《7》
戦場は倉庫街の外へと移っていた。
二人の武器が高速でぶつかり合うと同時に、感電したかのように光を帯びる。
振り下ろす鉄筋に、振り上げる日本刀。轟然な音が周期的に空間を震わせ、同じ数の火花が暗夜を瞬くように照らす。
「■■■■■■■■■■■■ーーーーーッ!!」
野田の豪気な咆哮が、倉庫街のコンテナの壁へと無数に乱反射する。
そんな猛り狂う野獣を前にして、深紅の瞳を煌かせる切は対等の戦いを繰り広げていた。
「…………」
あまりにも現実感の無い光景に、感受性の豊かな桜の脳が正常に働かない。ただ野田の咆哮と、凶器の弾け合う音だけが、否応なしに耳に響き渡るだけだ。
「不味いな……」
繰り広げられる死と死の嵐を見ながら、桜の隣で陸がポツリと呟く。
その顔は苦渋に歪んでいるようだ。
「不味いって……どういうことっ? 切が圧されてるって言うの!?」
「違う。いまは対のままだ。このままいけば……遅かれ早かれ切に軍配が上がるだろう」
首を力なく横に振り、陸が否定の意を表す。
それを見て桜は安堵し、そして訝しんだ。
「どういうことよ? 切が勝つなら問題ないじゃない」
「問題があるから不味いんだろ!」
全てを一蹴するような言い分に桜はたじろぐ。
切と野田の死闘から視線を逸らした陸が、桜は真っ直ぐに見据え、
「このままだと……あの野田って野郎が死ぬぞ」
告げられた言葉の意味を理解するのに、一拍の間を要した。
「ごめん。聞き間違いじゃなかったら、いま"死ぬ"って単語を耳にしたと思うんだけど」
「言ったとおりだ。あの野郎、どうしてか解らんが《脳の境界》が外れてやがる」
「それってさっきアンタが言った、脳の何とかってやつ?」
「そうだ。誰もが脳に備える、認識できない特殊な領域。それが《脳の境界》」
突発的に言われた意味深な言葉。
困惑する思考を何とか落ち着かせ、桜は先を促した。
「つまり……あの野田はその《脳の境界》ってのが、外れてる状態なわけね」
「ああ。人間は全力を出し切っていると思っていても、それは本当の意味では"全力"ではない。自然と筋肉にセーブが掛けられ、本来よりも大幅に小さな力しか出せず、これを"全力"と認識しているに過ぎないんだ。《脳の境界》は、それらを全て払拭し、人間の潜在能力を余すことなく開放できる、いわば人体の抑制装置だ。解りやすく言うと、今の野田はリミッターが外れて、化け物染みた力を手に入れてるってことだ」
「それと野田が死ぬのと、ど、どう関係があるのよ?」
冷静に受け答えしようとしたが、動揺する理性がそれを拒否する。
しかし一遍の隙も見せない鬼気迫る攻防を目にしても、唯一驚いた様子のない陸が慎重な声で返答してきた。
「ただ聞くだけじゃ、《脳の境界》が外れる事は利点の塊にしかみえないが、実際はそんな事は無い。脳が常に身体にセーブ掛けるのは、己の身を守るためだ。潜在能力を解放する――つまりは限界まで肉体を酷使するという口実に過ぎず、それだけの負荷を与えれば、筋肉や骨やらが自ずと悲鳴を上げる。おれや切のように、ガキの頃から鍛練を積んでいれば話は別だが、野田は飽くまでも一般人だ」
陸は一拍の間を置き、最悪の状況を想定した上でそれを口にした。
「もったとしても、あと数分……。それを超えたら身体だけじゃなく、脳神経が焼ききれて最悪、廃人だ」
* * *
──流石に一筋縄ではいかないか……。
颶風すら巻き起こさんとする野田の怒濤の攻撃は、自然と切を守りの方向へと誘っていった。鉄筋の支柱を叩きつけるように、すくい上げるように、或いは横薙ぎの一閃と化して寸分なく切に襲い掛かる。
「■■■■■■■■■■■■ーーーーーッ!!」
しかし切は決して圧されているわけではない。全てをぎりぎりの距離まで引き寄せ、受け流し続けていたのだ。
野田の攻撃は単調だ。自由奔放に任せた力任せの一撃一撃は、全て直線からなるもの。ならば先読みして軌道を読み取ってしまえば、避けるのも流すのも容易い。
──しかし、このままいけばこの男は死ぬ……。
問題はそこにあった。
危惧すべきはこの男をどう倒すかではなく、どう止めるか。
どういった経緯で《脳の境界》が外れたかは大よそ検討もつかないが、このまま白兵戦を長引かせれば脳にまで異常をきたし、死に繋がる。
──やはり、やるしかないか。
切は突風のような一撃をしゃがんで躱し、己の跳躍力を駆使し野田から一瞬で離れる。不意を衝かれた野田は、身体のバランスを崩し踏鞴を踏んだ。
彼我の距離が、一拍の間で七メートル弱離れる。
切は対峙する相手との距離の間を確かめると──あろう事か日本刀を鞘に収めた。
* * *
