――紅霧――




     第2章 八将神



     《1》


 ……契約を交わせし血筋の者よ……



 ……我が言葉に耳を傾け……



 ……我が声を聴け……



 ……我が問い掛け在りし時……





 ……汝、その意を表せ……

     *     *     *

 青い空、輝く太陽、千変万化する人ごみの闊歩。
 九月下旬。残暑の残った日曜日の昼下がりは暑かった。
 照りつける陽光の下――カジュアルシャツにジーパンというラフな格好をした切は、手の甲で額の汗を拭う。
「…………」
 言葉少ない――というよりも、切は眼前にある光景を見詰めたまま呆然の体だ。
 もし今現在の彼の心情を単純かつ明快に言葉にするとしたら、これだろう。
「……ひと」
 である。
 彼がいるのは渋谷駅の前にあるロータリー。
 そして目の前に広がるのは、人、人、人、人、人の群れ。そう喩えられるほどの群衆が、各々目指す場所に向かって闊歩しているのだ。
 前を見ても人。右を見ても人。左を見ても人。後ろを見れば……もちろん人。
 つまりは、どうしようもないほどに、彼の視界に人が溢れ返っていた。
 携帯で通話をしながら、周りを歯牙にもかけず歩き去る、サラリーマン風の男。鞄に付けたアクセサリーをジャラジャラと揺らす、化粧の濃い女子高生。果ては二メートル近い身の丈を持つ黒人が、綽然とした態度で堂々と歩いている。
 ……居心地が悪い。
 切は実家の京都でも人里離れた奥地に住んでいるためか、これだけ多くの人間が集う場所に来る機会は、殆ど無かった。
 その上、人見知りが激しく、外部の人間との交渉を極力控える傾向すらある。
 寛大な感情を持ち合わせていない彼は、ここに到着し間も無くして、息苦しさを感じ始めていた。
「他の二人は……」
 はたと思い出したように切は首を巡らせ始める。
 渋谷に赴いたのには無論理由があった。なければ、こんな猥雑とした場所に着くやいなや、嫌悪感を抱き率直に帰路へと戻っていただろう。
 しかし今の彼にはそれが出来なかった……。


 東京に身を置いて六日が経った。
 真神の次期当主を掛けた戦いの後、負傷した切は桜という女性に助けられ、そのまま彼女の実家に居候の身となっていた。

 次期当主を決める死闘の任。

 現況を分析する必要も無く、全ての原因がそこにある。
 兄である刃と、生死を掛けた戦い。逆らう事も、抗う事も、ましてや揉み消す事も出来ない、己か兄に訪れる血族の人間ゆえの末路。
 東京に滞在している理由は、同じく東京に訪れているはずの刃を探し決着をつけるためだ。
 だが、ここで問題が生じた。それは他ならぬ他者への被害だ。
 全てが終わるまで東京に滞在するとはいえ、このまま一箇所に留まれば桜やその周りに被害が及んでしまう危惧の念を抱かないはずがなかった。
 恩人としてそれだけは避けねばならない。
 故に、彼女の家に留まる気など毛頭なかったのだ。幼い頃から付き合いのある『旧友』が社会教育の一貫として、この東京に滞在しているため、当初はその人物を当てにするつもりだった。
 しかし……
 『行く当てがないんでしょう? なら、しばらく泊まっていきなさい』
 ……という、軽はずみな立案を企てた彼女――桜によって、切は半ば強制的に居候の身となった。
 無論、一度は断りをいれたのだが『怪我人のくせして、何処に行くつもりよ?』と、さらっと一蹴された。彼女の目が光っている間、逃げ出すのが困難だと察した切は、渋々ながら了承する事にしたのだ。
 ──そして今に至っている。


