――紅霧――



     《8》


 唐突に目を覚ました切は、身体を起こすと朧げな瞳で辺りを見回し始めた。
 畳張りの六畳ほどの広さを持つ部屋は、自分が介護されたときと代わり映えの無い状態で保たれている。
 喉の渇きを感じ、切は部屋を出る。
 一階の台所で水を飲みほした後、つい数時間前の過去を追憶していた。

     *     *     *

 日本刀を鞘に納めた切は、立ち上がり振り向く。
 同時に昏倒している野田を見、切は苦悩の表情を浮かべる。
「安心しろ。ぎりぎりセーフだ。死んじゃいない」
 陸が野田の傍へと近寄り、頚やそれ以外の身体の部位に触れ現状の報告をする。
「ただ、脳はともかく身体の方を虐めすぎたな。少しだけ生活に障害が出るかもしれねえ」
「酷いのか?」
「いーや、重視するほど大したことじゃないさ。今までのこいつの過ちを天秤にかけたら安いもんだろ」
「…………」
 肩を竦める仕草に、切は何も言葉を掛けようとせず無言になる。
 そんな彼を見て陸は髪をくしゃくしゃと掻き、
「気にするな。お前は充分やったよ。行賞もんだ」
 陸の言い分に、少しだけ胸中で燻っていた不明朗なものが取れたように感じた。
 そしてはたと気付いたように顔を上げる。
「《脳の境界》……」
「ああ、間違いないだろう」
 陸が相槌を打つ。
「しかし、どうやって? 《脳の境界》が突然外れるなんて想像もできない……」
「ああ、偶然にしちゃ出来すぎだ。考えられるとしたら、こいつらの持っていたドラッグの中に別の代物が混じってたってことだ」
「別の代物。《脳の境界》を強引にこじ開ける事が出来る薬。そんなことが出来るのは……一人しか思い当たらない」
「刃だな」
 陸の断言に、切は哀愁を帯びた様相を見せる。
「父から薬の調合を教わっていたんだ。間違いないだろう」
「刃のやつ、本当に変わっちまったってことかよ。いよいよ、お前の口にしたことを信じざるおえなくなっちまったな」
 切は視線を落とし、ジッと野田を見据えていた。
 野田の微かな呼気が聞こえる。一応は命を取り留めたものの、下手をしたら無事では済まなかったかもしれない。一時的とはいえ、強引に《脳の境界》が外れた状態だったのだ。これからも脳に何の支障もないとは保障できない。
 ──何を考えてるんだ……!
 自ずと心中で兄を罵倒していた。
 無関係な人間を使っての人体実験を平然としてのける刃に対し、怒りが治まらなくなっている。刃は次期当主を決めかねている現状を、ゲームかそれに似た感覚で楽しんでいるのではないだろうか?
 ──長く居座り過ぎた。このままでは桜たちにまで被害が及ぶ。
 陸という存在はあるものの、今の刃はどんな大胆な行動に出るのかさえ予想できない。
「切っ。とりあえずここから離れるぞ」
「? 彼らはこのままでいいのか?」
「あれだけ派手にやらかしたんだ。周囲も騒ぎ立ってるだろう。それに万が一のために警察にも連絡しておいた。後はそっちに任せようぜ。事情聴衆とかされたら、正人まで捕まりかねない。桜たちも助けられたんだから、おれたちは直ぐにでもとんずらするべきだろ」
「ああ、分かった」
 首肯し、野田を一瞥した切は急ぎ足で桜たちに近寄る。
 切は手を差し出し、
「立てるか?」
「へ? ああ。う、うん……」
 縮こまる桜を見て怖い思いをさせてしまったと感じた。
 今回は自分の落ち度だと痛感している。そしてもう居留まる事も……
「どうした? 早くしないと警察が来る」
「あー、うん。それは分かってるんだけど……」
「なら。手を貸すから立て」
 心なしか桜の頬が赤く見える。
 これは恐怖というよりも、寧ろ一種の恥じらいのように切は感じた。
「…………たの」
「? 済まない。聞き取れなかった」
「だから。……が…たの」
「いや、もう少し声を大きく──」

