《3》
切の意識は、カーテンの隙間から入ってくる強烈な日差しによって覚醒。混濁していた意識がはっきりしたのを確かめると、周囲に視線をやる。 「ここは……」 まず初めに、視界に収まったものは木の天井板だった。それを認識して、初めて自分の身体が横になっていることに気付く。 就寝の体勢、とでも言うべきか。身体に掛けてある掛け布団が、殊更にそれを決定付けていた。 だが、このままの体勢では埒が明かないと察知し、切は身体の上半身をゆっくりと起こした。 「……どこだ?」 眼に入った光景を見、知らない場所だと理解する。 部屋の広さは六畳ほどで、床は実家と同じ畳張りだった。 そこに納められている物は、洋服ダンス、本棚など。他には、襖で閉じられた納戸。壁に掛けられた日付ポスター。テレビやラジカセなどが点在していた。 広いとは言えないものの、取り分け窮屈とは感じない。 ふと、所々に移す切の視線が、一箇所で止まった。 視線の行き先は小さなテーブルの上。救急箱と、その中身であろうか、医療用の薬や包帯などが乱雑に置かれている場所に無意識的に向かれていたのだ。 「そうか……助けられたのか」 それらを見て、切は納得したとばかりに嘆息する。吐息を漏らし、緩んだ意識化の中で浮かんできたのは兄である刃との殺し合い。思い出すのが遅いな、と彼は自嘲した。 見つめる先をカーテンの方向に、まるで天を仰ぐように向き直る。 その隙間から差し込んでくる夏の陽光を視認し、生きている実感が今にして沸いてきた。
殺せるはずだったのに、殺さなかった。 殺されるはずだったのに、殺されなかった。
二つの真理は、しかし切に少なからず強烈な衝撃を与えていた。 それだけに止まらず―― 『うん、わざわざ故郷を離れてこっちまで来たんだ。東京の観光もしてみたいから、今は生かしてあげるよ切。君にとってもいい妙案だと思うだろ?』 と、全くと言っていいほど思いがけない刃の言葉を切は思い出す。 次期当主の権利を目の前にして自ら身を引き、さらに東京に赴くといった自由奔放な行為。 それこそ幼い子供が、手にした玩具に飽きを感じ、新しい玩具に興味を抱くと同じ値だ。 だが、切は薄々ながら悟っていた。 それこそが一変してしまった今現在の、刃の性なのだと。 自分の思考力では、もう到底計り知れない兄の本質だということを……。 その時の事を鮮明に思い出し、切は意識的に血が滲み出そうなほど拳を握り締め、ギリッと歯を食い縛った。彼の胸中に沸いているのは『憤怒』という二文字。 しかし刃に対するものではなく、自分自身に対しての怒りだ。 自分は生きているのではない――生かされたのだ。 「くっ……」 呻き声は、それこそ己の存在を叱責するようなものだった。 視線はカーテンの隙間に向けたまま、何気なく傷口に手を当てる。袴は脱がされ、変わりに白のTシャツが着せ替えられていた。 「兄は、本気だった」 自身に対する憤怒だが、しかし体中を荒れ狂い腸を捻じ切っていくような感覚の後、静かに沈殿していくのが分かった。 変わりに沸いてきたのは、底なしの井戸に落とされたような失望感。加えて圧し掛かるような絶望感が、駄目押しとばかりに全てを呑み込もうとする。 兄に斬られたという現実。 兄に殺されそうになった事実。 兄と再戦する事になるだろう真実。 逃げることも、脱することもできない。兄弟同士で殺し合うことを決定付けられ、足掻くことのできない運命の下に切はいる。 ……俺は兄を殺すことができるのだろうか? カーテンの隙間から差し込む日差しは、そんな苦渋に歪んだ切の顔を照りつける。 その時だった――
「あっつ〜い。9月だっていうのに、何なのよこの暑さ……。洒落になってないわホントに」
――もそり、と。 掛け布団の上で何かが動き、続けざまに人の声を切は捉えた。 なぜ今まで気づかなかったのだろうか。 掛け布団の上。眼下、切の足元で何やらモゾモゾと動く人影があるのだ。 その思いもよらない出来事に、切は眼を剥き、死後硬直のように固まってしまう。 が、目の前の人影は寝起きのせいか、切の存在に気付いた様子はなく、おぼつかない足取りでカーテンの方へと移動を開始していた。 「う〜、そういえば明彦と由里が今日来るんだった。軽く身支度しておかなきゃ。あぁ……それにしても夏休みも、もう終わりか〜。虚しいわ、悲しいわ、寂しいわ……今年の夏は散々よ。ほんと夏休みカムバーック! ってな感じね」 暗影の気怠そうな独り言はそこで終止を打ち。
シャーッ! という軽快な音と共にカーテンが勢いよく開かれた。
