――紅霧――



     《3》


 空気が張り詰めていた。
 これ以上ないほどに空気は凍り硬質化。敵意と殺意が静かに向けられ、夜の暗さよりも濃い、深海のような息苦しさがそこにあった。
 それらを露呈する作務衣の者達に囲まれ、
「その姿で後を付けていたとは……。余程、隠密行動に長けているらしいな」
 と、切は抑揚無く呟いた。
「ふん! 完全に気配を隠していたはずなのだが、一瞬でもそれを呈してしまえば意味を持たぬか。賛辞を送るのも不愉快だが、流石は真神家の末裔」
「…………」
 リーダー格の初老の侮蔑のこもった瞳と罵詈を前に、しかし切は泰然自若としたまま現状の分析を試みていた。
 数は八。
 各々が両足に具足を装着し、斜に構えた姿勢。
 こちらが少しでも動きを見せれば、攻撃を仕掛けてくるだろう、と切は思考する。
 対する切は、護身用に持ってきた刃渡り二十センチほどの洋包丁。
 日本刀を常時持ち歩く事は出来ないと察し、居候先の喫茶店から一つだけくすねた──もとい拝借してきたものだ。
「……引いてくれ。あなた達では俺を相手に勝算はない。俺とて、無駄な争いは起こしたくは無い」
「無駄? 無駄と言ったか小僧!? 」
 切の努めた物言いに、初老は睨んでいた瞳をさらに色濃くし、怒りに孕んでいた。
 まるで触れてはいけない琴線に触れてしまったような過剰な反応だ。
「貴様らのような常に上位にいる者が、下位に位置付けされる者の気持ちなど分かろうか? いや、分かるまい。だからこそ、主に代わり次期当主候補である貴様を裁きにきたのだ」
「それは……《八将神》に仕える者としてか?」
「如何にも!」
 問い掛けに対しての返答は、嘘偽りの感じられないものだった。が、今の質問によって彼らの正体が正確に分かっただけでも、聞くだけの価値は在った。
 真神一族に属し、真神家に仕える八つの分家──《八将神》。
 彼らはその八つの家系のどれかに属する家臣の者達だ。
「それでも、止めておいた方がいい。死に急ぐな。物量にものをいわせても……俺に勝つのは不可能だ」
「言ったはずだ、引かぬと。我らが家系の繁栄のために、この好機を逃すわけにはいかん。死に急ぐな? 結構なこと。我らにとってここは死地! 端から死に戦よ!!」
 自分と兄の刃を殺せば、真神家の跡取りは潰える。
 彼らの狙いはその一点だけだろう。
「……引かないのだな?」
「くどい! 何度も言わすな」
「…………」
 張り詰めた雰囲気は、いつ均衡が破れても可笑しくない。
 故に膠着状態は長くないと察した切は、
「いいだろう」

 足の膂力を目いっぱい使用して跳躍した。

「「「「「────!?」」」」」
 突如としての切の動きに、作務衣の彼らは揃って空を仰ぎ見る。
 跳んだ切の身体は、彼らの頭上を悠々と飛び越えていた。
 余りにも人間離れした躍動感あふれた動き。
 宙で一度回転し体制を整え、彼らの囲い込みから逃れるようにして距離を置き、コンクリートの地面に着地した。
 すかさず腰から洋包丁を取り出す切。
 それを見て動揺の色を浮かべる作務衣の者達。
 直線状に並ぶ彼らに対して、身体を正面に向かせ腰を低く落とした。さらに逆手に持ち構えた洋包丁を顔の前にさらけ出すようにして構え、
「ならば、こちらも誠意をもって相手を進ぜよう……」
「本気か?」
「無論だ。引かないのなら、引かせるまでだ、、、、、、、
 会話による意思疎通が通用しないのなら、一戦を交えての意思疎通で彼らを止めるほかない。
 話し合いが無理なら実力行使。不器用な自分にはそれしか出来ないから……。
 こちらの動作に合わせ、作務衣姿の彼らも身構えた。
 対峙したまま一刻の時が流れ──
「先手は渡そう……来い」
 ──戦いの火蓋は切って落とされた。