「だから! 腰が抜けたのッ!! 自力で立てないの!! アンダースタン!?」

 桜の大音響の叫び声は倉庫街に否応無しに響いた。
 しかし切は表情を変えることなく淡々と呟く。
「それならそうと言ってくれれば──」
「恥ずかしくて言えるかッ! 乙女の恥じらいくらい察しろ!」
「む……」
 ぐうの音も出なかった。桜の眼光から逃げるたい一心で、切は視線を泳がせる。
 にやにやと笑みを浮かべる陸とくすくすと笑う由里を見て、助力は無理だと諦め、一つ溜め息を付くと、膝を折り腰を落とした。
「車まで負ぶっていく。乗れ」
「う……!」
 今度は桜がたじろぐ。
 しかし状況が状況だという事が、理解してくれたのか意外と素直に従ってくれた。
「わ、分かった。どうせ直ぐだし。これくらいの距離なら……」
 桜を背負いワゴン車の止めているところまで向かう。
 切たちは急いでその場から離れた。

     *     *     *

「切。もしかしてそこにいるの?」
 寝室に戻ろうとしときだ。桜の部屋を通り過ぎようとして、それは留まった。
「ああ、喉が渇いてな。水を拝借した」
「そんな畏まらなくていいのに」
 ドアを隔てた先にいる、桜の笑う声が聞こえた。
「あたしは今日色々あり過ぎて眠れなくてさ。ねえ、少しだけ話に付き合ってよ」
「それはいいが……。この状態でも構わないか」
「廊下に居たままってこと? 寒いから、あたしの部屋に入ってくればいいじゃない」
「いや、ここでいい。これくらいの寒さは問題ない」
 そう言い、切は廊下の壁に背を預ける。
「…………」
「…………」
 静謐な空間。
 双方は互いに言葉を口にすることなく時間だけが過ぎていく。
「一つ……質問してもいいだろうか?」
 先手を取ったのは切だ。一度口を開くと、訥々と言葉が出てくる。
「どうして、そこまで親身になって世話をしてくれる。赤の他人である俺を」
「それは、切が怪我をしてたから……」
「怪我なら二、三日で治っていた。それに察しているはずだ。俺は普通の、平凡な日常を甘受する桜たちとは違う人間だ。俺も陸も……。怖いと感じて関わりを持ちたくないと思うのが普通だ。なのに、どうして……」
「そうだね。そうかもしれない」
 返答は彼女の性格に似て、さばさばとしたものだった。
 そして切が反論する間も与えず話は淡々と続く。
「あたしね、小さいときは物凄く我が儘で、いっつも他人に迷惑ばっか掛けてたの。イジメに、万引きに、器物破損。そんなこと平気でやってた。小学生の低学年までくらいかな……あれは」
 懐かしき過去を思い出すように桜は呟き、「由里と明彦には秘密にしといてね」と悪戯っぽく言った。
「今でも覚えてる。それが起きたのは小学三年の時。何を思ったのかあたしは学校中の窓ガラスをこれでもか! ……っていうくらい金属バットで割ってね。近づいてくる人間がいたら容赦なくそのバットで殴った。血を流す同級生もいて大騒動。いま思うととんでもないことしてたな〜、あたし。まあ、ある程度時間が経ってあたしも落ちついてね。その場は鎮まることができた。で、すぐに両親が呼ばれたんだけど──そこで事件は起こった」
「……事件?」
 聞く側にいた切が、唐突に出た単語に疑問を覚え口を挟む。 
 返答は少しの時間を要した。そしてそれは桜の口からぽつりと呟かれる。

「学校に来る途中、交通事故に遭ったの……あたしのお母さんが」

 返事を返すのに窮した。
「そう、お母さんはあたしのせいで死んだ。あたしが殺したのよ。もう、自分を責めて責めて責め続けたわ。お父さんにも「不慮の事故だ。お前は悪くない」って慰めてくれたんだけどね。あの時は聞く耳を持たなかった。ううん、持てなかった思う」
「重症を負っていた俺を助けたのは"死"を受け入れるのが怖かったから。そう考えると辻褄は合うが……それでも釈然とはしない。昨日、陸が言ってた。他人が困っているのを放っておけない主義だと」
「……明彦は明日お仕置きね。まあそれは置いておいて。積極的に人助けするのはね、償い……とは違う、そう、"義務"なのよ。結局は間接的にお母さんを殺した事になる。だから今まで迷惑掛けた以上に、あたしはどんな小さい事でも人助けする。切を助けて、甲斐甲斐しく面倒みてるのも、そんなわけよ」
 そこで桜の話しは終わった。
 彼女は善行を積むことで、過去の過ちの穴埋めをしようとしている。他者が真実を知れば、それは偽善と揶揄するかもしれない。しかし切にはそう思えなかった。
 ──彼女は前に進もうとしている。だが俺は……。
 兄との決着を先延ばしし続け、無駄な時間だけが過ぎ去っていく。前に進もうとせず、逃げているだけなのだ自分は……。

