出て行くなんてどういう了見? 居候の身で生意気ね」
 いかにも感謝しろと言わんばかりに、桜は踏ん反り返る。
 それを見た切は嘆息し、ゆっくりと重い口を開く。
「まさかとは思うが一応訊いておく。……ずっと起きていたのか?」
「ええ、そうよ。陸が教えてくれたの。『あいつ全てが終わったから、明日出て行くぞ。きっと早朝に』って。徹夜はキツイわ」
 腫れぼったい目元を見れば、彼女が睡眠を取っていないことが手に取るように解る。切は桜の心意気を前に、項垂れるようにして額に手をのせた。
 ──陸め。
 幼馴染みに物申したいのだが、生憎と彼の存在はここには無い。
 いや、きっと遠くからこの光景を覗いているに違いない。彼なら遣りかねる。
「勝手に帰ろうとしたのは詫びる。だが、これまで数々の惨状を見てきただろう。これ以上……桜たちに迷惑をかけたくないんだ」
「それは、あんたから見てでしょ? あたしから言わせてもらったら偏見ね」
 切は訝しんだ。
「陸から一通り聞かしてもらったわ。ヘブンズゲートの件もそうだけど、正直いって今でも信じられない。その、切が……」
「暗殺者の家系──それも次期当主であることが、か?」
「…………」
 桜の憂鬱そうな顔が暗に肯定だと伝えていた。
「そう、俺は真神という暗殺を生業とする家系の末裔。そして、その一族の次期当主だ」
 淡々と答える切。隠しようも、隠す必要も無いと悟ったからだ。
 彼女は全てを知った。だからこそ戸惑う桜に、納得してもらう必要がある。
 これから自分が行っていく事柄を……。
「俺は真神の人間として、幼少の頃から暗殺者となるべく英才教育を受けさせられてきた。剣術に始まり、格闘術、暗殺術……人を殺すためにだ。それが真神の在り方だと教わってきた俺は、何一つ疑いもせず、日々を生きていた」
 桜を見据え、切は言葉を紡ぐ。
「しかし数年前、それに反発する者が現れた。知っていると思うが俺の兄──刃だ。彼は真神が、人を殺すためではなく、人を守るために在るべきだと唱えた。強大な力は強大な破壊を生む。だが、力のベクトルを変えれば、誰かを守る力になれると……」
「切もそう思ったの?」
「ああ、兄の情熱は本物だった。俺や陸は彼の提唱する未来を聴き、そして己がどれだけ酷い過ちをしてきたのか気付かされた」
 目を閉じると一つの情景が浮かんできた。
 何度も、何度も、真神の存在を変えようと熱く唱えた刃の存在が、瞼の裏に映る。
「切、ここに残らない?」
 両目を開け、桜を見る。
 彼女の顔は、憂いを帯びて儚げに感じた。
「無理して戻ることなんかないじゃない。暗殺者として生きるのは嫌なんでしょう? だったら、ここにいなよ。男手も足りないしさ。切が居てくれると助かるのは事実だし」
 そうしなよ、と桜は笑う。不意に切は、彼女が言っていた事を思い出す。
 ──『あたしにとって人助けはね、"義務"なのよ』
 違うな、と切は感じた。
 それは義務なんかではない。彼女自身が持つ優しさなのだ。
「ありがとう。でも……その厚意は受け取ることができない」
 なぜ? と桜が問う。
「兄が死んだ今、彼が唱えた変革を実行できるのは俺だけだ。だから帰らねばならない」
「それは切のお兄さんが行おうとした事でしょ。切が無理して背負うことなんて──」
「そうじゃないんだ」
 首をやんわりと横に振って、切は否定する。
 そして彼は──ぎこちないながらも笑みを浮かべた。
「これは俺の意思なんだ。ただ言われた事をこなしたきただけの俺が、初めて誰かに言われたわけでもなく、自分で決めたこと。だから……」
 そう言うと、切は右手をゆっくりと上げて桜の前に差し出した。
「……今までありがとう。心から感謝している」
 桜は差し出された手と切の顔を何度か交互に見返し、やがて悟ったように嘆息をついた。
「切が自分の意思で決めたっていうんなら、あたしに止める権限は無いわね。ただ──」
 切の手を握り返し、桜は慈悲の漂う笑みを浮かべた。
「辛くなったらまた来なさい。陸だけじゃない、あたしも由里もあんたの味方だからさ」
「……ありがとう」
 切は小さく微笑み、握っていた手を離すと、再び歩き出す。
 喫茶店のドアを開くと頭上に取り付けられていたベルが鳴る。まるで、再出発の門出を祝ってくれているようにも思えた。
 日差しが眩しい。切は手で陽の光を遮りながら、見上げた。
 刃が描いた理想は、何時の間にか自分の理想となっていた。闇の中を生き続けてきた自分達が、光のさす世界で生きるとなると容易なことではない。里の者達にその事を口にすれば批難され、罵倒されるのも目に見えている。
 しかし、決して諦めない、と切は誓う。必ず兄と自分の理想を現実にしてみせよう。





 ──切は胸中に想いを閉じ、ゆっくりと歩き出した。




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