――紅霧――



     《2》


 西日の陽光を一心に浴びるように軒を並べる高層ビルの中で、特に突出して聳え立つビルの屋上。
 そこに手すりを乗り越えビルの縁に腰を下ろした人物がいた。
 半袖のポロに和風のボーダー柄を張り込んでいるカジュアルパンツという様相。左手に日本刀を納めた鞘袋を握った人物は──刃だ。
 ぶらり、ぶらりと、縁に座りながら足を虚空に投げ出す刃。
 何かを待ち望んでいるような落ち着きの無い素振りを見せながら、その瞳は静かに遥か先にある大型百貨店の屋上へと向けられていた。
 ジッと目を凝らした刃は、その百貨店の屋上に視線を注ぎ、
「ハハッ」
 その瞬間、刃の口から漏れたのは嬉々とした声だった。
 百貨店の屋上に佇む人影は九人。うち八人は似通った衣服に包まれ、同じく似通った様相を感じさせた。
 が、刃にとって彼らは眼中に無い存在。傍から興味の対象外だ。
 刃の視線が行き着いたのは、その中心。
 彼らに取り囲まれるようにして泰然と佇む一人の青年。その彼を見――刃の胸が一つ高鳴りを上げた。

 瞬間、刃の口元に浮かんだのは半月のような笑み。

 それは地獄の悪魔と契約をしようとする直前の、見るものを奮い立たせるような凄絶な笑みだ。
 胸の内で燻り次第に張大していく昂揚感。
 波立ち、荒れ狂い、昂り、轟き、躍り上がり、早鐘を打つ鼓動を抑えようとせず、むしろ慈しむようにその動悸を受け止め、うっとりと陶酔に浸ったような一面を見せた。
 まるで甘いものを口に運び、至福の境地に辿り着ついた女子の放蕩しきったような顔付き。
「待っていたよ、切」
 視線の先。ただ一人だけ服装も様相も違う彼は、刃の双子の弟――切だ。
「見た感じ怪我は完治しているようだ。とりあえず安心、ってところかな」
 奥多摩での一戦から六日。こうやって再び彼の姿を見て、素直に嬉しいと思い、安堵を感じている自分が存在する事に気付き、恍惚に刃は笑む。
 それは現当主から下された次期当主を掛けた戦いを偽り無く楽しんでいる裏返し。
 即急に事を済ませてしまえば、後に残るのは虚しさだけだ。だからこそ、切との一楽の戦闘を長引かせている。
 敗北など感じていない。
 絶対に、確実に、完璧に、己が勝つという自負があるから。
 力は、その力を振るってこそ真の価値があると自分なりの哲学がある。
 生半可な力量を持った人間と一戦交えても、ものの数秒で決着づいてしまうのが容易に想像できてしまう。それでは満足できないまま、気持ちが萎えてしまうだけだ。
 だからこそ切を生かしている。
 古豪とも好敵手とも捉えられる、己の力の全てを解放できる唯一無二の相手を……。
「やはり僕達に使者が派遣されていたか。まあ、半ば予想していた事だけど。切を相手に何処までやるか、高みの見物といきたいところだが……そう簡単にはいかないようだね」
 言い終えると刃は気だるそうに首を回し、
「御理解いただけ、幸いですな」
 手すりを超えた先の、コンクリートの床に佇む人物を億劫そうに眺めた。
 人声は一つだったが、そこに立ち並ぶ人数は一人ではなく多数。
 眼前で列を連ねる彼らは同じ得物を両手で携えながら構えていた。
 反りのある刀身に長い柄を取り付けた武具──薙刀と呼ばれる代物だ。
 だが凶器を携えているにも拘わらず殺気がない。見据えるだけで留まった淡白とした表情。
 突如として現れた怪漢の群れを前に、しかし刃は泰然として驚く素振りを見せなかった。それどころか、縁からゆっくりと立ち上がると、手すりを肘掛けにするようにしてもたれかかり、傍観者さながらの視線をなげた。
 先程あちら側の屋上で見たような作務衣の者達が並んでいた。
 数は十三。
 適度に両足を広げ足固めをし、何時でも襲いかかれるように臨時体制は万全、といったところか。
 ──僕を前にして動揺らしい動揺なし、か。……気に食わないね。
 刃は左手にある日本刀を鞘袋越しに意識する。
 が、それは波が割れるようにして左右に粛然と移動する彼らを前に霧散された。
 突然、目の前で左右に展開した作務衣姿の彼らは、膝を曲げ、腰を下り、恭しく首を垂れたのだ。
 しかし、その行為は決して刃に向けられたわけではない。作務衣を纏った彼らが作り出した道を、威風堂々とした態度と姿で歩み寄ってくる初老に対して行われたもの。
 ぴっちりと撫で付けられた若干白髪の入った髪頭。鉤のように鋭く尖った鷲鼻。長身痩躯を浅紫の和服で身を包み込んだその三十代半ばの気丈夫な男性を見て、
「これはこれは。まさか、神楽の長が自ら赴いてくれるとは。身に余る光栄ですよ」
 刃は肩を竦ませながら言い、
「そう言っていただくと、京都から赴いた甲斐があるというものです」
 その気丈夫な男が恭しく返答した。
 刃の目先に佇む彼は、真神家に仕える《八将神》の一翼──神楽の長だ。
「あなた方の帰郷が遅延していたため憂いでいたのですよ。何ゆえ、このような猥雑とした場に長く停滞しておられるのですか? 里では騒ぎへと発展しかねて、《八将神》の間では俄か喧騒が広がる一方。当主さまも気が気でない様子で、御二方どちらかの帰省をお待ちしております」
「連絡もしてないから不安がられても仕方がないかな……。けど心配は無用ですよ。いずれ切とは、きちんと決着をつけますから。ただしばらく泳がせておこうかと思いまして。東京に来る機会なんて滅多に無いですし、僕も観光に浸りたい気分なんでね」
 言い放った刃は、ビルの屋上から俯瞰するように東京の街並みを見下ろした。
 渋谷駅を玄関とし、湧き出て来るは蜘蛛の子を散らすようにして無作為に闊歩していく群衆。
 有名百貨店、ファッション専門店、飲食店に遊戯施設といった大小様々な店舗の数々。センター街、道玄坂通りなどの定番スポット。
 国内外を問わず最先端の流行を取り入れ続ける東京の中心区。
 京都のように弛緩した趣など微塵もない、常に生き生きとした生気に満ち溢れた風景。
 同じく著名な新宿も活気に満ちているのかな? と想像し、今度行ってみようと期待を膨らませる。
 視線を先程から静まっている神武の御一行に向け直し、微苦笑をその顔に湛え、
「という訳で、京都に戻って祖父に伝えておいてくれませんか? 『帰郷するのは、一、二ヶ月ほど先です』、と。あなた自らが申してくれるとありがたいのですが」
「……そうはいきません」
 刃の言伝は、神楽の長の一言の下に取り消された。
 が、それが早期の帰省を求めるものではないと不承不承ながら理解していたため、刃は溜め息を一つ吐く。
「それは本来の目的が、僕の暗殺だからですか、、、、、、、、、、?」
 刃の皮肉の混じった台詞に、神楽の長は嗜虐的な笑みを顔に刻み、
「さすが刃様。頭の切れる御方だ」
 彼は軽く合わせた指を弾くようにしてパチンッと鳴らした。
 瞬間──先刻、神楽の長の後方で首を垂れていた作務衣姿の者達が、躍動するように動き出す。
 長の初老を庇護するようにして二人の間に衝立のように屹立し、各々が得物を携え直すと、刃に向けて一斉に身構えた。
「これも全て神楽家の未来のためだと思ってくださいませ。真神に仕えている以上、我が家系の発展は無い。そのためにもあなた様の御命を被らなければいけないのです。御許を」
「…………」
 不躾紛いの宣告にしかし、刃は異論を唱えようとせず顔を伏せてしまった。
 隙が生じたとばかりに透かさず、それでいて注意深く探り足のような緩慢とした動きで、じりじりと刃との間合いを詰めていく神楽の家臣達。
 そのまま僅かの時が刻まれ──ふいに刃の肩が小刻みに震え始めた。
「……ふ……は……」
 そのとき刃の口から漏れたのは、微かな言語。
 神楽の長は眉間に皺を寄せ、不審者を見るような目つきで刃を見やり、彼の家臣も間合いを詰める動作を停止させていた。
「はは……くふ……あはっ」
 それでも刃の口から漏れ出す言葉は──
「ふはは……くくっ、ふふ……かはははっ」
 まるで抑え切れないように次第に大きくなり──
「くははっ……ふふふ……くっかか……ははははッ」
 零れ、溢れ、最終的には、