     *     *     *

 同じ時間帯──それは起こっていた。
「ありえない……なぜ、なぜこんな事が!」
 連続猟奇事件で世間から"辻斬り"とまで言われる白髪が目立ち始めた老人は、先程から織り成す青年との激しい戦闘に狼狽の色を隠す事が出来なかった。
 得物は両者とも日本刀。
 先程から繰り返される数多の剣戟の応酬は、自分だけではなく対峙する青年もまた、普通とは別のものである事を認識させる。
 上からの白刃に対して、下から振り上げる辻斬りの一撃。再び両者の得物がぶつかり合い、金属音が響く。散る火花と、手に返る硬い手応え。振った刀の軌跡は闇夜に銀線として奔る。
「ハハハッ、老いた身体でよくやるじゃないか。感嘆するよ!」
 眼前──その白い袴に身を包む青年が嗜虐的な笑みを湛え、得物である日本刀を息つく暇もなく連続的に凪ぐ。
 暗夜に銀線が幾つも走り、その剣線は老人に目掛けて正確に射抜こうとした。が、老人は己の身体能力を駆使し、その迎撃染みた一撃一閃をはじき返していった。
「ふふッ、ここまで緊迫感のある戦闘は久方ぶりだよ。八将神の雑魚どもに見習わせたいくらいだね」
「ど、どうして……。どうして儂の動きに着いてこれる!?」
 互いの距離が離れる。
 挙動する老人を見て、白い袴の青年はさらに笑みを色濃くした。
「どうして? あなたと同じだからに決まっているじゃないか」
「お、同じ!? そんなはずがあるか! 長年の厳しい鍛練を経て、儂は悟りを開いたのだぞ! お前のような小童と一緒にするな!」
 青年は老人の激昂にも臆することなく、揶揄するような笑みをその顔に孕ませ呟く。
「ほう……、これは恐れ入ったよ。そんな手法で《脳の境界》を外すなんて、耐えようのないほど身を削り労したんだね。感嘆を通り越して驚嘆してしまうよ。けど、そこが常人の限界でもある」
 ──そう呟いた瞬間、青年の瞳に火が灯った。
「ひ……ッ」
 醜悪で強烈な怖気。灼熱の鋼じみた殺意。嫌な予感しかもたらさない怪しげな笑顔。艶やかな笑い声が、脳を直に刺激してくるようだ。
「あなたは先ほどから"悟りを開いた"と豪語しているがそれは違う」
 青年は一拍の間を置くように、頭を人差し指でとんとんと叩き、そこに視線がいく様に仕向ける。
「《脳の境界》と呼ばれる特殊な衝立……まあ、これは僕の喩えでもあるんだけど、それが外れることによって超人的な力を手に入れただけのことだ。理解さえしてしまえば差して驚くことじゃない」
「そ、それなら、どうして貴様のような小童が……」
「僕の家系は特殊でね。生まれながらにして、この脳にある衝立が存在しないんだよ」
 くつくつと青年は艶美に笑ってみせ、
「だからあなたと対等にあると言ってもいいのかもしれないね」
 この青年が口にすることが事実なら、彼は自分と同じ領域に達しているということになる。それは老いたこの身体では、活力に満ちた年代の青年に適うはずがないと言外に仄めかしているようなものだ。
 これからどう対処するかと老人が考えていた矢先──思考を遮るように青年はさらに口を滑らせる。
「けど対等にあるからといって勝算があるなんて思わないほうがいい。どちらにせよ、あなたはここで死ぬのだから」
「な……に…」
「《脳の境界》の中でもさらに優れた者は俗に《異端種》と呼ばれている。《異端種》と呼ばれる者達はね……揃って"異能"を持ち合わせているんだ。俗世に疎くても超能力とかいう単語を耳にしたことがあるだろう? それと似たようなものさ。僕の場合は《魔神の血》と呼ばれる特殊な血を遺伝的に引いていてね。能力は二つ。超人的な自己再生能力と、もう一段階上の身体能力の大幅な向上」
「そ、それがどうしたというのだ! まだ勝負はついてないぞ!」
 日本刀を構えなおす老人。しかし、身体を伝い日本刀まで慄くように震えている。
 焦燥感の漂う老人をジッと見据え、やがて諦めきったように青年は首を横に振った。
「虚勢はそれくらいにしてくれ。僕もそろそろ飽きてきた。幕引きといこうじゃないか。けど、ここまで楽しませてくれたお礼だ。最後は……僕の《秘剣》を披露してしんぜよう」
 そう青年は呟き日本刀を掲げ構え、

「死に臨むその眼にしかと焼き付けるがいい。僕の《秘剣》──《万華鏡まんげきょう》をね」

 数秒後、老人の意識は闇へと誘われた。




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