――紅霧――



     《4》


 ──《八将神》──
 それは真神家が統括する八つの家系。
 常に表立ち先陣を切る真神家である本家を補佐・奉仕あるいは自らの命を顧みずに守りぬく分家だ。
 一族の存続のためなら謀略、陰謀、偽計などのあらゆる権謀策術を駆使。障害となるものを武力行使、或いは権力行使の前にひれ伏させる、といった策略に掛けることまで行う、言うなれば裏方の存在。

 《大鳥》
 《神楽》
 《神保》
 《神武》
 《神崎》
 《神海》
 《神瀬》
 《神月》

 と、大鳥の家系以外、姓の前に『神』の一文字が入っている。これはただ一つだけ姓の後ろに『神』を記した真神家との格差を表すための一種の風習とされている。
 真神家の傘下である《八将神》は、表向き上下関係がない。
 だが裏を返すと、内部では己の家系の地位を上げようと直接では無いにしろ、間接的な争いが後を絶たないでいた。辛うじて釣り合いの取れた天秤と差し支えない拮抗状態が続いているのだ。
 しかし、そんな彼らにも一つだけ共通点があった。

 それは分家のほとんどが、真神に仕えている事を忌み嫌い、今回の件の次期頭首である切と刃の暗殺を目論んでいるという事だ。

     *     *     *

「さて……自分達のとった行動について弁明はあるんだろうな?」
 ショートパンツに両手を突っ込みながら、陸が初老に問い掛ける。
 飄々とした態度を崩さないながらも、その声は重みがあり詰問調に近い。
「……弁明などありませぬ。我々のやろうとした行いは、酷く正しい行為だと──」
「誰が切に手を出せといった?」
 射竦めるような陸の双眸に初老は言葉を噤み、顔を伏せた。
「ちなみに、店内の家臣も引かせておいたからな。無駄な足掻きはよせよ」
「本当か?」
「安心しろ。連れの二人には気付かれちゃいねぇ」
 それを聞いて安堵する切。
 取りあえずは一つの関門を突破した気分だ。
「残った問題はお前たちの仕出かした不祥事だが、言い訳らしい言い訳があるんだったら聞いてやらなくも無いぜ? もっとも、あるとは思えねえけど。俺の指示と全く違う事しようとしたんだからな」
「指示?」
「ああ。実はお前と刃が東京に来てると知って、こいつ等に命じてたんだ。『切と刃に手を出そうとする奴を見かけたら即、おれに連絡しろ』ってな。それがこの有様だ。済まなかったな」
「いや、構わない。お前が来てくれなかったら、俺はお前の家臣を殺していたかもしれなかった。礼を言うのは寧ろ俺の方だ」
 切の言葉に、陸は「そうか」と呟き、微笑とも苦笑とも言えない笑みを浮かべた。
「なぜ……その様な人物を庇うのです」
 唐突に──しゃがれ気味の声がその場に浸透した。
 切と陸は同時に声のした方向へと視線を向けた。そこには顔を伏せ、傍から見て取れるほどに肩を震わせる初老の存在が。
「なに言ってんだ、当然だろ。おれの旧友だし、何より真神家の次期当主になるかもしれない人物──」
「だからこそですッ!」
 初老は伏せていた顔を大仰に持ち上げる。
 その顔面に張り付いているのは紛れも無く『怒り』だ。
「我々の家系──大鳥家は元々、真神の傘下には無かった家系。陸さま! 一年以上もこの地にその身を置いたせいで、それすらも忘れてしまったと言うのですか!?」
「なわけあるかよ。ガキの頃から耳にタコが出来るほど聞かされてきたんだからな。……けどよ、おれ達が生まれる前の大昔の事をほじくり返しても、しゃーねぇだろ。それとも何か? そこまで嫌な理由でもあんのか?」
「無論です! 我々は否応無く真神家のために尽力を注いできました。真神家のために多くの同胞を失い、苦痛を味わい、常に辛酸を嘗めてきた。真神の血筋を引いてないにも関わらず、道具のように扱われ続けて……。これ以上の屈辱があろうか!?」
 荒い語気を孕んだ言い草を陸は冷静に受け止めていた。
「お前たちの言いたい事は分かるさ。けどな、それは一重に何百年も前、真神に喧嘩を振ったおれの先祖が悪い。自業自得でしかないんだ」
「それは理解しております……。ですが──」
「話は最後まで聞けって。おれはな、この状況がずっと続くなんて思っちゃいないんだ。だから、お前たちのように焦ってもいない。なぜなら……」
 陸がくるりと首を回し、切に視線を向け直す。彼は切の肩に手を置き、
「こいつが、そんな一族の在り方を根本から変えてくれるはずだから」
 と呟いた。
「……何ゆえの根拠があってですか?」
「確かに切の爺や親父、その前の代は、おれたちの扱いに関して非情な傾向があった。おれ達の家系は、元々が真神じゃないからな。他の八将神の家系と比べると蔑視されていた感があった。だから、お前たちの気持ちも分からなくはない。しかし、だ。こいつは絶対そんな風に扱わないと保障する」
「ですから、何ゆえの根拠があって……」
「まず一つ。こいつはお前たちを本気で殺そうとしたか?」
「それは……」
 初老の口から二の句は続かなかった。
 しかし陸は、そこで会話を断ち切ろうといった様子はない。
 一歩前に出て、さらに咎めるように、