 切の瞳がロータリーの中心。噴水前に設けられたベンチに、腰を下ろしている二人の少女を捉えた。
 一人は桜。もう一人の少女は、その桜の友人である由里だ。
 両者共々、切と似通ったようにラフな格好の装いだ。
 穴あきジーンズに、キャミソールの上からカジュアルシャツを重ね着した桜。大きな緑葉柄のワンピースに身を包んでいる由里。
 もう一人、明彦という青年も同行する予定だったのが、文化祭という行事が追い込みに差し掛かったらしく、不参加という形になった。
 彼を抜いた桜と由里の両者が、これから向かう場所を検討しているようだ。
 和気藹々な様子で、雑誌と睨めっこしている姿が瞳に映った。
 今回、渋谷に赴いた用件は切の日用品の購入。今朝、桜が必要最低限の物は取り揃えないというので足を運んできた。
 ――それにしても……。
 切は何かに気づいたかのように、晴天の空を見上げた。太陽光を一身に浴び周囲の雑音を遮るように、そのまま沈思し始める。
 ――あれは一体。
 鮮明に残された夢の跡。
 今朝の朝食時も、ぼんやりとしていた所を桜に咎められた程、黙考し続けた記憶の名残。漠然と言葉には出来ないが、何かが引っかかっていたのだ。
 ――契約を交わせし血筋の者よ……。
 切は心の中で、夢で告げられた言葉を反芻し始めた。

 ――我が言葉に耳を傾け……。
 ――我が声を聞け……。
 ――我が問い掛け在りし時……。
 ――汝、その意を表せ……。

 全ての言葉を思い起こし、理解不能だと自嘲する。
 何故なら夢とは所詮、幻覚――"まやかし"でしかないからだ。
 そうである以上、夢は五臓の患いだと思うのが妥当だろう。度重なる疲労が蓄積していたのかもしれない。
 もっと身体を労わるべきだな、と思案した切の耳に、
「切〜。ぼさっとしてないで行くわよー」
 突如としてトーンの高い声が飛んできた。
 そちら側に視線を向けると、桜が手を大きく振りながら自分を呼んでいた。
 どうやら、行き先が決まったようだ。
 切は考えていた事を振り払うようにして、桜たちの下へと向かった。
 所々から向けられた、自分を睨めつける、、、、、視線を同時に払拭するようにして……

     *     *     *

 既に昼食は取っていたため、女性陣の先導によりショッピングセンターを片っ端から模索する事に決定した。
「あ、これ良いかも」
「ねぇねぇ、これ見て見て。いつの間にか出てたよ、桜ちゃんが欲しがってた新作〜」
「でかした由里。それ二つ、抑えといて」
「ラジャー」
 店内に入るや桜と由里の二人が、服やアクセサリーの数々を手にとっては、良いかどうか見定めていった。
 納得の出来ない代物がでてきても落胆する事なく、次から次へと売物を手に取り、試着等々をしていく。
 切は何をするでもなく、ただその光景を片隅で呆然と眺めているだけだった。
 彼らが最終的に行き着いた場所は、大型百貨店のフロアの一角。
 カジュアル服などを多種多様に取り扱っている階なのだが、彼女たち――桜と由里は、自分達が着衣するものを物色している様にしか見えない。
「…………」
 今日は自分の使用する日用品の買出しではなかったのだろうか? と考えてしまう切だが、口には決して出さない。
 そして切は桜を見て思う。ここにきて桜という少女の事が浅からず分かってきた、と。
 怪我を負った自分に対して、親身になって献身してくれたのが、その根拠として明示できる。
 率直かつ単純に答えるなら、彼女は他人への思いやりが人一倍に強いのだ。
 赤の他人でも見て見ぬ振りが出来ず、初対面にも関わらず対等に接する事ができる大きな包容力の持ち主。
 思いやりと明るさを忘れない明朗闊達な女性――それが桜だ。
 年は一つしか違わないのに、思わず尊敬の念を抱いてしまう人物だと、切は感慨に浸る。
 ――俺とは正反対だな。
 それに比べて、自分はなんと心の狭い人間だろうか。
 他者と関わるのを拒む意思。変わる事を知らないような無愛想で無表情の鉄面。加えて、今は様々な葛藤に悩まされ、苛まれ、決断に苦しんでいる己の存在。
 切は思考する。このままでは自分と変貌する以前の兄が思い描いた、『一抹の願い』は夢物語で終わってしまうのではないかと。
「ちょっといい? 動かないでよ」
 物思いに耽る切の胸に宛がわれる物と、聞きなれたと言っていい声が同時にあった。
 胸元に宛がわれた物はチェックのシャツ。声の主は桜だ。
 そのシャツを掲げ「う〜ん」と桜が唸った。服のサイズ、雰囲気、などなどを吟味しているかのようだ。
「もう動いても……」
「うーん、イマイチ。これは却下ね。まってて、次の持ってくるから」
「服なんてどれでも構わない。そんなに重要な事なのか?」
「……本気で言ってるの?」
「本意だ」
 キッパリと己の意思を表に出す切を見て、桜が訝しい視線を向けてくる。
「ん〜、あたし達の年頃なら、ファッションに気をつかうのは当然なんだけど。それに家に男物の衣服なんて、父さんの物しか無いから、ここで切の普段着とか買っておかなきゃいけないし。切、こういう時は文句垂れないで黙って言うこと聞きなさい」
 命令口調な物言いに、切は二の句を継げる間すら与えられなかった。
 踵を返す桜を見、
(多少、頑固ではあるな)
「なんか言った?」
 ぽつりと呟いた一言を聞き取ったのか、桜が向き直りきょとんとした瞳で見てきた。
 当の切は「何でもない。ただの空言だ」と言い、丁重に場を取り繕う。
「そう、ならいいわ」
 桜はあっけらかんとした態度で返事をし、再び売り場へと戻っていた。
 ――地獄耳だ。
 と、桜に対し思う切。
 が、またもや耳に入ると、そのとき起こった状況を収拾させるのは困難だと本能が察し、口にださないことにした。
 口は禍のもと、とはよく言ったものだ。
 そう黙考している切に目もくれず、桜は再度、彼の服を選び始めていた。売り場にある洋服棚から、男性物の衣服を次々と手にとっていく。
 ふと切が、あれやこれやと売り場で服を選ぶ桜に近づき、
「桜。服を選んでいる最中ですまないが……用を足してくる」
 と切り出した。
「ん? トイレ? いいよ。服はあたしが選んでおいてあげるから行って来なさい」
「ああ、分かった」
 桜の指差す場所を見て、切は頷くと颯爽と歩き出す。
 この時、桜は服を選ぶのに夢中になり、切の動向を目に掛けていなかった。
 だからこそ彼女は知らない。切が階段を昇り始めたことに。

