――紅霧――



     《6》


「ナーイス、切! タイミングバッチリ!」
 勝利の歓喜を上げた陸が、親指を突き立て快活に笑う。
 刀を納めた切はそんな彼を見て、ほとほと疲れたような溜め息を吐いた。
「……タイミングが悪かったら洒落ではすまなかったぞ」
「まあまあ。成功したんだから、そう睨みなさんなって。結果オーライだろ?」
「…………」
 倉庫に入る前に作戦を企てたのは陸だった。
 正面から入った二人が囮になり、もう一人は桜と由里の救助という手段。もっともジャンキーのほとんどを陸が掃滅してしまったのだから、無駄事でしかなかった。
 同時に陸の楽観的な性格が、東京に移り住んでから、さらに酷くなっているように思えてならない。
「……あんた達、一体なんなの?」
 囚われの身然とした桜が、ぽかんとだらしなく口を開けてこちらを見ていた。
 その隣では同じような格好の由里が、眼前に広がる阿鼻叫喚の地獄絵図を視認したまま硬直している。
「陸……やはりやり過ぎだ。別れ際に手を抜けと言っただろう」
「い、いや〜。久しぶりの実戦だからよ、手加減の仕方がどうもうまくいかなくてな。無駄にハイテンションになっちまってさー。まあ、大目に見てくれよ」
「よくない。お前という奴はいつもそうだ。人の話をまったく聞かないところは、京都にいる頃と全然変わってない」
「う……。こんなところで説教はよしてくれ。それより二人を解放してやらねーと」
 強引に会話を打ち切った陸は、桜と由里の縄を解く。
 しかし彼女達は立ち上がることなく、ただこちらを見ていた。
 桜は切と陸を交互に何度も視線を投げ、
「……あんたたちどういう関係?」
「「幼馴染み」」
 問い掛けられた切と陸は一度視線を合わせ、再び桜に戻すと同じタイミングで呟いた。
「ちょ、ちょっとまって!? それじゃあ文化祭で切が言ってた"幼馴染み"って……」
「陸だ」
「じゃあなに!? 明彦、あんた切のこと知ってたのに知らない振りしてたわけ!?」
「あー…、まあ色々と訳有りでな。けど、こいつ初見のときおれだって気付かなかったけどな」
 陸の見下ろしてくる半目から逃れようと、視線を逸らす切。
「あの〜、さっきから切くんが明彦君のことを"陸"って呼んでるけど?」
「ああ、"小早川明彦"ってのは偽名だ。本名は"大鳥陸"だ」
「なんで偽名なんて使ってるのよ? っていうより、そんなの普通の学生の身分で可能なわけないじゃない」
「曲解して考えてみろ。"普通じゃねえなら可能"ってことだろ? それとこれ以上の質問は無し。悪いけどここから先の深追いは危険だ」
 陸に小さく睨まれた桜は、まだ聞き足りないような言い淀む顔をする。
「聞くなって……。そんなの無理に決まってるじゃない! だって人間があんな動きすると思う!? ハリウッドのワイヤーアクションとでも言うつもり!? しかも偽名!? もう混乱し続けて発狂しかねないわよ!」
「御もっとも。けどお前達が目にした光景は紛れもなく事実だ。ワイヤーなんて使ってない。壁や柱を蹴って移動するなんて朝飯前だ」
「……どうしてよ」
「だから〜。これ以上は言えねえって〜」
 ジト目で睨む桜を前にし、陸は行き場を失ったように視線を泳がせる。
 救いの手を求めるように、憂いだ瞳を送ってくるが切は無言。
「あ〜、それは脳にある境界線が外れてだな、っておれも詳しくは知らないんだよ。それにこれを一般人に教えたことが里に知られたら……」
「構わないだろう」
 見兼ねた切が淡白に言う。
 幸い正人は途方にくれた顔で搬入口で唖然と突っ立ったまま、昏倒する元同僚のジャンキーたちを見下ろしていた。正気を取り戻すのは、まだ時間が必要だろう。
「見てしまった以上、致し方がない。それに好奇心に勝るものなしともいう。《脳の境界》のこと、、だけでも話してやるべきだ」
 切の含みのある言葉に察知したのか、陸は桜たちを相手にそれらしく見えるように渋々とした表情を浮かべた。
「説明するのは難しいが……。とりあえず一から教えてやるよ」
 このとき──彼らは気付いていなかった。
 倉庫内に、まだ微かに意識を残していた者が存在していたことを……。