「面白い! 面白いよ、キミたち!! アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」

 感極まるといった笑みと化した。
 まるで聴者を縮み上がらせ絶望へと追いやるような刃の凄絶とした哄笑。
 その挙動不審めいた突然の哄笑に神楽の長と、彼に仕えた家臣は思わず後退りし始めていた。
「ハハハハハハッ! 何を、言い出す、かと思えば。アハハハハッ! 可笑しすぎて、笑いが止まらないよっ」
 批難の瞳を向けつつ後退していく彼らを前にしても、止むことのない刃の笑声。
 それは余りの可笑しさに堪らず大笑いし、腹を抱える身振りさえ露にするほどだった。
「ぷ、ははは! 殺す? 誰が? 誰を? もしかして僕を? この僕を本気で殺そうっていうのかい!? 冗談はその顔だけにしてくれ。くくっ……」
 それ事態が不可能だと言わんばかりに笑い飛ばしていた刃は、ゆっくりと深呼吸をして呼吸を整え始めた。
 涙腺の緩んだ目元を彼は指で拭い──同時に軽く跳ねるようにして、刃の身体が宙を舞った。
 そのまま境界のようにして一線を敷いていた手すりの上に、彼の両足が載る。
 攻撃を仕掛けるとでも思ったのか、神楽の長を守るようにして得物を刃に向ける作務衣姿の家臣たち。
「いいだろう。このまま黙って帰ってくれないのなら致し方がない。それに切に約束してしまったんだ、細工をしておくってね、、、、、、、、、、。僕がここにいる旨を伝えるためにもメッセージを残しておかないと。だから……」
 足場の悪い手すりに悠然と佇みながら刃はそう述べると、左手を起用に動かし、鞘袋から日本刀の柄を曝け出すと鯉口を切る。
 西日を背景に手すりに立つ刃は、神楽の者達を睥睨するように見下ろし宣告返しした。

「……精々、足掻いてくれ。僕が……《秘剣》を披露させんとする程度には、ね」




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