《4》
夜の帳が下りた八王子市。
その一角──喫茶店《Cube》の中はゆったりとした雰囲気に包まれていた。
店内に流れるクラシック音楽がその原因でもある。
しかし、それ以上に──
「……あ〜、つっかれたぁ〜」
見るからに満身創痍といった体の明彦が、カウンター席に突っ伏し擦れた声で吐露していた。人生に嫌気がさしたサラリーマンがいたらこんな感じなのかもしれない。
その隣で湯呑み茶碗に入れた煎茶を啜る切の姿があった。
「お疲れか?」
「見りゃ〜分かるだろ。これで疲れて見えないならお前の目は節穴だ」
「それよりも桜たちはどうした? もう九時を過ぎているが。帰ったら『打ち上げやるぞー!』とはしゃいでいなかったか?」
「さあな〜。文化祭の打ち上げやるって言ってた張本人がブッキング──いや、あいつが約束事すぽっかすとは思えないんだがな〜。なにかあったと見るか……。むしろ、己から巻き込みにいったという説の方が高えな」
「そうなのか?」
切の問いかけに明彦がくくっと思い出し笑いのような笑みを零す。
「まあ、あいつは他人が困っているのを放っておけない主義だからな。おおかた文化祭の片付けでも頼まれたんだろう。気長に待とうぜ。気長にさ」
「放っておけない主義……」
思案に沈む切。
疲れきっていた様相──桜が見れば目尻を吊り上げるような体たらくの明彦が、胡乱な瞳でそんな彼を覗く。
「なんだ? 考え事か?」
「いや、取り立てて言うほどの事でも……」
「だったら話せよ。俺とお前の仲だろ。な?」
馴れ馴れしい仕草で明彦は切の肩に腕を回す。
「どうして桜は……」
切はこれといった嫌悪感を見せず、ぽつりと呟き始めた。
その時だった。
「明彦!」
突如として喫茶店に駆け込んできた二つの影。
桜と由里ではない。切の知らぬ人物だった。
「……正人!? それに薫ちゃんまでその服装。どうしたんだよ?」
なだれ込むようにして入ってきた男女を前に、明彦が豆鉄砲をくった鳩のような顔をする。カウンター奥でグラス磨きをしていたマスターも表情にはでていないが、幾分驚いているようだ。
「東野と月宮が……」
「桜と月宮? おい、二人がどうしたんだ?」
明彦が突然訪れた正人の胸倉を掴み詰問する。
正人は喰いしばった歯をゆっくりと開くようにして呟いた。
「……『ヘブンズゲート』に捕らわれた」
『ヘブンズゲート』という言葉の意味は知らない。が、明彦の予想以上の劇的な表情の変化に、予期せぬ事態が起こったのは確かだ。
「なんでそうなったんだ!? お前、あのイカレた集団に組してたよな? だったら、てめえが誘惑したのか!? 答えろ、正人!」
「違うの! 私が桜たちに助けを求めたせいなの!」
場に静寂が訪れる。
「薫ちゃん……?」
そこにいた全員の視線が店内で紅一点の彼女に向かった。
派手な服装と髪の少女は、震える唇を開閉させ、
「正人くんを、改正、させたくて……。だから、桜たちに協力してもらって、正人くんを助け出そうと、したの。けど、その途中で、正体がばれて逃げ出そうとしたん、だけど。桜たちが、囮になって……」
すすり泣く涙声が店内に無常なまでに響く。
「明彦。『ヘブンズゲート』とは一体……」
「東京……。特に渋谷区を中心に蔓延るドラッグの売買を行う集団だ。警察すらも煙に巻くイカれた人間の集まりさ。もっとも、ただ単にヤクザと交友があるためか警察側が迂闊に手が出せない。ここら辺じゃ、結構有名なアウトローの集まりだ」
苦渋の色を浮かべる明彦の顔から、それだけ大きな組織だということが理解できる。
しかし、だからといって黙って見ているわけにはいかなかった。
「どうするつもりだ明彦?」
「警察は当てにならねえ。それに例え警察を使ったとしても、正人にまで危害が及ぶ確立が高い。メンバーの一人だったからな。補導される確立は高いだろう」
「そんな悠長なこと言ってられないだろう。俺のことはいいから警察に──」
「馬鹿言うんじゃねえよ。せっかく桜に助けてもらったんだぞ。きちんと改正して薫ちゃんを安心させてやれ。桜ならそう言うはずだ」
明彦の一喝の前に何も反論が出てこないようだ。
薫に添われるように身体を寄せられた正人は、両の拳を戦慄かせるだけに留まっていた。