     *     *     *

 一方、桜は──
「……長いわね」
 男物の衣服を両手で広げながら何となしに言った。
 切が用を足すといってから十分以上経っている。
 しかし一向に戻ってくる様子は無い。
「腹痛でも起こしたのかしら……?」
 訝しむように唇を尖らせながら、別の衣服を手に取っていた。

     *     *     *

「キエエエエェェェエエエ──ッ!!」
 怪鳥のような掛け声を上げ、巨躯の男が接近してくる。それは若さに任せた猪突猛進の動き。
 間合いに入ってくると同時に、巨躯の男は連続的に蹴り技を繰り出してきた。上段前蹴り、廻し蹴り、膝蹴りと、次々と豪気を孕んだ足技を連続に繰り出してくる。
 が、それらをことごとく左手の掌で受け流すようにして回避。
 透かさず相手の直線状から身体をずらし、切は横合いに移動。右肩の方から突然現れた切に驚愕したのか目を見開く巨躯の男。切は相手の右手首を掴み上げ、下方に捻った。
「──ッ!?」
 驚愕が悲鳴へと変わった。
 切の手が途中で離され、巨体が宙に投げ飛ばされた。一瞬のうちに男の身体が宙に弧を描く。と、巨躯を投げ飛ばした矢先、何処から沸いてきたのか痩躯の作務衣の者が低い姿勢で疾走し接近を試みていた。
 投げ飛ばした巨躯の男との体格差を利用して、こちら側から死角になるよう潜んでいたのだと気付いたのは、間合いが一メートルを切ってからだ。
 隙が生じたとばかりに、袈裟蹴りが奔ってくる。薙ぎ払うようにして繰り出された蹴りによる一閃を、しかし切は紙一重の位置でしゃがみ込むようにして回避。
「遅い」
 生じた隙を見逃さず、切は間髪いれずに相手の懐に潜り込んでいた。そのまま鳩尾の部位に肘鉄を食わせる――と同時に、相手の痩躯がくの字に折れ曲がった。
「が……ッ!」
 痩躯の口から漏れた僅かながらの苦悶。
 それだけを残し、がくりと倒れ込む。
 遠巻きながらその光景を見ていた作務衣の者達が激昂を放ちながら、こちらに向かって急接近を始めていた。
 切が接近する彼らに向かって構え直そうとした矢先。
 後方から気配――否、殺気を感じた切は瞬時に振り向き、疾風のような踵落としが頭上から振り下ろされるのを直視した。
 視界を広げ全貌を現したのは、先手を打って投げ飛ばした巨躯の持ち主だった。
 垂直に落とされる脚は、それこそ切の顔面に直撃すれば、原型を留めているかすら危ういだろう。迫り来る脚は斬首刑さながらの凄みがあった。
 しかし、それを切は左手で受け流すようにして軌道を変える。バランスの崩れる巨躯。すかさず前のめりになった相手の顎に左の掌打をぶつけた。
 白目を剥き、ぐらりとコンクリートの地面に倒れる巨躯。
 だが、それを気にしている暇はない。
 再び百八十度振り返る。
 正面、右斜め、左斜めからと急接近してくる三つの影を切は視界に捉えた。
 先刻、痩躯の者を伸した時に遠巻きから見ていた者達だ。
 三者が一斉に踊りかかってくる。