「悪ぃけど途中から見させてもらった。お前たちが人質を口にした当たりからな。大方、人質という単語を使用して作為的に切を煽らせようとしたってところか。誘い込むようにして大見得を切れば、切だって襲い掛かってくる。下っ端とはいえ一族に配する者を殺したとなっちゃー、切も責任を感じずには負えなくなるだろう。こいつの性格からすると最悪、次期当主の権利を放棄しかねない。汚い陽動作戦だ。大鳥の家系に仕える者として、それこそ恥曝しだと思わないのか?」
「…………」
「黙りを決め込んで今度は反論なし、か。それに引く気はないときたもんだ。……なら、おれが相手をしてやるよ。もっとも切と同じく《異端種》のおれとお前達じゃ、まともな勝負になるとは思えないけどな」
 陸はショートパンツのポケットに両手を入れつつ、切を守るようにして立つ。身なりはだらしない一言に尽きるが、双眸から漏れ出す殺気は紛れもなく本物。
 作務衣の者達が陸の本気の瞳である事を認知したのか、ビクッとその身を震わせた。
「その者を守るために我々と一戦を交えるおつもりだと?」
「だぁーから、そう言ってんだろ。てめぇら引く気がないんだからな。身をもって引き際を感じてもらうしかないじゃんかよ」
「そ、そんな。陸さまに手を出すなどもってのほか!」
 陸の挑発的な口ぶりに、初老の後ろで黙り込んでいた比較的若い男が口を挟み、
「そうですよ! 我々の敵は飽くまでその男──真神の末裔だけ。陸さま、目を覚ましてください! あなたは、その男に巧みな言葉で騙されているだけです!」
 隣に並んでいたもう一人の男も拒否の反応を示した。
 それが話の糸口となり、初老の後ろで佇んでいた二人が切を責め立てる言葉を次から次へと吐き出していく。自分達は悪くない。悪いのは真神の末裔だと言い続ける。
 そんな光景を前にして、陸が億劫に髪を掻き毟り、
「いい加減にしやがれッ!」
 屋上に陸の怒声と、彼の足がコンクリートを穿ち抜いた音が重なり、不協和音を奏でた。
「さっきから聞いてりゃー、自分達にとって都合のいい言葉ばかり並べやがって! てめぇらは、おれのダチに向かって何をほざいてやがる! 真神の末裔だから殺す? 巧みな言葉で騙されてるだと? ふざけんな! 陰険なやり口でたぶらかそうとしたくせして、今度は被害妄想に付き合えってか? 馬鹿も休み休みに言いやがれ!!」
 怒髪天を衝いたように凄まじい形相を顔に浮かべた陸は、己の家臣へ近づいて行く。
 切が止めに入ったのも「邪魔すんな」と振り払った。
「おれが短気だって事は知ってるだろ。納得できないってんなら、直接身体に教えてやる」
 一歩一歩、確実に着実に。制裁を加えんと歩を陸は進める。
 しかし、それを止めたのは切ではなく、
「お待ちください」
 初老だった。
「なにを待てばいいって? まさか、ここにきて謝罪する気にでもなったのか?」
「……肯定です」
 初老は陸から視線を外すと切に向き直り、
「切さま。数々の御無礼……お許しくださいませ」
 深々と頭を下げた。
 謝辞を向けられた切は戸惑い、陸に視線を向けた。
 が、当の陸は己の家臣に対し訝しげな目を送っている。
「命乞いにしちゃー、随分と潔いじゃねえか。何を企んでやがる?」
「そんなものはありませぬ。ただ今までの経緯と、陸さまがそこまで熱く語られる御方なのならば、と"賭け"に出てみようと思ったのです」
「賭け?」
「はい。陸さま、御自身が先程、口にしたことを覚えておりますかな?」
「自分で言った台詞だからな。忘れちゃいないぜ」
「"一族の在り方を根本から変えてくれる"。かような台詞を紡げるのは、その方の考えを知っているからこそ、、、、、、、、、、、、、、、、口に出来たと、こちらは解釈してもよろしいですかな?」
 試すような言い回しに陸が舌打ちをするが、不機嫌からではなく、相手の策士ぶりに感嘆しているような様子に見えた。
「刃と切の二人には考えがある。おれはそれに賛同するからこそ、この兄弟に手を下さんとする下郎を懲らしめるときめた。例え家臣であるお前たちでも同じだ」
 その答えに初老は一度嘆息し、
「……いいでしょう。二人とも気絶している者達を運び出せ。撤退だ!」
 配下である二人に命令を下した。身を引くといった言葉に過剰な反応を見せた二人が反発を口にするも、初老の一喝を前に口を塞ぐ。
 昏倒している者を担ぎ上げ、隣接するビルからビルへと陸の家臣が移動を開始。
 そのなか一人だけ初老が居残り真摯な瞳をこちらに向け、
「最後に一つだけ御伺いしたい」
「……なんだ?」
 質問は陸にではなく、自分に向けられたものだと切は気付いたから返事をした。
「陸さまがお止めになった一撃。真っ先に私を狙ったのは、卑劣な言葉に怒りを覚えてか? 或いは何らかの算段があってか?」
 その問い掛けに「算段があってだ」と返答し切はさらに言葉を紡ぐ。
「あなたを真っ先に選んだのは統率者だからだ。群れは統制しているリーダーさえ叩けば、自ずと崩壊する。最小限の被害で抑えられるのなら、それに越した事は無い」
 切の言い分に初老は「そうですか」と答えると踵を返し、
「僅かながらですが信じてみましょう……あなた様を」
 気絶した配下を担ぎ、その場から颯爽と消えた。