「ならどうする?」
切の何気ない明彦への問いかけ。
しかし、明彦はそれ以上の反応を示した。
「決まってんだろう? じゃじゃ馬娘たちを救出しに行くぞ」
* * *
「邪魔するぜ」
ウェスタンドアを模した両開きのドアが大きく開閉する。
そのまま『ヘブンズゲート』の店内になだれ込んできたのは明彦、切、正人の三人だ。
入ると同時に辺りを見回す。
「誰もいない。もぬけの殻だな」
店の中は無人だった。
天井から吊り下げられたステージ用のライトがくるくると無機質に回っている。同時に、周囲を漂う淫靡な匂いと煙で鼻が曲がるように思えた。
「クソッ、桜たちを連れて何処に行きやがった。正人、心当たりはないか?」
「いや、俺には……」
そのとき突然、会話を遮るようにして電子音が鳴った。
電子音の正体はカウンターバーに置かれていた携帯だった。
「……俺がでる」
正人が慎重な足取りでカウンターバーに近づいて行く。
携帯を耳元に当てると、見えない相手との会話の応酬が始まった。
「東野たちは? ……そうか良かった」
肩を抜くような正人の動作に、桜たちが無事だと知る。
「とりあえずは一段落ってところか」
「桜たちが捕らわれの身であることは確かだ。策はあるのか?」
「それはこれから考えるさ。通話が終わるまで待とうぜ」
明彦の案に、素直に頷く切。
一方、携帯電話で話を続ける正人の顔は暗澹たる面持ちのまま続いた。
「倉庫街。……分かった、すぐに行く。だから東野たちには手を出さな──」
相手との通話が途切れたのが、切には容易に理解できた。おそらく明彦も同じだろう。
二人は肩を落としうな垂れる正人の傍へと寄っていく。
「『ヘブンズゲート』からの連絡だろ? なんだって?」
「東京湾の……倉庫街に来いって」
「東京湾? なんでまたそんなところに?」
理解し難いといわんばかりに肩を竦める明彦。
鬱々とした表情をする正人は、搾り出すような声で口を再度開いた。
「『ヘブンズゲート』──ドラッグも同じ名前なんだが、コイツが東京湾の倉庫に大量に保管されてるんだ。倉庫は業者から丸々一つ買い取ったもの。表向きは輸入商品の貨物保管庫だが、裏ではドラッグ『ヘブンズゲート』の貯蔵庫っていう寸法だ。警察から目を暗ますためにリーダーの野田が補填したらしい。まさかそんな所に拠点を置いてるなんて警察も思ってもいないんだろう」
「木を見て森を見ず……。確かに品物の輸出入で動いてる東京湾で、そんな場所があるとは到底思えない」
「感心するのは後だ。東京湾に来いって言ってるんだろ? だったら行くぜ」
* * *
「どの倉庫だ?」
「もう少し前に行って……。そうあれだ」
減速で進んでいたワゴン車が、正人の指差した倉庫より十メートルほど離れたところで止まった。フロントガラスに顔を近づけた明彦が、
「搬入口の間から微かに光が漏れてやがる。誘ってやがるな」
と小さな声で呟く。
東京湾、倉庫街──。
幾多、幾重も列を重ねる倉庫は、夜の帳と静寂に包み込まれていた。
ワゴン車のエンジン音が無常に響く。深い闇に閉ざされた倉庫街は、深淵へと誘う道筋にも見えた。
「けど、ここからどうする?」
正人が不安を隠そうとせずに運転席の明彦に問う。が、明彦はハンドルに両肘を乗せて、暗闇の中にある倉庫の外壁を黙々と傍観しているだけだった。
「あの二人はとりあえず無事なんだろう? なら少しの猶予はあっていいはずだ。少しは落ち着けよ。挙動不審に見えるぞ」
宥められた正人は心外に思った。友人──それも特に親しい二人が攫われたにも関わらず、なぜ彼はここまで達観としているのか? ただの馬鹿か、あるいは想像もできないほどの大物か。前者に違いない。
それに加え後部座席でジッと身構えている青年。細長い包みを抱え、ただ静止している。その様は実際に見てみないと分からないほど、存在感が感じられなかった。
「だがジッとしていても埒があかない。行動に移るべきだ」
「……それもそうだな。行くか」
明彦と切が車を降りようとし──正人がそれを制止させた。
「なに考えてるんだ!? さっきも思ったけど『ヘブンズゲート』を前にして正面切るなんて正気じゃないぞ! 作戦を練ってからでも……」