     *     *     *

 夕刻を過ぎたにも関わらず、まるで黄昏を知らぬかのように、真夏特有の西日が輝きを放っている。が、六時を超過した太陽は、あと三十分も経てばその身の半分以上を地平線の下へ沈ませ、淡い朱色を生み出すはずだ。
 大型百貨店の屋上に出た切は、ゆっくりとした歩調でコンクリートの足場を歩き始める。西日によって、東に向けて細長い影がくっきりと露になっていた。
 今の切からは、外の空気を吸いたいといった様子も無く。しかし、一人になりたかったという願望があるようにも見えない。
 これといった目的を持たずに、自然と屋上へと足を運んだ節が、今の彼にはあった。
 周囲を金網で取り囲まれた殺風景な屋上。大よそ立ち入り禁止区域であるにも関わらず、切はこの場へと足を運んだ節があった。
 一歩、二歩、三歩、四歩と歩数を重ねていき――切はちょうど屋上の中心地で歩を止める。
 そして周囲をざっと一瞥した切は通る声で、
「出て来い。ここなら邪魔はされない」
 と呟いた。瞬間──

 突如としてコンクリートの床に『黒点』が幾つも浮かんだ。

 『黒点』は切を囲むようにして、明確な幾つもの『影』と化し。それらは次第に大きくなり……同じ数の『人間』となる。『人間』は空から颯爽と舞い降り『影』の上へと着地した。
 そいつらは、まるで鳥類のように優雅に。
 そいつらは、まるで雑技団のように華麗に。
 そいつらは、まるで野生の獣のように俊敏に。
 衝撃を緩和するような、軽々とした体捌きでの着地。
 気付いたときには、自分を取り囲むようにして四方八方に分散していた。
 数は八つ。
 その全てが作務衣のような、動作の妨げにならないような差し障りのない物を着衣した老若の集団。
 下は切と差して変わらない年に見え、上は四十代を越えた中老までいる。
 作務衣姿の彼らの視線は自然と切へと向かれ、反対に切の視線も自然と彼らに向かった。
 見つめるなどという甚だしいものではない。切と、作務衣姿の彼らの相反する立場は、相容れることの無い殺気すら漂わせるほどの静かな睨みあい。
「あなた達は……」
「真神、切だな?」
 掛けようとした言葉を中断させられ、捲くし立てるように口を開いたのは、若干白髪の入り混じった威圧感のある長躯の初老だ。濁りを感じさせる彼の声調が何処となく威風を漂わせ、その存在感に加味されている。
 その初老の男性は切の眼前に佇んだまま、

「御身の御命……頂戴いたす!」

 切に向けて死の宣告を下した。




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