《4》
切はくずおれていなかった。
手にした日本刀を無機質な床へと突き刺し、己の身体を支える。
自重を支える余力などある筈が無い。先程の一撃は──問答無用に切の臓腑を食い破っていた。
それでもなお彼が倒れないのは、自分の名前を引っ切り無しに叫ぶ、桜の声が耳朶に容赦なく響いていたからだ。
鈍痛に苛まれながらも、苦悶に歪む強面を上げる。
「どうだった、切? 僕の《秘剣》──《万華鏡》は?」
正面に佇むのは刃。
絶対的な優位に立つ刃は、弟である切を憐憫の含んだ瞳で見下ろしながら嘯く。
確固とした優劣が決まった刃の、最後の哀れみなのかもしれない。
しかし、切は身動ぎしながら刃を睨みつける。
「やはり『禁忌』に……《魔術》に手を出していたか!」
唾棄するように叫ぶ切。
苦痛を噛み殺す切の詰問に、しかし刃は動じる気配は無い。
「おやおや。《魔術》に手を出していたと勘ぐっていたのに、真正面から突っ込んできたのかい? つくづく実直な正確だねぇ。お前のそういった所、あいつと一緒で大ッ嫌いだよ」
くつくつ、と。嬉笑していた刃は、腰の帯紐に差した鞘──そこから木綿のような糸でぶら下げる"物体"を拾い上げ、切の視界に入るように弄ぶ。
濃紫のそれは、見るからに値の張りそうな『宝石』だった。 「君は《魔術》の知識が殆ど無いから知らないだろう。これはね、《ルーン石》と呼ばれる代物だ。キリスト教伝来以前の古来ゲルマン社会に使用された文字を彫った宝石なんだが……僕が持っているコレは、他の《ルーン石》とは一線を画したものなんだ」
「……別種?」
「そう……。通常の《ルーン石》は裡に《魔力》を秘めているが、これは《魔力》ではなく《魔術》そのものを封じている大変珍しい代物なんだ。ちなみに、この中に封じた《魔術》は、空間の一部を複製し、その複製した空間を別空間に移すという"複写"と"再生"からなる《魔術》。固有名詞は無いけど、使いかってのいい代物さ」
まるで聞き分けの良くない生徒に、熱弁を振るう教師のような仕草で、刃は一方的な会話を進めていく。
「お前に見せた《万華鏡》。あれは三方向から斬撃を繰り出した私の《秘剣》だ。けどね、確かに"同時に三方向から斬撃を繰り出す"のは、いくら私でも物理的に不可能。通常の動作で繰り出せば、私でも次の太刀に向かうとき最低でもコンマ何秒かのタイムラグが生じる。だからこそ、それらを削除するために《魔術》に手を出したんだ」
「『禁忌』などに手を出すという愚行……。真神としての"誇り"はないのか?」
「誇り? はははっ、そんなくだらない事に何時まで縛られている気だ切。時代錯誤もいいところだぞ」
含み笑いは、哄笑となり建物の中を無造作に走り巡る。
その刃の口から漏れる言葉の一つ一つが癪に障り、同時に胸に痞えのようなものを感じる。
「それで……それで父の命も消したのか! そんなくだらない力で!」
切がそう激昂した瞬間、ぴたりと、刃の哄笑が止まる。
激闘から今まで、決して途絶える事の無かった刃の薄笑いが、ぴたりと。
だがそれは更なる過大的な嘲笑へ変わる、一時の間隔に過ぎなかった。
「そうか! 貴様はまだ気付いてないのだな切ッ!!」
ゲラゲラ、と。刃は狂ったように、悶えるように、戦慄くように身体を捩りながら笑い続ける。今までに無いほど感情を発露する兄を見、切は気が動転しそうになった。
「なにがおかしい? 俺や陸を騙し、よくも抜け抜けと笑っていられるな!」
「……騙した? 私がか? お前達を?」
「そうだ! 『真神の在り方を変えよう』とあなたは俺や陸にいつも言っていた! 俺たちは信じていた! なのに──。どうして!!」
憎悪と失望のこもった切の罵倒。
対する刃は──先の超然たる笑みは消し、代わりに静かな冷笑を刻んでいた。
「そうか……。そんな事を言っていたのか、あいつは」
「な……」
刃の乾いた声に、切は当惑を隠せなかった。いま自分の目の前に佇む男は何と言った?
彼の呟いたその一言が、切の過去の記憶を目まぐるしく追懐していった。
確かに……考えてみればおかしな点は幾つもあった。
兄は善し悪しをきちんと付ける人だ。善行な物事には積極的に手を焼き、悪行には決して手を掛けない。真神にとって『禁忌』である《魔術》は、彼にとって"悪"の物事だ。幼い頃から共に過ごしてきた自分だからこそ言える。
豹変していた兄が『禁忌』に触れたのなら納得がいく。
しかし、以前の質実剛健ともいえる兄が進んで『禁忌』に触れるはずがないのだ。
『ヘブンズゲート』の件もそうだ。なぜ習いたてで差して薬学に精通していない刃が、《脳の境界》を外すほどの高等な薬剤の調合を可能にしたのか?
切の胸中でそれらのピースが型にはまり──1つの答えが打ち出された。
「まさか……。まさか……」
「ハハハッ。やっと気付いたのか切?」
「……嘘……だ」
「嘘じゃないさ。現実を見ろ切。いや、知ってしまったのだから慈愛を持ってこう呼べばいいかな?」
時には冷酷に嘲るように、時には謎めかせて弄ぶように、絶えず目の前に佇む人間の口元に覗かせた静かな微笑。
その意味が……やっと解った。
「いいザマだな──我が息子よ」
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