「本っ当に済まない、切! 今回の一件、速やかに事態を収拾できなかった、おれのせいだ。殴ろうが、蹴ろうが好きにしてくれ!」
 大鳥の家臣が消えて一刻が過ぎた時には、既に橙色の夕日がその姿を露にしている。
 そんな中、最初に陸が土下座せんとする勢いで謝罪を述べていた。
「構わないと言っただろう」
「お前が納得しても、おれが納得出来ねぇ!」
「……なら、あの件で帳消しというのはどうだ?」
「あの件っていうと"あれ"の事か?」
「そう、"あれ"だ」
 陸が「むむむ……」と唸り、やがて納得にしたように頷き、
「分かった。お前がそれで良いなら構わん」
 二人はどちらからともなく、苦笑を湛えた。
 だが、間もなくして生まれた陸の真摯な顔付きにより、やんわりとした雰囲気は沈下する。
「まあ、この件は片したとして。次期当主の件……聞いたよ」
「…………」
 陸の掛けた言葉に切は無意識に顔を伏せる。
 そんな彼を一瞥した陸は歩み出すと、屋上のフェンスに手を掛け背中を向けた。
 傾く夕日が、哀愁を漂わせる二人を染めていった。
「どうするつもりだ。考えはあるのか?」
「…………」
「お前まで黙りを決め込むなよ。何か言ってくれねえと……おれだって困る」
 静寂に耐えらない物言いの陸に対し、切はゆっくりと口を開く。
「兄は一切、俺の話に聞く耳を持たない」
「あの刃が? なんで?」
「兄が、『禁忌』に触れたという噂が里に広がっている」
「──っ!?」
 フェンスから夕日を覗いていた陸が振り返り、こちらに視線を寄こしてきた。驚愕に見開かれた目が、信じられないと無言で物語っている。
 切は、それを正面から見据え、
「俺だって当初は信じられなかった。だが、兄は変わった。俺たちの知っているあの人は……もう何処にもいない」
「双子の兄弟であるお前が、ちゃんとした真偽も確かめずに決定付けるつもりかよ?」
「俺は奥多摩の一戦で兄に殺されかけた。人殺しを毛嫌いしていたあの人にだぞ、、、、、、、、、、、、、、、、、?」
 首を力なく左右に振り、陸が否定の意を表す。
「そんな馬鹿なことあるかよ……。誰よりも一族の在り方に疑問を持っていたあいつが? 一族の存在意義を根本から変えようって、おれたちに謳ってたんだぞ。刃がいたからこそ、おれ達は人として正しき意思を持つ事が出来たと言ってもいい。きっと、なにかの間違いだ」
 切も左右に首を振って、さらに否定の意を返した。
「本当だ。以前の兄はもう存在しない。今いるのは狂気にひた走る兄だけ。俺は……どうすればいいんだ?」
 切の懇願を陸は、
「…………」
 言葉を紡ぐことができなかった。
 ただ握り締めた拳を震わせた陸の様相から、あらゆる葛藤に苦しんでいるのを切は見取り、内心で思い出す。
 ──義理と人情に厚いのは相変わらずか。
 幼少時代からの長い付き合いだからこそ、彼の考えている事が自ずと分かる。
 彼もまた望んでいないのだ……次期当主を掛けた自分と兄の戦いを。
 そんな苦悩に歪んだ陸を見、
「俺の方こそ無神経な事を口にして済まなかった。連れの二人が待っているはずだ。そろそろ戻る」
「──1つだけ質問いいか!」
 踵を返し、桜たちの元へ戻ろうとした切を、陸が既の所で止める。横合いから差し込む黄昏が陸の身体の左半分を染めていた。
「なんだ?」
「今度、再び刃と剣を交える事になって、もし止められなかったら……お前はあいつを殺せるのか? 或いは──」
 一拍の間が置かれ、
「──殺すのか?」
「…………」
 返答を返せない。
 切は生返事紛いの言葉を一言、二言残し、その場を後にした。

