――紅霧――



     《3》


「ねえ、桜。あなたの秘策って……これ?」
「そうよ。見て分からないの?」
「あなたって、ときどき突飛いた事するから驚かずにはいわれないわ。もう一度訊くけど、本気なの?」
「当たり前じゃない」
 胸を反らす桜と、訝しんだ薫。その両者は派手な格好でめかし込められ、厚めの化粧が顔を覆っていた。
 ルージュにアイシャドウはもちろんの事、そこにマスカラも塗られている。もしも知人がいた場合に備えて髪型にも変化をいれた。桜は左右に括ったツインテール。薫は即席のウェーブにカラーリングを追加させるという始末。
「けど、用意周到にしたって早すぎるわ。事前に察知していたはずないわよね?」
「まあね〜。高校のときの友達が、美容院の専門学校に通っててね。ゴリ押してきた」
「ゴリ押しって……平気だったの?」
「平気、平気。『学友のピンチなの! お願い助けて!』って頼み込んだら、これが意外とあっさりオッケー。それに実験台が欲しかったみたいだし、あっちも結構ノリノリだったから」
「それならいいんだけど……」
 薫はそう言って身体を動かし、自分の姿を確かめる。どちらかというと大和撫子然といった雰囲気を漂わせる薫には、ギャル風の服装や化粧は似つかわしくない。
 しかし、文句を言ったところでどうしようもない。向かう先はドラッグを売買するジャンキーの集う巣窟──『ヘブンズゲート』なのだから。
「それはそうとして……」
 不意に薫が桜の思考を遮るようにして、
「由里はどうしたの?」
 その言葉を口にした。
「まだメイクに時間掛けてるらしいけど……それにしたって遅いわね」
 桜はメーキャップしてくれた旧友のアパートを見上げる。
 当初、変装という単語に由里は気乗りしなかった。
 もともと化粧っ毛のない少女のため大学でもノーメイクでくるという猛者だったのだが、ここにきて何かに目覚めたらしい。
 ──正直、童顔だから普段の化粧は必要ないけど。
 もっとも敵地に侵入するのだから変装は必要不可欠だ。だからこそ、ここまで手間隙を掛けて変装したのだが、
「いくらなんでも遅すぎるかも……」
 降りてくる様子のない由里に苛立ちが募る。
 一刻の猶予もないのに何時になったら出てくるのかと、出入口を前に仁王立ちしながら桜は由里を待つ。その後ろでは、薫が哀愁に帯びた浮かぬ顔をしていた。


 十分後──。
 時刻は午後七時を回っていた。
「ごめ〜ん。お待たせ〜!」
 桜と薫の耳に、由里の声が木霊す。立ちっ放しだった桜の顔には怒気が漂っており、その瞳はアパートの出入口を一心不乱に見つめていた。端的に表現するなら爆発寸前である。
 そんな彼女を薫が取り繕うと宥めようとするが、桜の眼光の前にただ臆するだけだった。
「えへへ〜。いろいろ試してたら時間掛かっちゃった〜♪」
 由里が階段を一定のテンポで降りてくる。その姿はまだ表には出ていない。音のみが聞こえるだけ。
 対する桜は、肩をわなわなと震わせ「へぇ、時間掛かっちゃったんだ〜」と薫にすら聞き取れないような小言を呟く。怒りは既に絶頂。エベレストの頂もかくやという高さにまで達していた。
 階段を降り終えた音を最後に、出入口先から由里が現れる。その瞬間、桜は昂っていた感情を全て吐き出すように叫んだ。
「由里ッ!! どれだけ時間を掛ければ、気……が……済…む……」
 桜の吐いた言葉の語尾が途切れ途切れになる。その瞳が大きく見開かれていた。
 理由は簡単だ。
「ごめん桜ちゃん! 説教は後にして、今は正人くんを助ける事を先決しなきゃ……って、二人ともどうしたの?」
「「…………」」
 小首を傾げながら問う由里を、桜と薫は呆然と見つめたまま固まっていた。
「あ、あんた……」
 桜が頬を引きつらせ、目の前の由里だと思われる少女を指差し、
「…………だれ?」
「酷いよ〜桜ちゃん! わたしが由里以外の誰に見えるの〜」
 小さな身体を懸命に動かしながら抗議する少女の姿を見て、由里だとやっと気付く事ができた。
 黒いセルフレームの大きな眼鏡は外され、代わりのカラー・コンタクトが瞼の内で淡い水色を放っている。三つ編みを解きウェーブを掛けたに留まらず、つけ毛を追加。化粧は薄すぎず濃すぎずがモットーなのか、丁度良い感じに仕上がっていた。
 その出来栄えに思わず溜め息を吐かずにはいられなかった。
 ……誰か分からないっつーの。
 傍から見ても自分や薫より変装に倍の時間を掛けている由里は、薫の前に立ちスカートの裾を持ちながらくるくると回転し意気揚々としている。
 一目見ただけでは本人だと理解するのは難しいだろう。
 まあ、ともあれこれで準備万端だ。
「準備は出来たわね。二人とも行くわよ!」
 桜、由里、薫の三人は渋谷へと歩を進めた。

