――紅霧――



     《2》


 切と刃が接触をしていた同時刻。
 学内にある喫茶店の中は肌寒い冷気はなく、暖かい香りが漂っていた。
 緩やかな温気が流れ、ガラス窓が熱気の収まらない外の催しと店内の弛緩した空間を隔てるように屹立していた。
「あ〜、あの二人どこほっつき歩いてるんだろ。探せども見つからないし。いいかげん疲れちゃった」
 うな垂れるようにテーブルに突っ伏した桜が、カフェオレを啜りながら愚痴った。
 向かい合うように座っていた由里が相槌を打つように頷く。
「陸くんは文化祭の実行委員だから仕方がないよ。けど、切くんは途中ではぐれちゃったもんね〜。探しに行った方がいい気がするけど、どうする?」
「こういった時はね、無駄に歩くと見つからないものなのよ。だから、ここで待機することを強く推します隊長」
「隊長って……。単に歩き疲れただけでしょ〜」
「それも一理あるんだけどねー。好きに見物させるのもいいんじゃないかなっと思って。なんでも渋谷に行った時に知り合いに会えたらしくてね。その知り合いの子もこの大学に通ってるんだって」
「そうなの?」
「うん。古い付き合いの子って言ってた。幼馴染みの男の子らしいよ。凄い偶然よね」
 へぇと頷き由里もカフェオレを啜る。
「でも桜ちゃん気にならないの?」
「なにが?」
 頬をテーブルにくっ付けたまま、桜は由里を見上げた。
「切くんが幼馴染みと一緒にいるのだよ。わたし達に紹介してくれてもいい気がするけど出来ない理由でも……ありそうだよね切くんなら」
 そう言いながら由里はカップを弄ぶ。彼女の言わんとしている事は分かる。
 切を家に居候させて一ヶ月近く経つが、未だに彼の素性が割れていない状況が続いていた。彼の意向もありこちらから質問等は今日までしていないのだ。
 無論、彼が何者で何処から来たなどの好奇心を抱かずにはいらえないのは確かだ。奇異な服装と日本刀。どう考えても普通ではない。
 奥多摩で由里もその現場を垣間見てしまったからこそ思うところがあるのだろう。
「でも、それはしょうがないんじゃない? あたしも父さんも聞きただすような事はしないって言っちゃったし、由里も明彦も賛同してくれたでしょう? 何者で、何処から来て、どうしてあんな所に倒れていたのか……話してくれるのを待ってるしかないと思う。それにね、ただ居候してるってわけじゃないのよ。荷物運びなんかの重労働とか率先して手伝ってくれてるから」
 溜め息を付きながら口にした台詞に、自分自身も気掛かりなのだと気付かされた。顔に出ていないか少しだけ心配になる。
「桜ちゃんがそう言うなら……」
 渋々ながら答える由里。どうやら悟られていないようだ。
「この件に関してはお終い! 深く考えるだけ無駄よ」
「……うん。そうだね」
 互いに微苦笑を顔に湛え、二人はカフェオレを啜る。
 話してくれるのを待つしかない。それは事実だ。
 だからこそ、
 ──切が話してくれるとは思えない。
 最近になって時折垣間見せる苦悩に歪んだ切の顔。問い掛けても「なんでもない」の一辺倒で終わり有耶無耶にされるだけ。私情に挟まないと公言した以上、さらなる質問は困難を極めていた。
 どんな些細な事であろうと、切は決して取り繕ってはくれない。まるで、自分の領域に入ってくるのを拒む素振りのような……。
「桜、由里。……ちょっといい?」
「……かおる?」
 声を掛けられたと同時に、桜の思考はシャットダウンされた。