 正面──正面から一直線に迫り来る刺し蹴り。
 右斜め──遠心力を余すことなく利用した竜巻蹴り。
 左斜め──怒涛の如く一撃、二撃、三撃と繰り出される連続蹴り。

 蹴りの応酬全てが全て、切本人を捉えんと猛悪さながらに攻め立ててきた。が、切はそれらを全て冷静に読み取る。
 迫り来る方向、蹴りの角度、相手の呼吸、瞬きの瞬間。
 それら諸々を完全に見切り──切はコンクリートの地面を、それこそ亀裂さえ生んでしまうほどの膂力で穿つ様に蹴り抜いた。瞬間、切の身体が目にも留まらぬ速度で疾走を開始し、疾風迅雷で駆け抜ける一条の線と化した。
 三人の顔に映ったのは紛れも無く驚愕。
 人外離れと言うには余りにも超人めいた動き。躍動感に溢れると語るのすら物寂しくなるような、瞬間移動にも似た一瞬の出来事だった。
 切は彼らの間を縫うようにして、擦り抜け、駆け抜くと同時に背後に回る。相手に振り向く暇すらも与えず、彼らの首筋に連続して手刀を繰り出した。
「そ……ん、な」
「どうな……って……」
「あり……え……ない」
 彼らの頭が衝撃によって反り返り、呻き声を漏らしつつ崩れ落ちた。
「莫迦、な……!」
 目を見開き、その一部始終を血眼で見ていたリーダー格の初老は言葉を失っていた。
 切はその初老を見返し、
「……言ったはずだ。物量にものをいわせても、傷を負わせる事は不可能だと」
「まだだ……。まだこちらには三人残って──」
「あなた達は《大鳥おおとり》の者だな?」
 相手の言葉を遮るようにした切の質問に対し、初老が鋭敏な反応を見せた。
 それは肯定の意を表す"動揺"だ。
「気付いて……いたのか?」
「いや、気付いたのは一戦を交えてからだ。あなた達の、蹴り技のみで構成された動き。大鳥の《飛神流ひしんりゅう》に精通しているものだ。違うか?」
「……正解だ。真神の」
 初老も切と同様に正面切って佇む。その後方に立ち並ぶ二人の作務衣の者。
 一対三。
 数だけでいえば、こちらが不利だ。
 しかし、
「あなた達も気付いているはずだ。《異端種いたんしゅ》の俺と、そうでないあなた達では戦う以前の問題だと」
「……無論」
 切の口から漏れた──《異端種》という奇怪な言葉を、噛み締めるようにして受け止める初老。伏せた顔からは敗北の色が見え隠れしていた。
 ──これで、引いてくれればいいのだが……。
 本心からそう願う切。
 正直な話、大鳥の者とは因縁を付けたくない。
 『旧友』の家系に属する者をこの手で裁けば……真神と大鳥だけではなく、自分と『旧友』との関係に亀裂が生じると思ったからだ。

「人質を預かっているといったら……どうする?」

 不意に初老の伏せた顔からポツリと呟かれた言葉を、切は「……なに?」と訝しむようにして聞いた。
「人質を預かっているといったらどうするか、と聞いたんだ」
「何を言っ──」
 ──てる? と二の句が続かなかった。
 脳裏に浮かんだのは、今もショッピングに励んでいるだろう二人の少女。
 同時に切の胸の内で鼓動が一つ跳ね上がった。
「まさか、あの二人を……」
「安心せよ、取り押さえてはいない。だが、一人だけ私の配下に後を付けさせている。この意味が分からぬわけではないだろう?」
 形勢逆転と言わんばかりの瞳を向けられて気付いた。
 腹の底から煮え立ち抑えきれず、今にも噴出してしまうかのような激情の感覚を。
 切は砕き割ってしまうほどの勢いで奥歯をギリッ、と噛み締め──
「貴様ら、自分達が何を言っているのか……分かっているのか?」
 ──その瞳が一瞬にして紅色に染まった。
 『生』の象徴の"紅"。
 『死』の象徴である"紅"。
 『血』の象徴でもある"紅"。
 血流が猛り狂うように奔流し、それによって生成される、絶対的な怒りの衝動が自己と他者の境界を遮らせ、目の前にいる彼らを殺せと促してくるようだ。
「貴様らには……『誇り』という言葉は持ち合わせていないのか?」
 敬意を捨てた凄みのある重い声調。
 視線だけで見る者を射殺すような凄絶な深紅の瞳。
 切の眼前に佇む作務衣姿の三人は、想像を絶する殺意を前にして、たじろぐように後退りし始めていた。
 だが、
「勿論……ある。だがそれ以上に、我らには『意地』があるッ! 気付いていないとでも思うか? 先程から貴様は、我々を相手に意識を削ぐ事にだけ徹し、その手で下そうとしないだろう。 なぜ殺しに来ない! 貴様は真神の次期当主。その姓を継ぐ者である以上、我らは何処までも追いかける。かの婦女をこちらの世界に引きずり込みたくないのなら、我らの命を奪う気でこい!!」
 激昂を孕んだ一声に迷いはなかった。
 故に、切は先程の一戦で全く使用していなかった右手にある洋包丁を、逆手から通常の順手に持ち直す。
「大馬鹿者が……ッ」
 腰を落とし、足を前後に開く。そして、左半身を前に出し、右肩を後ろに下げる。
 眼差しと刀の切っ先は真っ直ぐ正面に向けた。
 その様は、まるで"弓道"の射手と酷似している。
 真神の《鬼神流》剣術は通常の日本刀を構える基本の上段、中段、下段、脇構え、八双からなる《五行の構え》に加え、さらに三つの構えを組み合わせた《八行の構え》から成り立っている。
 いま、切が行っているのは《八行の構え》が一つ──《弓構え》だ。
「もう一度だけ言うぞ……。これが最後だと思って耳を傾けろ。引け、今ならまだ間に合う」
 返答次第によっては最悪の形を取らなければいけない、と切は思考した。
 命の恩人である彼女と、その友人を巻き込みたくないからだ。
「断固として拒否する。我が大鳥のためなら、この命、失うのも本望!」
「────ッ!!」
 彼の言葉が起爆剤となり、切はコンクリートの地面を爆発的な勢いで蹴り抜いた。その猛進を前にし、たじろぎつつも守りを固める作務衣の三人。
 だが切に迷いはない。戸惑いもない。意地も外聞すら最早、胸中には無かった。
 十メートル近く離れていた彼我の距離が、一瞬にして無と化す。間合いに入ると同時に、引いていた洋包丁の切っ先を初老の頭部目掛け──ぶち込んだ。
「────」
 初老が防御に徹する時間すら与えない。迎撃というに相応しい、切の高速で繰り出された一撃。