     *     *     *

「遅い!」
 屋上から降りてきて、切の耳朶に触れたのがその第一声だった。
 桜だ。
 両手に大量の紙袋を抱え腕を組みながら佇むその様は、閻魔大王もかくやというほどの凄みがある。
「切く〜ん、随分と長い糞ね。一時間以上も便器の上で気張ってたのかしら?」
「桜……女性がその様な、はしたない言葉を使うのは……」
「シャラ──ップ!!」
 店内に木霊す桜の怒鳴り声。
 客が何事かと一斉にこちらに視線を寄越してくるが、彼女は全く意に介さない様子だ。
「一体、何処ほっつき歩いてたのよッ。心配するでしょ!」
「済まない……」
「出てくるまで、ずっと待ってたのに。おかしいと思って、男子トイレから出てくる人に聞いたら『自分以外、誰もいない』って言われて大慌てで探してたのよ! 由里も別のフロアを探させてるんだから。帰ってきたら誤りなさい」
「済まない……」
「てっきり、いなくなったと思ったわ。居候を拒んでたから。どっか行っちゃうのかもって……」
「済まない……」
「? ちょっと、さっきからずっと同じ台詞じゃない。それに何処となく上の空だし。気のせいか顔、青くない?」
 桜が、伏せていた切の顔を覗き込んできた。
 思わず切は目線を逸らす。
 それでも桜は、ジッと切を直視し、
「切でも……そんな顔するのね」
「え……?」
 桜の口にした言葉の意図が分からず、逸らしていた目線を戻した。
 そこには苦笑のようなものを顔に湛えた桜が。
「気付いてないの? いま悲しい顔してる」
 ──俺が?
「普段、無愛想な一面しか見たことがないから素直に驚いたわ。何かあったの? お姉さんに言ってみなさい。訊いてあげるからさ」
 胸を反らしながら、何でも聞くとばかりに鼻息を荒くし意気込む桜だが、両腕に幾つも重ねた紙袋のせいで逆に滑稽に映った。
 ──彼女なりの気遣いか。
 切は桜の腕から紙袋の半分以上を掻っ攫う。
「切?」
「持つ。力仕事は男の役目だ。由里を見つけて帰ろう」
「その前に話を……」
「もう何ともない。いくぞ」
「ちょ、ちょっと。人を待たせといて、置いてけぼりはないでしょ」
 二人は肩を並べて歩き出す。
 胸中にわだかまりと不安を残しながらも切は前を向き歩く。
 ──このままでは終われない。
 まだ……後戻りは出来るはずだと信じて。