     *     *     *

 ネオンの光に包まれた夜の渋谷の繁華街は雑多な人が行き交い、遊び人のような変装をした三人を気に留める者はいなかった。寧ろ、彼女達よりも一も二も上のランクの人たちが己の姿を見てといわんばかりに闊歩しているのだ。
「ほぉらぁ、ユリぃ、カオルぅ。早く来なよぉ〜」
 と、桜がギャル風に言葉を崩し、後ろから着いてくる由里と薫を手招きする。
 心なしか、後ろの二人はオドオドとした様子だ。それが挙動不審に見えてしまうのか、周囲の視線を集めている。
「ちょっと、あんたたちも真面目にやりなさいよ」
 二人の腕を掴まえ、繁華街の路地に姿を隠し言う。
「そ、そんなこといわれても。こんな格好で、外出るの初めてだし恥ずかしいよ〜」
「あんた化粧のときはノリノリだったじゃない! それと言葉は崩して話しなさい。薫も!」
「け、けどぉ〜。やっぱ、ワタシたちじゃ心細いしぃ〜……。 ね、ねぇ、小早川くんも呼んだ方がよくない? 彼、こういうの詳しいかもしれないし──」
 懸命に言葉を紡いだ薫が返答した。同意の表れなのか、その隣で何度も頷く由里。
 しかし桜は渋い顔になった。
「必要ないわよぉ〜、あんな優男〜。使えないってぇ。ほらぁ、二人ともー、早く行くわよぉ」
 と先陣を切って、繁華街の中をずんずんと歩いていった。
 薫の考えに桜は少なからず賛同はしていた。こういった時に、男手があるとないとでは差が出てくるかもしれないからだ。
 しかし、突然そんなことを頼むのは藪から棒だ。だからこそ、明彦には何一つ相談せずに赴いた。無論、切はこのごろ情緒不安定な状態にしか見えないから論外だった。
「着いたわ。ここよ」
 薫の声が、思考の渦を落ち着かせた。
 『ヘブンズゲート』は表向き朽ち果てたような廃屋に見える店だった。
 淫靡な空気が階段の下にある店のドアから漏れてくるような雰囲気さえある。壁に吹きかけられたスプレーの跡と、アルコールやタバコの臭いがそれを裏付けているようでもあった。
 意を決し、階段を下りる。三人が一段一段と足を降ろしていく様は、まるで夏の肝試しような足取りだ。先頭を立つ桜の顔からも緊張の色は隠せなかった。
 階段を降り、一呼吸してから桜はウェスタンさながらの両開きドアを開ける。
「なんだ、お前たち? 誰かの連れか?」
 ドアを開けたすぐ横手。レジカウンターと思われる所で、椅子に座りながら雑誌を捲っている男が一人いた。こちらを睨んでくる。
 部外者は即刻、引いてもらえとでも言われているのか、男は怪訝な瞳を向けながら腰を少し持ち上げていた。
 桜はそんな男を見、事前に用意していた台詞をらしく聞こえるよう、、、、、、、、、に意識しながら、返事を返した。
「私たちぃ、正人くんの紹介で来たんだけどぉ。ここってヘブンズゲートでしょぉ?」
「ああ、そうだ。なんだ正人の誘いかよ。けど、普通は前もって連絡するはずだが、あいつから事前に知らせがきてねえな……」
 男は考え込むようにして顎の髭を弄くる。
 重低音が床に響き、薄暗い店内からぬっと二メートルを越えるスキンヘッドの大男が現れたのはそのときだった。
「ああ? どうかしたか?」
「竜也さん。いえね、この三人が正人の誘いで来たって言うんすよ」
「ほ〜、あの正人のねえ……」
 スキンヘッドを擦りながら、顔を寄せてくる竜也と呼ばれた巨躯の男。厚い紫紺の革製のジャケットを着込む姿は貫禄があった。こいつがリーダーなのだろうか。
「譲ちゃん。今日が、パーティーだと知っていて来たのか?」
「決まってるでしょぉー。参加は誰でも自由だって聞いたけど間違いぃ? だとしたら、ショックなんだけどぉー。さいあくぅ〜」
 今日がパーティーの日などと知るはずがない。それでも虚勢を張るようにして、ギャルよろしく、落胆の色を浮かべながら、だらける仕草をしてみせた。半ば賭けに近かった。こちらが騙されている事もありえるからだ。
 しかし、その桜の虚像を真に受けたような笑みを浮かべた竜也と呼ばれた男は、桜の肩をぽんぽんと叩き、
「そう言われちゃー、無下には出来ねえな。いいぜ、ただし一応は面通ししてもらわないといけねえ。知ってるとは思うが、俺たちはサツにも目がつけられてるんでな。ま、用心みたいなもんだ。あまり重くとらないでくれ」
「パーティーに出られるっていうんなら喜んでするよぉー」
「オッケー、オッケー。パーティーの参加を歓迎するぜ。おっと、自己紹介がまだだったな、俺は野田竜也ってんだ。よろしくな。おいコウジ、この譲ちゃん達を店の中に案内してやれ」