正人まさと君から連絡が無い? それも三週間近くも?」
 桜が聞き返すと、薫という少女は小さく頷いた。
「うん。連絡しようにも着信拒否になってて。私どうしたらいいか分からなくて……」
 薫のか細い返事に、桜と由里は顔を見合わせた。
 彼女は大学からの知り合いながらも馬が合い、親しい仲といえる人物だ。学内だけではなく、プライベートでも自分と由里と彼女の三人で何度も出かけたことがあった。
「確か薫と正人君って高校の頃から付き合ってるのよね? どうして急に?」
「それが分からないの。彼から最後に『俺に関わるんじゃない』ってメールが着てから、それっきりで」
「それ以後は連絡が無いと?」
「……うん」
 今にも泣き出しそうな顔に、桜は居た堪れない気持ちになる。
「彼……元々、良からぬ人達とつるむ傾向が在ったの。だから、その中で何かあったんじゃないかって思って。前々から止めてって言ってたのに……」
「良からぬ人達?」
 薫がこくりと頷く。
 さらに一段落とした声で小さく呟いた。
「……ドラッグ。彼、ドラッグを密売する集団に入ってるの」
「もしかして、それって……」
 聞いたことがあった。
 最近は猟奇事件ですっかり蚊帳の外だが、警察の猛威を何度も掻い潜るドラッグの売買を行っているジャンキーの集団がいると。東京の学生の身分の間では一度や二度は小耳に挟むほど有名だ。
 名は確か、
「ヘブンズ……ゲート」
 傍観していた由里が恐る恐るといった体で呟いた。
 その通りだと薫が頷く。
「うん。彼、その『ヘブンズゲート』のメンバー。噂で聞いたことあると思うけど、その『ヘブンズゲート』ってドラッグの売買だけじゃなく、暴力的な事件も引き起こしてるでしょう? だから彼も、何かの事件に巻き込まれたんじゃないかと思って……」
「薫は正人君が『ヘブンズゲート』に入ってたのを知っていて、止めようとか改善させようとかしなかったの?」
「何度も言ったわ。でも聞く耳を持たないっていうか……。はやく一人前になって他のメンバーに認めてもらうって口に出すだけで。店に行こうとも考えたけど、なにされるか分からなくて怖くて。私、どうしたらいいか……」
 消え入りそうな苦悩に満ちた答えだった。
「ごめん、ごめんね……。こんなこと他に相談できる人いなくて……」
 俯いた薫の肩が震え、ロングスカートの膝元に落ちる滴が痛ましい。
 悩みに悩んで。悩み抜いて、それで意を決した思いで助けを求めにきたのだろう。
 その計り知れない思いに感情移入せずにはいられなかった。
「薫。その『ヘブンズゲート』の店が何処にあるか分かるのよね?」
「え、ええ。それは分かるけど……」
 桜はすっくと立ち上がり、笑みを作りながら二人を見下ろす。周囲の客が突然の挙動に視線を向けてくるが当の彼女は意に返さない様子だ。
「ま、まさか桜ちゃん」
 由里が自分の意図を悟ったのか、瞳孔を大きく開かせ驚愕している。
 だが、もう遅い。
「これから正人君救出作戦に入ります!」
「エエッ!」
「やっぱり……」
 驚きで口元に手を当てる薫と、当たった予測にうな垂れる由里を見て満足そうに頷く桜。周囲の唖然とした視線をものともせず、さらに言葉を紡ごうとしたが、二人に引っ張られ強引に押し戻された。
「ちょ、なにするのよ」
「桜ちゃんこそ何してるの!? こんな公共の場で話していいことじゃないでしょ!」
 三者共々、お互いに顔を近づけ声を潜めながら会話を続ける。
「何って……。友人が困っているのを見す見す黙ってるなんて、あたしの性分に合わないのよ。救出作戦の結構は今日、今から。なお拒否権は無し。さっそく実行に取り掛かるわよ!」
「早い、早いよ桜ちゃん!」
「さ、桜。助けてくれるのは本当に嬉しいんだけど、幾らなんでも考えなしに動くのは……」
「シャラーップ! 言い訳は無用! それに薫、あんた正人君を助けたいんでしょう? だったら行動は迅速に行うのが常ってもんよ」
「違う。違う気がするよ桜ちゃん。相手はドラッグ──麻薬なんか取り扱ってる集団だよ。危険すぎるよ。ヤクザ絡みの事件も後を絶たないっていうし。言うのは易し行うのは難しって言うじゃない。準備もしないで行くのは……」
 由里の慎重な台詞を前にして、桜はふふん、と得意げに鼻を鳴らした。
「あたしが何の考えもなしに実行すると思う? いい案があるのよ。それを行えば問題無し」
 相手に不吉な予感を思わせるような笑みを湛え、桜は嘯く。
 大仰に言ったのは、それに見合う策があるからだ。
 郷に入っては郷に従え。後は、それを実行するだけでいい。
「大船に乗ったつもりでいなさい。我に秘策あり、ってね」




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