「ね、ねぇ。切、日本刀を納めちゃったんだけど……」
「日本刀納めたって……あの馬鹿! まさか、こんな所で"アレ"を使う気か!?」
「なによ……アレって?」
陸は対峙する二人──その一人である切を見据えたまま、無意識に唇を噛んでいた。
「抜刀術……"居合い"」
ぼそりと呟いた声は桜にも届かないほど小さなものだった。
居合いとは日本刀を鞘に収めた状態から、刀を抜く動作で一撃を加え、二の太刀で相手にとどめを刺す抜刀術。
通常の剣術は"抜く、それから斬る"という二段の動作を必要とし、工夫や研鑽が無いため相手より動作が遅れ、すぐに死に繋がる。抜刀術はその不利を有利に変えるべく、居ずまいや足運びなども含めて研究を重ね、鞘走りを利用し刃を疾らせると同時に抜き放つ術として発展したものだ。
だが切は暗殺者だ。暗殺の過程で体力や格闘技、ましてや"秘技"などは必要ない。必要なものは人殺しに耐えうる精神と、一瞬で相手の息の根を止める急所への攻撃のみだ。いかに素早く、的確に、相手の急所を突けるか……その一点に絞られている。
だが万が一、相対する敵が自分と"同じような存在"の人種だった場合は、力量に相当の差がない限り、この手法は通用しない。
そのために切や陸の各々は──危機的な境地に陥ったときのために、一つ二つの"秘技"を体得しているのだ。
「……切は次で決着をつけるつもりだ」
切に視線を投げたまま答える陸。
「次でって……どうやって止めるつもりなのよ?」
「分からん。だけど今は──」
不意を衝かれたような感覚が陸の身体を奔った。
切が紅く彩られた瞳をこちらに投げていたのだ。
視線と視線が交差し合う。陸はそれを正面から受け止め──彼の考えている意図を汲み取った。
「あんの野郎……どうなっても知らねェからな」
狼狽の体を示す桜が、不安げに陸を見上げている。
しかし、陸は切を見据えたまま振り返ろうとしない。そして陸は笑っていた。
彼が──切の瞳が語っていたのだ。
──俺を信じろ、と。
切と野田──彼我の距離は多く見積もっても八メートルといった所だろう。
切は腰を深く下ろし、左手は鞘に。右手を柄に軽く触れさせ、眼前の相手を睨むように見据えていた。
同時に野田もこれで幕引きだと察したのかもしれない。
野田は右腕で持った鉄筋を左脇に差すように構える。見ようによっては切の真似事のようにも思えなくもない。
「…………」
「ウルルルゥゥゥ……」
吹き曝す風が、その場一体を包み込む。
それは一時の静寂。動き出した瞬間、終焉する幾ばくの間。
交わすような言葉はある筈もなく……
「■■■■■■■■■■■■ーーーーーッ!!」
──先手を打ったのは野田だった。
コンクリートの地面を穿つような爆発的な踏み込み。
姿勢を限界まで落としたそれは、野生の獣をも度外視した駿足の疾走。野田は容赦も、情けも、お構いもなく一直線に眼前の敵を目掛けて急接近。
しかし反対に切は一向に動く様子は無い。腰を低く落とした体勢から微動だにしないのだ。
「■■■■■■■■■■■■ーーーーーッ!!」
目と鼻の先と解釈していいほど近づいても動こうとしない切を見、気圧されたと看破したのか、野田は身体を回転させ遠心力に任せた一撃を放った。
腕が引き千切れんほど勢いで繰り出した、今まで見せてきた中でも最大級の威力を持つ奮撃。切を冥界へと誘うには、十二分な破壊力を持ち合わせていた。
だが、その一撃は虚空を薙ぐに留まった。
横薙ぎの一閃は、当たれば切の身体を容易く二分に分けるほどの威力を秘めていただろう。しかし、有ろうことか標的だった切が野田の視界から掻き消えていた。
標的を見失った野田が、忙しなく首を動かす。
「────ッ!!」
振り返った彼は視界にそれを入れた。
視線の先……振り切った鉄筋の上で、低い体勢の状態で佇む切の姿を。
「……幕引きだ」
ぽつりと呟いた切は、それこそ射られた矢の如くといった速さで、鉄筋の上を滑るように疾走し始めた。
"居合い"の構えを、相手に大振りをさせるための囮。謂わば"隙を見せて隙を作る"ために用いたものだ。獣染みた理性しか持ち合わせていない、いまの野田には有効だと踏んでいたが予想以上の効果があった。
鉄筋の先から野田まで三メートルも無い。瞬きするのも惜しいという速さで、切は間合いに入ると、鞘走りを利用した白刃──峰を再び後ろ首めがけて放った。
同時に鈍い音が一瞬だけ響いた。
「……無に帰れ」
細々とした声音で囁く切。
その背後で、ゆっくりと地面にくずおれる野田の苦行の呻き声が、彼の耳朶に鈍く響いた。
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