「分かりやした」
 野田という男の命令に、レジカウンターにいた男はすんなりと指示に従った。
 ――この野田って男がヘブンズゲートのリーダー……。
 誘導されるようにして店内に足を踏み込む三人。
 中は思いのほか広かった。自分達と同じ年頃の人間が自営するにはお金が掛かっていそうな内装だ。
 カウンターバーが一つ、店内にある幾つもの円形のテーブルの周りに、は大人数のソファーと一人用のソファーが並べられていた。
 照明が必要最低限に落とされた代わりに、店内の中心にあるステージ用のライトが様々な色をさせながら場を興奮させるようにくるくると回る。その周囲で重低音の音楽に合わせるように身体を動かしダンスをする者が何人もいた。
 そしてタバコと、おそらく麻薬と思しき臭いと濃霧が、これでもかというほど漂っている。
 桜は歩きつつも、参加者の数、その人間の位置、脱出経路を量ろうとする。が、薄暗い店内に、常に動き続ける参加者、あまつさえこの濃霧だ。明瞭さに欠けた。
「正人! お前に客だぜ!」
 音楽の音量に負けぬよう声を案内人は張り上げた。
 店の中でも奥。隅のほうでただ一人、ウィスキーの入ったグラスを額に当てていた青年が、朧な瞳でこちらに視線を送ってきた。
 線の細い美男子といった風体。度が過ぎるような派手なカジュアル服装ではなく、シャツの上から薄茶色のジャケット。腰丈より下は破けたジーパンや、だぼっとしたワークパンツとは違う黒一色のズボン。見た目からして、他の人たちとは違っていた。
 豪快に燃える炎と澄んだ湖畔の水、ほどの差がある。
 ――『ヘブンズゲート』に入ったから、てっきり変貌してたかと思ったけど。全然変わってないじゃない。
 以前会った時と同じような落ちついた様相で周囲に溶け込んでいない。その彼――正人の仕草や表情に何らかの哀愁が感じられる気がした。
「……俺に? いったい誰――」
 億劫そうだった瞳が瞬く間に見開かれた。予想外の事態に唖然とした様子だ。
「おい、知ってんだろ?」
 案内人はその場を離れずに、桜たちと正人を厳しい視線で交互に見てくる。停滞した雰囲気に案内人が苛々と足で床を叩いていた。
「ねぇ、彼女も一緒なんだからさァ。焦らさないでよォ。」
「……!」
 桜の牽制の一言は、効果覿面だったようだ。うな垂れるようにして一度顔を落とした正人は再び持ち上げ、
「ああ、俺が呼んだ子達だ。誘ったのが、ずいぶん前だったから忘れてたんだよ。案内させて済まなかったな。後で、他の奴らにも紹介するよ」
 苦笑いを浮かべながら正人が言う。
「……まあいい。好きにしな」
 納得していないのか、案内人は別れ際に悪態をつく。顔半分を桜たちの方に向けながら、渋々とその場を離れていった。
「とりあえず座れよ」
 正人が顎でテーブルを挟んだ反対側の席に促す。桜たちは素直に従った。
「薫! なぜここに来たんだ。あれほど来るなっていっただろ」
 自分達だけになり、開口一番がそれだった。周りに悟られないように声音を落としているが、あからさまに険が込められている。
「で、でも正人くんが心配で……」
「だからって直接店に来るやつがあるか。下手をしたらお前にまで危害が及ぶかもしれないんだぞ。何考えてるんだいったい」
 正人の悪態と叱咤の連鎖に、薫は何も言い返せず瞳に涙を溜めていた。
 それを見かねた桜は、
「ちょっと、そんな言い方ってないんじゃない」
「部外者は黙っていてくれ」
「なっ――」
 一言で一蹴された桜は一瞬気圧されるが、すぐに反撃を試みる。
「人がわざわざ助けに来てあげたっていうのになによ、その反抗的な態度。心底来てほしくないみたいじゃない」
「みたいじゃなくて、そう言ってるんだ」
「薫ちゃんが心配してるんだよ〜。わたし達に頼んでまで正人君を『ヘブンズゲート』を抜けさせようとしてるのが分からないわけじゃないはずだよ。どうして邪険に扱うの〜?」
 由里の答えが的を射たものだったのか、正人がたじろぐ。
 ここぞという時に由里は的確な答えを口にしてくれる。奥多摩の花火大会のときがいい例だ。
「……俺は認めてほしいだけなんだ」
 彼の口から漏れた言葉は、下手をすれば聴きそびれるような声だった。
「認めてほしい?」
「ガキの頃から臆病者ってレッテルが貼られた人間の気持ちが分かるか? 俺はそんな地位からいち早く脱却したいんだよ」
「それと『ヘブンズゲート』と何が関係あるのよ?」