 次の瞬間──空間に閃光が走った。


「…………」
 閃光が消え失せ、眼前に現れたものと直面し、切は我が目を疑った。
「あぶねえ、あぶねえ! おれの登場が後少しでも遅かったら洒落じゃすまなかったぞ」
 切と初老。その間に突如として乱入してきた青年が冷や汗を垂らしつつも、飄々と言った。
 突き出した切の洋包丁は、乱入者の脚の甲──鉄製の具足のような武具を前に、停止を余儀なくされた。
 だがそれ以上に、切にとって在り得ない光景が視界に広がっていた。
なぜ、、……。なぜ、、お前がここにいるんだ、、、、、、、、、、……?」
 驚く切を目前にし、その青年は「はぁ……?」と不振な瞳を向けてくる。
「そりゃあ、当然だろ。俺んとこの家臣がピンチなんだから駆けつけて当然……って、まさかおれが誰か、まだ分からないっていうんじゃないだろうな?」
「どういう……」
りくさま!?」
 切の言葉を消し飛ばすような声が空間に響き、衝撃に満ちた初老の顔が現れた。
 その言葉に反応した彼は、崩すような笑みを湛え、
「ギリギリ間に合って良かったぜ。おれの存在に切が気付かなかったのが、ショックちゃー、ショックだな。まあ久しぶり会ったって事で今回は大目に見てやるよ。状況が状況だしな」
 切は放心状態と化し、眼前にいる"陸"という人物を何度も見直した。
 それこそ信じられないものを見るような目付きで、だ。
「陸……なのか?」
 恐る恐るといった風に切は訊いた。
 それに反応した陸という青年は、
「おいおい……本気でおれだって分からなかったのかよ? つーか、今も疑心暗鬼だろお前? ひでえよ。長い付き合いだっていうのに、この扱い……。おれ、いじけちゃうぞ?」
 呆れた顔と口調に、失望の色が見え隠れしていた。
「…………」
 戸惑いつつも切は彼を見直す。
 古くから付き合いのある人物。社会教育の一貫として東京に滞在し、大鳥家の末裔である『旧友』──自分を襲ってきた作務衣の者達が忠誠を誓う家系の跡継ぎ。
 その者の名を……大鳥陸という。




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