     *     *     *

 ──なんなんだよ……あれは!
 重く感じる瞼を気力でこじ開け、野田は四人の男女を視界に納めた。
 惨敗だった。圧倒的な力量の差を前にし、反撃に転じる事も出来ず全滅されるという醜態をさらされた。
 ──それに……。
 あれは刃ではないのだろうか? 視神経から脳に伝わってくる情報が確かなら、野田の眼前にいる男女の一人に刃が混じっているはずだ。
 ──だが、そんなことはどうだっていい……。
 これほどの恥をかかされて黙っているほど、野田は面目が保たれないと思案。ジャケットの内ポケットを懸命に弄り、そこから直径二センチ弱のカプセル剤を取り出した。
 ──アイツが刃だろうとそうでなかろうと、どうだっていい……。一矢報いらねえと、おれの腹の内がおさまらねえ……。
 悟られないように最小限の動きでカプセルを口の中に含む。
 じっくりと咀嚼するつもりはない。野田は一気に噛み砕いた。

 ドックン……と。心臓が一つ、大きく鼓動するような錯覚に見舞われた。

 ──え?
 いまのはなんだ、と野田は自問自答する。
 ──まて。まてよ! 『ヘブンズゲート』はこんな反応起こすはずねえ!
 突然の出来事に思考のなかで慌てふためく。
 大きな鼓動は何度も行われ、それは時間が経つにつれ間隔が狭められていった。
 彼は気付かない。いま口にしたドラッグが刃から受け取ったもの、、、、、、、、、、だと。
 ──ど、どうなってやがる!? 何が起こるってんだ!?
 動悸の等間隔が短くなるにつれ、自意識が薄れていくような感覚に陥る。身体が何度も痙攣を繰り返し、脈拍の速さが急速に上がっていくのを耳朶が捉えた。
 ──い、嫌だ! なんなんだよこ──。意識が途切──。おれが……おれじゃなくな──! た、助けてくれ……。誰か助けてくれよ! ……イヤだ。イヤだ。イヤだ。

 イヤだ。イヤだ。嫌だ。いやだ。イヤだ。嫌だ。否だ。いやだ。厭だ。嫌だ。いやだ。イヤだ。嫌だ。否だ。いやだ。イヤだ。嫌だ。いやだ。厭だ。嫌だ。否だ。いやだ。厭だ。いやだ。嫌だ。いやだ。イヤだ。嫌だ。否だ。厭だ。嫌だ。否だ。いやだ。いや──