「いまの学生で『ヘブンズゲート』を知らない人間はいないだろ。そのメンバーに名を連ねているだけでも、周囲から好奇の――それこそ尊敬の視線を寄せてくる。今まで味わったことがないような快感だ。それに次回はドラッグの売買まで頼まれているんだ。成功すれば『ヘブンズゲート』として一人前になる。そうすれば、周囲の視線もぐっと大きくなるんだ。分かるだろ俺の気持ちが」
「分かんないし。分かりたいとも思わないわね」
 桜は力のこもった正人の一言をさらりと受け流した。
 さらにテーブルに身を乗り出すようにして腰を上げると、何を思ったのか正人の胸ぐらを掴み上げた。
「な、なにを!?」
「いい? その耳かっぽじてよ〜く聞きなさい。臆病者だっていうなら、それこそ今すぐ抜けるべきよ! あんたは周囲の人間を見返してやりたい。だから『ヘブンズゲート』に入った。だけどね、それは最初のほうだけよ。周囲に溶け込んでないのがいい例。そんなあんたに大切なドラッグの売買を依頼すると思う? きっとゴミのように利用されてポイよ。本当のところは気づいてるんでしょ?」
 そう言い、桜はさらに胸ぐらを掴んでいた両手に力を入れる。
 正人は抵抗する様子もなく見返していた。
「見返す方法なんていくらでもある。けど、こんな遣り方は駄目よ。きっと後悔する。それに薫だっているのよ。こんな尽くしてくれる女の子、いまどき何処探しても早々見つからないわ。彼女のことを思ったら、こんな集団とすぐにでも縁を切るべきよッ!」
「…………」
 桜の飾りのない説得を受け、正人の視線が泳ぐ。しかし、桜は是が非でもといった体で己の瞳を向け続けていた。
 だがその行為が終焉を迎えるのは、そう遠くは無かった。
「おーおー、いい話だった。泣かせてくれるね〜」
 称えるような拍手のみが店内を木霊す。
 反射的に顔がそちらへと移る。カウンターバーに背をもたれさせながら、ただ一人手を打っていた男がいた。野田と呼ばれていた男だ。
 ――マズっ! 周囲のこと忘れてた!
 と、思うものの後の祭りだ。野田だけではなく、他の人間もこぞって睥睨してくる。退路を塞ぐようにして桜たちを囲んでいた。
「いや〜嬢ちゃん、感動させてもらったよ。けどな、ここでは問題発言のようなもんだぜ? ここは『ヘブンズゲート』。ドラッグをキメこんでなんぼ。ドラッグを売り込んでなんぼだ。俺達の仲間をこの集団から引き抜こうなんて愚の骨頂だって思わないのかい?」
「思わないわね」
 桜はきっぱりと言った。
「あんた達はドラッグを売買することが愚の骨頂だと思わないの? 馬鹿馬鹿しい。あんた達だって努力せずに目立ちたい、お金が欲しいからってジャンキーに成り下がってるんじゃない! 一般人から見たらね、あんた達なんて害虫のようなもんよ! 同じ人間として恥ずかしいわ!」
 部屋の温度が著しく落ちる。
 ジャンキーはすぐにでも飛びかかるような血走った瞳を桜たちに向けていた。しかし、野田がやんわりと手を振り静止させる。
「ほぉ……。言うに事欠いて、俺達の前でデカイ態度取れるとはいい度胸してるじゃねぇか。気の強い女は嫌いじゃないぜ?」
「生憎だけど、あんたのようなむさっ苦しい男は恋愛の対象外よ。あんたは動物園でも行って、メスゴリラに求愛行動するのがお似合いね」
 その一言が琴線に触れたのか、野田のこめかみが引き攣る。
「いいねェ……。ますます気に入ったぜ。ただな、俺も終始穏やかってわけじゃないんだ。女でも容赦なく暴力を振るう事だってあるんだぜ?」
 下卑た達也の嘲笑。相手の居竦むところを楽しもうとする声音だ。
 しかし、気を良くした桜を止めるには幾分物足りなかった。彼女は腰に手を当て胸を反らし、
「驚きね。ゴリラって女の尻を追うことだけしか能がないと思ったけど以外だわ。そんなこともできちゃうんだ」
 容赦のない一撃だったようだ。野田を含め、その周りにいる輩も呆気に取られたように棒立ちしていた。
 桜はその隙を逃さず、毛染めに使った小型のスプレー缶をポケットから取り出す。テーブルの上にあったライター拾い火をつけると、スプレーを火種のライターへと向けノズルを思い切り押した。
 その瞬間、火柱が横に向けて延びる。桜は敢えてそれを頭上に向けた。
 ブザーが店内に鳴り響き、勢いよく頭上から水が降ってきた。スプリンクラーを作動させたのだ。
「三人とも、こっちだ! 裏口から出れる!」
 正人がジャンキーの固まりに体当たりし、退路を確保していた。突然の出来事にジャンキーの彼らも正人の行動が予測できなかったようだ。
 桜たちは正人を追いながらその場を後にした。