     *     *     *

「なん、なん、だ……。なんなんだ、お前は!」
「言わなければ分からないとでも?」
 神楽の長は眼前に広がる光景に、ただただ愕然とするしかなかった。
「在り得ない……。こんな事が在るはずがない!」
 視覚による衝撃が強すぎるためか思考が追いつかない。叩きつけられた背中は、火で炙られたように痺れている。完全に麻痺して感覚が無くなった。
 夕日を一身に浴びたコンクリートの地面に、無造作に投げ捨てられるようにして転がっているのは、幾つもの肉塊。それこそ乱暴な人形遊びをし終えたマネキンのように、人体の部位がパーツとなって、諸所に散乱していた。
 腹が裂かれ腸の垂れ出ている胴体。奇怪なオブジェと化した腕先。首から下が存在しない、脳漿の浮きでた頭部。自由奔放に飛び散った、心臓、腸、胃などの臓器。指の一本一本が飾り付けのようになって、それらと折り重なっている。
 切り口から吹き出た大量の血が、散水車で撒いたかのように自らを朱で染めている。先刻まで自分の家臣達だった者たち全てが、惨たらしい死体と化していた。
 さらにその奥で佇むのは嗜虐的な笑みを湛え、灼熱のような紅い色を帯びた瞳を双眸に映し出す一人の青年の姿が──刃だ。
「つまらない。本当につまらないよ。まさか、この程度の実力しか持ち合わせていなかったとはね。呆れてものが言えない。こんなに弱いと《秘剣》を披露する暇すらないよ」
 やれやれ、と肩を竦め億劫そうに口を開いた。その憂いを帯びた顔には寂しさがある。
 だがそれは悲しみからではなく、
「神楽の長よ……どうしてくれるんだい? こんな雑魚じゃあ、僕は満たされないんだ。てっきり、彼らの中に《異端種》がいると踏んでいたんだが、《脳の境界》すら外れていないとは。他の家臣と何の大差もない。期待はずれだ」
 言うや、刃は眼下にある血の池の中を歩みながら、こちらに近づいてくる。
 ピチャピチャ、と。
 ピチャピチャ、と。
 ピチャ、ピチャ、ピチャ、ピチャ、ピチャ……血の池に足音が反響し耳朶に響く。
「う…あ……ひっ」
「恐怖のあまり、まともな言葉もでないと? 仮にも神楽の長とも在ろう御方が、自らの弱志を露にしたらだめじゃないですか」
 ピチャ…ピチャ…ピチャ…。
「でも、真っ先にあなたが僕のところへ来てくれてよかった」
 ピチャ…ピチャ…。
「不愉快だったのですよ。あなたの事が……」
 ピチャ…。
「自らが率先して先陣を切ろうとしない小さな意思。私利私欲しか考えない低俗な存在。僕が描く真神の未来に、あなたは不要だ」
 血を踏む音は消えた。
 神楽の長が視線を上げると、そこには血糊の付いた日本刀を携える刃が。
 半月に開いた口元、紅き双眸。悪魔と呼ばずして何と呼ぶか。
「だから……」
 日本刀の柄を握った右手を、左肩越しにゆっくりと持ち上げた。
 そして──
「 無 に 帰 れ 」
 ──それは一気に振り下ろされた。
 次の瞬間、緋色の彼岸花の花弁が散ったかのように、血煙が虚空に舞った。




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