「今から考えても遅いだろ。呼び出されてから時間が経ってるからな。小細工抜きでいくしかねえ。違うか?」
「同感だ。桜たちの身に何かあった後では遅い。迅速な行動が要求される」
鋭い眼光を前に正人は反発できなかった。震える身体を懸命に抑制させ、深呼吸を数度。意を決した正人は諦念したように呟く。
「……どうなってもしらないからな」
* * *
重い搬入口を開くと、目を瞑ってしまいそうな程の光が差し込んできた。
「ようこそ! 『ヘブンズゲート』の真のアジトへ!」
目馴れした明彦と正人は、目元を覆っていた腕をゆっくりと下ろす。
奥行きのある倉庫内。そこにはガラの悪い集団が、好きな場所を陣取るように散らばっていた。
多様多種に富んだ服で個々を個性を見出し、派手なネックレス、実用性を無視したようなバックルのベルト、指に嵌めたリングが天井に取り付けられたライトの光源に乱反射している。
「よ〜、正人。ちゃんと来てくれたな。逃げ出すと思ったが、人情がそれを拒んだか?」
山積みにした木箱を背に佇む青年。大仰に両腕を広げ、傍から見ても厚い胸板を惜しむことなく見せる巨漢が、唯我独尊と差し支えない獰猛な笑みで迎えた。
「……あれが野田竜也だ」
正人の呟く声を拾った明彦はスキンヘッドの男が、この集団のリーダーだと知る。
焦点は彼の周りに搾られ──明彦は両目が微かに揺れた。
「……桜?」
野田の後ろ。荒縄のような類のようなもので、両腕を後ろで縛られた二人の少女がいた。
「明彦!?」
桜と由里と思われる人物は、派手な服装と装飾。本人か見間違うほどの髪型に区別がし辛かったが、こちらを見て大層驚いた様子なので本人に違いない。
「二人を解放してやってくれ」
「無論おれもそうしたいさ、良心が痛むからな〜。けどタダで返すわけにもいかねえ」
わざとらしい野田の言い分に、周囲のガラの悪い青年達は、揶揄するような笑みを零す。
「……どうすれば二人を解放してくれる?」
「そんなこと聞かなくても分かるだろ? お前が戻ってくれば嬢ちゃんたちは逃がしてやるさ。それができないなら"罰"を受けてもらうほかないんだが……それは嫌だろ?」
肩を竦めた野田は余裕綽々だと見せびらかしたいのか、胸ポケットからタバコを取り出し火をつける。深く吸い、白煙と共に吐き出す。
「お前だって本当のところは戻りたいんだろ? だったら答えは決まってるじゃねえか」
「…………」
俯いた正人はどうすればいい、と思考を巡らす。
不意に肩に何らかの感触があり、正人は悲愴に満ちた顔を動かした。
そこには肩に手を置く明彦の姿が──。
「ここでアイツの口車に乗せられたら、それこそお前は堕ちるところまで堕ちるぞ」
「けど……」
「いまはお前の本心をさらけ出せ。後の事は気にするな」
明彦の助言によって、少しだけ落ち着きを取り戻した正人は、覚悟を決めたように顔を上げると、キッと野田を睨む。
「断る。俺はもう後悔したくない。二人を助けて、俺は元の生活に戻る」
鋭い眼光。
それを正面から受けた野田は、不愉快そうにタバコを吐き捨てる。やれやれといわんばかりに、大げさに首を横に降ると、不遜な笑みを湛えた。
「そうかい。抜けちまうとはがっかりだ。取引の囮として使い捨てるつもりだったんだがよ……」
くつくつと煮え切らないような失笑。
「けどな。タダで逃がすつもりはこっちにもねえんだ。きっちり"罰"を受けて、落とし前はつけてもらうぜぇ」
そう付け加えた野田は顎をしゃくる。
すると山積みにされた木箱に、腰を下ろしていた小柄の青年が、ゆっくりと野田の下へと降りていった。
「イッちまっていい。好きに暴れろ」
パーカーを目深に被ったその小柄の青年は、野田の指示に喜色を浮かべる。半月の笑みを湛え、彼は数歩足を運ぶと、明彦たちと対峙するように佇んだ。
彼我の距離は五メートル弱といったところか。
「お前に任せるが、半殺しに抑えとけ。死んじまうと後々面倒だからな」
「……了解」
小柄で痩躯の青年は、きな臭さを感じるものの脅威には思えない。
だが何処か肌寒いものを感じる。
その青年はポケットに手を突っ込み、引き出すと指の間から零れ落ちるくらい何かを握っていた。
