――紅霧――



     《2》


 既に夕刻は過ぎ、周りは闇に包まれていた。
 夜の帳が辺りに下りる。並みの度量しか持たぬ凡人が、一人このような場所に取り残されたとしたら、一分と経たずに縮こまるかもしれない。そのような雰囲気が立ち込めていた。
 唯一の光源にあたる月は──満月。奥多摩の時と同じ形。
「ここでいい。俺一人でいく」
「…………」
 陸が言葉を返す間もなく、切は抑揚無く呟きワゴン車を降りる。
 刃が定めた場所は──人通りの無い市街地から離れた場所にあった。
 工場跡地。鉄筋コンクリートや廃車、鉄屑などが雑多に積み上げられたそこは、跡地と呼ばれるだけあり廃れていた。ただ、十数メートルと高く聳え立つ工場が顕在しているため、跡地として見るには疑問が残る。不景気で撤去できず、放棄したまま誰も寄り付かなくなってしまったと考えるのが妥当だろう。
「…………」
 ゆっくりとした歩調で、その工場の中へ足を運ぶ。
 外壁の塗装は完全に剥がれ落ち、窓ガラスなどが張っていたと思われる窓口は、通風孔と化していた。そこから月明かりが漏れてくる。
 切は視線を左右上下に動かす。建物を支える柱も、床も、内壁も全てが無骨なまでに剥き出し。自分か、刃の死地に相応しい場所だ。

「やあ、待っていたよ切」

 工場内部でも一番広い敷地。
 『ヘブンズゲート』の時と同じように縄で両腕両足を縛られ悲哀の様相を呈する桜。そしてオーケストラの指揮者のように両腕を左右に大きく広げた、白装束に身を包む刃の姿があった。

     *     *     *

「元気そうで何よりだ、切」
「兄……」
「時間が余っていたんでね。彼女に、話し相手になって貰っていたんだ。僕達のこと、何も話してなかったんだね。君に関する情報を教えあげた時の彼女の喜怒哀楽といったらもう……百面相みたいだったよ」
 からからと笑う刃の後ろで、明朗な桜が無言を貫いていた。
「…………」
 先程から悲嘆に暮れたような面を見せているのは、自分に関する事の顛末を知ってしまったのなら合点がつく。
 真神。暗殺者。次期当主を掛けた死闘──。彼女の友人で、自分の幼馴染みであり一族に深い関係のある陸が絡んでいる以上、いずれは知られる事だっただろう。
 ただ、自分から話を切り出さなかったのが心残りでもあった。
 天井に穿たれた穴から落ちる月光が、縦に横に走る支柱を挟みつつ、切たちと決戦の場である敷地に降り注ぐ。
「『ヘブンズゲート』の件ご苦労だったね。まあ、君の敗北なんて想像もしてなかったけど」
「やはり……あなたが一枚噛んでいたのか」
「心外がな〜切。そんな目で睨まないでおくれよ。故意にしたってわけじゃない。強制したわけでもないしね。飲んだ彼が悪いのさ。」
「……なぜ、先延ばしにしていた一族の件を収める気になった?」
 鋭い視線をぶつけながら喋る切を前に、刃は気後れした様子なく微笑を湛え鷹揚に返答を返した。
「『ヘブンズゲート』が解散して、居座る場所に困っていたというのもある。けど、楽しみは最後まで取っておくのが僕の性分だ。その程度で、君との一戦をすぐに片付けようなんて考えて無いよ。別件……と解釈するべきなのかもしれないね」
「……別件?」
「切、君は知っているはずだ。聞いたんだろう、陸に?」
 半月に割れた口元から漏れたのは哄笑だった。
「まさか……父を」
「ふふッ……ハハハッ…! そんな顔で見ないでくれよ切。あいつの遺体が発見された事で、いま里の方は大騒ぎ。八将神が足並み揃えて、次期当主の権利を剥奪するような事態になったら僕だって困る。その前に、全てを終わらせなければいけなくなっただけの事さ」
「なぜ……。なぜ父を殺し──」
「邪魔だからさ」
 その答えに一片たりとも迷いは無かった。
「僕はね、あいつがいること事態、気に食わなかったんだ。だから山奥に呼び寄せ、殺した。里の連中は僕を勘ぐっているだろうけど、当主にさえ就いてしまえば、どうにでもなる。だから──」
 間は暫し続いた。
 ゆっくりと時間を掛ける。そして刃は紅蓮色に揺れる双眸を切に向け、
「殺し合おう。君との戦いは当分、持ち越したかったんだけどね。致し方ない」
「……もう一度だけ聞きたい。兄よ、考え直す気はないのか?」
「無いね」
「…………」
 刃の視線から逃れるようにして、切は視線を外し歯を食いしばった。

 『真神の在り方を変えよう!』

 兄が以前、自分と陸に何度も謳っていた言葉だ。
 人を殺すために存在するのではなく、人を守るために存在する。
 叶わない夢、ありえない理想だから、誰も考えようとしないのかもしれない。だが……たとえ叶わなくても、ありえなくても、追いつけなくても──。走り続けてさえいれば、いつか、いつかきっと思いは通じると……兄である刃が熱弁を振るっていた。
 しかし、そんな信念を抱いた兄はもういない。
 ここにいるのは……"力"に溺れた狂人。

「……いいだろう」

 顔を上げた切の灼熱のような瞳が、今の彼の心情を物語っていた。
 《魔神の血》の発動──それは更なる身体能力の向上を意味する。より戦闘に優れた状態へと、双方は持っていく。
 これまでにないほど感情を発露する切を見、刃は高揚するように笑い──手際よく得物である日本刀を取り出した。同じく切も鞘袋から鞘に収まった日本刀を抜く。
 二人は腰を軽く落とし、刀の切っ先は正面にいる実の兄弟へと向けられた。
 構えは──互いに鬼神流《八行の構え》が一つ──《弓構え》。
「…………」
「…………」
 両者のそれは研ぎ澄まされた殺気。見詰め合う両者に、最早語るべき言葉などない。両者にあるのは戦闘本能ただ一つ。

「いくよ、切」
「……参る」

 コンクリートの床を穿つような踏み込みによって、彼我の距離は一瞬で無と化す。
 一直線に突き出される二つの白刃。
 瞬く間も無く稲光のような閃光が空間を奔った。




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