 野田の意識は完全に途切れた。

     *     *     *

「■■■■■■ーーーーーッ!!」
 突然、ジェット機に積み込まれたエンジンのような爆音が、倉庫を揺さぶるように波濤のようにして広がっていた。
 それはまるで地獄の底から響いてくるような怨嗟の咆哮。
 反射的に振り向く切と陸と、驚愕と畏怖の入り混じった瞳を向ける桜と由里。
「ハアアァァァ……」
 続いて聞こえたのは、まるで獣が発するような喉を鳴らす声。
 解放され、本当の自由に打ち震えるような声だった。
「おい……こりゃあ何の冗談だ?」
 眼前に佇む人物の赤黒く変色した皮膚が、革製のジャケットを突き破らんばかりに膨れ上がっている。顔、腹部、足──その部位に何本もの血管が浮かび上がり、蘇ったような亡者の白目が、こちらを悪鬼の如く睨み見据えていた。
 野田竜也だと思われる面影は……ほとんど見る影もなくなっていた。
「ハアアァァァ……」
 まるで己を鼓舞するような野田だった存在の呼気。肩を遅々とした速さで上下に揺らすその様は、閻魔もかくやというほどの凄みがあった。
 威嚇する視線。
 滴れ落ちる唾液。
 前かがみで蠕動する身体。
 これを獣と呼ばずして何と呼ぶか……。
「グアアァァァ……」
 何を思ったのか野田が倉庫内の支柱にしがみ付く。
 斜に構えた切と陸を前にし──
「■■■■■■ーーーーーッ!!」
 ──あろうことか野田は、その鉄筋の支柱を引き抜くという行為にでた。
 ベキベキやバキバキといった木の板をへし曲げる音ではなく、ギギギッといった感じの歪な音が断続的に響く。両手両足を器用に扱い、引きちぎった。
「■■■■■■ーーーーーッ!!」
 数メートルの横長の鉄筋を掲げ、獣が吼える。
 連鎖の咆哮を上げる野田は、己の身長以上の鉄筋を棒術のように身体の上で振り回し──

 有らん限りの膂力を使用した豪快な一撃を放った。

 眼前に佇む四人の男女目掛けて、横薙ぎに奔る改心の一撃。繰り出されたそれは常人の目では不可視の速度だった。
 そのなか野田の突飛な行動に辛うじて反応した切は、日本刀を斜に構え防御に入る。
「■■■■■■ーーーーーッ!!」
 横から迫った鉄の塊。日本刀に接触した瞬間、閃光のような火花と同時に、柄に異常なほどの圧力がかけられた。
「陸!!」
「──ッ!?」
 切に促されるようにして陸が正気を取り戻す。
 桜と由里を両脇に抱えると、その攻防の範疇から退くようにして跳躍。切と野田の頭上を超え、正人のいる搬入口の前へと着地した。
「グアアアァァァ……」
「ぐ……ッ!」 
 苦悶を漏らす切と、唸る野田の視線が交差する。
 野田は眼前の切を強敵と捉えるや、
「■■■■■■■■■■■■ーーーーーッ!!」
 咆哮を糧にし、全身をバネのようにして振り抜こうとする。
 それがこの部屋の均衡を打ち破った。
 必死の抵抗を見せようとした切だが、抗い切れずに吹き飛ばされ、そのまま壁を破壊し倉庫外へとはじき出される。
 激しい轟音と共に砂煙が上がった。
「切ッ!?」
 桜が切の下へと駆け寄ろうとするが、陸がそれを止める。
 抵抗する彼女を落ち着かせるように陸は耳元で囁いた。
「安心しろ。アイツはこんな事で死ぬたまじゃねえ!」
「で、でも!」
「いいから。それよりも俺たちの身を心配したほうがよさそうだ。……追いでなすったぜ」
 正面を見ると、鉄筋の塊を引きずりながら近づいてくる悪鬼がいた。
 威嚇の唸りを聞けば、百獣の王すらもそそくさと背を向けてしまうほどの威圧だ。
「おれの背後に下がってろ」
 陸が桜たちを庇うように佇む。
 その間も彼我の距離は刻一刻と狭まられていった。
 七メートル、六メートル、五メートル、四メートル、三メートル──そこまで距離が縮まったとき、桜の耳朶に力強く、いまでは聞きなれた声が再び響いた。

「お前の相手は……俺のはずだ」

 赤黒い野獣は、ゆっくりと身体を回転させ、己が辿った道にあるものを視認した。
「グルルルルゥゥゥ……」
 再度、唸りを上げる野田。
 彼の意識の残滓が瞳に映る光景を理解できないと伝えた。
 身体の節々から流れる血液。加えて、黒を基調としているぼろ切れと化した服装が、まるで幽鬼を彷彿とさせている。
 右手に日本刀を携え、深紅の瞳を野田へと静かに向ける……切の姿がそこにあった。




《Back》〈〈〈◆〉〉〉《Next》


《目次に戻る》
《トップページに戻る》