     *     *     *

「何がなんでも捕まえて、俺の前に連れてこいッ!」
 怒髪天を貫かれたような、憤怒の形相を浮かべた達也は他のメンバーに激昂し指示を送る。
 スプリンクラーは既に止まっているが、店内は水浸しだ。
 野田はカウンターバーの席に大仰に座ると、タバコを取り出した。しかし、先ほどのスプリンクラーのせいでタバコが完全に湿っていた。
「クソッ! あのアマ!」
 タバコを吸って気を落ち着かせようと考えたが、逆に怒りの度合が膨れ上がっただけだ。タバコのケースを勢いよく水浸しの床に投げつける。
 他のメンバーは、リーダーの矛先を向けられまいと指示通りに淡々と動いている。
「どうかしたのかい。店内が水浸しだけど?」
「あぁ? 俺はいま機嫌が悪いんだ。気安く話しかけるんじゃね――」
 振り向いた野田の視線の先にいるのは、良家の息子という風情がある穏やかな表情と声を持つ青年――刃だった。
「じ、刃さん!? す、すいません。気が立っていたせいで、刃さんだとは露知らず……」
 マフィアの首領から、マフィアの下っ端へ墜落したような野田の豹変振り。背丈から身形まで、明らかに野田のほうに軍配が上がるはずだ。
 しかし、そんなリーダーの不甲斐無さに反発する者は現れない。誰もが知っているのだ。

 眼前にいる刃という男の本性を……。

「それよりも刃さん。一つお伺いしたいんですが……」
 野田がおどおどとした態度で刃に質問する。
「その……どうして和服に変えたんで?」
 刃が着込んでいるのは白の袴だった。この『ヘブンズゲート』に訪れたときと同じ服装。渋谷では浮くからといって自分達から服を拝借していたのだ。
「ん? ああ、これね。ちょっと野暮用があって、これから出かけてくるんだ。その野暮用に、ちょうどこの服装が合ってそうだから」
「はぁ……」
 嬉々とした青年の声に、野田は曖昧に相槌を打っていた。
「そうそう、さっき出入口でカプセルが一個落ちてたのを見かけて拾ってきたんだ。返すよ」
 刃が手の平を差し出す。その上には薬局なら何処にでも置いてるようなカプセル剤が置かれていた。
「わ、わざわざすいません」
 野田は丁重に受け取ると、それをジャケットの内ポケットに仕舞った。
 だがこのカプセル剤――店の同じ名の『ヘブンズゲート』の在庫はごまんとある。補充がいくらでもきくのだ。一つ落ちていたところで別に問題はない。
 普段の彼なら受け取るのを拒否するが、生憎と今の相手は刃だ。無下にはできない。
 カプセル剤が野田に渡ったのを見た刃は微笑み、
「それじゃあ行ってくるよ。君たちも程々にね」
 くるりと踵を返し、ごった返している店内のジャンキーの間をすり抜ける刃。両開きのドアをくぐり、彼は夜気の漂う渋谷の外へ足を踏み出した。




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