「まさか……"それ"をここで遣うつもりなのか?」
「ああ、ドラッグ『ヘブンズゲート』。使ったら、その名の通り天国の扉を潜るような錯覚と快感と興奮を得られる。痛覚は完全に麻痺。アドレナリンの大量分泌で、落ち着きを取り戻すまで、暴れつづけるだろうな」
「分かってるんなら、お前たちにも危険が……」
「そうならねえんだな、これが」
狼狽する正人を他所に、野田は肩を大きく揺すり、恐れなしといった体を示す。
それを肯定するようにパーカーの青年は、大量のカプセルが握り締められた右腕を高く抱え上げ──パッと右手を開いた。
手の平から落ちてきたカプセルを咀嚼するように噛み砕く。
驚く正人の表情を、楽しげに見ていた野田は説明口調で話を進める。
「そいつはな。ドラッグを摂取しても暴走することなく、自意識を保てる唯一のメンバーさ。他のギャングとの抗戦で、常に先陣を切ってくれる主力だ。せいぜい足掻いてくれや。お前達は賭けの対象になってるんだからな」
野次に似た歓声が、倉庫を満たす。
カプセルを嚥下し終えたパーカーの青年は、ドラッグの反応に身をゆだね、身体を何度も蠕動させた。口の端から唾液が垂らしながら。
それが止まると、カプセルを取り出した反対のポケットから、なにやら手に納まるほどの小物が現れた。
(折りたたみナイフ!?)
パーカーの青年はナイフの切っ先を引き出す。
操り人形のような動きを見せるパーカーの青年は、傍から見たらとてもじゃないが正気を保っているようには見えない。
「ヘ、ヘヘヘ……。ヒャヒャ、ヒャヒャヒャヒャヒャ!」
迸る瞳がこちらへと向けられ──
「ヒャハ──!!」
腰に構えたナイフの先を向け、その青年が疾走してきた。
その向かう先にいる者は正人だ。
(やられる!)
と、正人は瞬時に悟った。
身構える余裕すらなく、身体は硬直したまま動かない。
ナイフの切っ先が一メートルを切ったとき──それは起きた。
パーカーの青年が冗談のように、水平に吹き飛んだ。
「──ッ!?」
度肝を抜かれた顔をした野田は、正面から突っ込んでくる"物体"をしゃがみ込むようにして、紙一重で避ける。
背後にあった木箱の破砕する音が何重にも響き渡り──次いで静寂が舞い降りる。
木箱から大量のカプセル剤が流れるようにして零れ落ちた。
「加減したつもりなんだが……強すぎたか?」
正人の目の前。
そこに佇むのは消去法からして一人しかいない。まがう事なき明彦だ。
思考が付いていけない。パーカーの青年と自分の距離が一メートルに差し掛かかった時、彼が割り込むように間に入ってきたところまでは理解できた。
そこから何があったかは……知らない。
(違う……)
見えなかった。
それは一瞬──目にも留まらぬ高速の一撃を与えたというのは、吹き飛んだ青年の方へと突き出された明彦の足が物語っている。
明彦はバツが悪そうに髪を掻き、
「あ〜、やっぱ実戦から長く離れてたのが不味かったか〜。はやく勘を取り戻さねえと、あとあと切に怒られそうだ」
「あ、明彦……」
「正人、危ないからお前は下がってろ。ちょっくら、こいつら片付ける」
近場に出かけてくるような口調。一方的な意見に、反論の余地はない。
明彦はこちらを一瞥すると、翻るように野田達の下へと歩み寄る。
その足取りは恐れるものなし、と言っていいほど軽やか。
「さてと諸君。正人をたぶらかした件、桜たちを攫った件……その他諸々。色々と面倒掛けてくれたから、おれからも"罰"を与えてやらねえとな。二度とこいつらに手を出さないよう、このおれが引導を渡してやるよ」
「ふ、ふざけるな! お、お前、一体何なんだ!?」
見るからに野田は狼狽していた。
あんな神技のような行為を直視し、平静を保てというのは不可能に近いだろう。
しかし明彦──彼はその不可能を可能とし、目の前で実現させた。
「おれか? そうだな名乗っておいてやる。耳かっぽじってよく聞けよ。おれは──」
明彦は嗜虐的な笑みを湛え、嘯く。
「──"大鳥陸"。てめえらが生涯、畏怖し続ける男さ」
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