燦々と太陽の光が降り注ぐ六畳の一室。 「「…………」」 切と、向かい合う少女は、互いの存在を視認した後、時が止まったかのように静止。 その体勢のまま、両者は驚きという感情を露にしていた。 年の頃は、切と変わりはないようだ。寝間着変わりか、無地のシャツにスパッツという身なり。腰近くまで落ちた長い黒髪は、寝癖のせいで所々外側に飛び跳ねている。 などと、切は思いのほか冷静に捉えていた。 「あ〜、え〜、その〜。……おはよう」 たっぷり二十秒近くの間を置いて、静寂を破るように挨拶してきたのは相手側だった。 そこで、しどろもどろとしたその態度に切は違和感を感じた。 何となしに視野を重点的に顔面に移すと、彼女の頬が桃色に染まっている事を感知し、 「……何を赤くなっている?」 「──ッ!?」 切の何の変哲もない指摘に、しかし彼女はそれ以上のリアクションを起こした。 桃色の頬は、トマトのように紅潮。加えて、ズザザッ、とそれこそ音を立てるかのような勢いで窓ガラスに背中をへばり付くと、切を相手に身構えるような体勢をとり始めた。 「べ、べ、べ、別に何でもないわよ! 起きてたの知らなくって、それで驚いただけで……。本当っ、本当っ! あ、アハハハハッ!」 顔をさらに蒸気させ、傍から見ても無理矢理に近い、空笑いを浮かべる少女を見、切は小首を傾げた。 しかし、この人物を直視し続け切はあることに気が付いた。 奥多摩で彼女に出会った事柄を―― 「思い出した……あの時の」 「あ〜……うん。思い出した?」 話題が逸れた事に安堵しているのか、緊迫じみた表情を緩ませ少女は微笑む。 同時に、先程まで空間の張り詰めた空気が弛緩していった。 「俺は、どれくらい眠っていた?」 「えっと……。あの奥多摩の夜から数えると、二日と半日ってとこね、確か」 「ここは、何処だ?」 「ここ? ほら、病院が駄目だっていったでしょう? だから、あたしの実家に連れてきたの。今いる所は、八王子よ。って、八王子が何処だか分かる?」 「ああ、大丈夫だ。……分かる」 八王子と聞いて、思わずうな垂れる切。
――"東京"……俺も来てしまったんだな。
所在を聞いて、切は物憂げな気分になった。 結局は兄の手の内で踊らされているのかと、内心で自分自身を嘲る。 生きている以上……兄との再戦は免れないのだ、と。 「……もしかして傷口が痛む?」 切は落としていた顔を上げた。 「応急処置してくれた知人の知り合いがさ、『傷口はそれほど深くはないから、しばらく安静にしていれば治る』って言ってたの。けどさ、あたしにはあれだけ血がドバーッて出たから、今も気が気じゃないんだけど……本当に大丈夫?」 そこには彼の安否を気遣う表情を映した、少女の姿があった。 苦痛に顔を歪めているようにでも見えたのだろうか。訝しげで神妙な面持ちのまま、こちらを見遣っている。 憂鬱そうな彼女に「心配ない……」と言い、切は首を横に振った。 さきほど傷口に触れて完治している事は察していた。《魔神の血》の効力の一つに、超人的な自己再生能力が宿っているからだ。 しかし、どういう事だろうか? と疑問が切の脳裏を掠めた。 今の口調から察するに、彼女は自分の超常現象染みた自然治癒を知らないという事になる。すると、自分の身体を処置してくれた人物は、目の前にいる少女に対し、その事実を喋らず黙認する形を取っているということだ。 ――考えていても埒が明かない、か。 切は推測を幾つか並べ検討してみるが、次第に考えは億劫するかのように薄れていく。 反対に、命の恩人である彼女に詫びを入れなければという別の思いが、彼の心の内を満たし始めていた。 「迷惑をかけて済まない。病院には連れて行くなという無理難題な要求に答えてくれ、あまつさえ、傷の手当てまで施してくれるとは……深く感謝する」 切は深々と頭を下げ、謝罪の言葉を漏らした。 そんな切を見て、彼女は目をぱちくりさせている。突然の謝罪に心底驚いている様子だ。 彼女は両手をぶんぶんと左右に振り、 「ちょ、ちょっと! そんな別に、そこまで感謝されるほどの事したとは思ってないから、気にしなくっていいって。……まあ、さすがに驚いてないわけじゃないけど。あんな所に倒れてるから、殺人事件に巻き込まれたの!? って思ったくらいだしね。それに見つけたのはあたしだけど、さっきも言ったとおり応急処置とかは知人がやってくれたの。後で来ると思うから、ソイツに礼を言ったほうがいいわ」 「それでも、あなたに助けられたという事実に変わりはない。深く詫びたい」 「いや、そりゃあ最初に見つけたのは、あたしかもしれないけどさ……。困ったな〜、そこまで畏まれると何かむず痒いわね……。ならさ、質問があるんだけどいい?」 切は顔を上げた。 そこには疑心暗鬼の顔をした少女が……。 彼女は小さなテーブルを境として、腰を下ろすと面と向い視線を投げてきた。 「正直言って未だ信じられない事だらけなの。その辺のところ、はっきりと白黒つけたくてね。けど答えられなければ『答えられない』って言っていいわ。無理に問いただすような真似はしないから、安心して」 目の前の少女からは毅然とした眼光は、真剣そのものだ。 向けられた眼光を前にして、切は一瞬だけ黙考する。 彼女は無理な質問には返答しなくてもいいと言っているのだ。自分は暗殺を生業とする人間だ。 それこそ眼前の、傍から見ても一般人の彼女に話せる事じゃない。これらの事を口にするなんてもってのほかだ、と切は心中で意思を固めた。 「分かった……。但し、あなたの質問に対して"飽くまでも話せることしか口にしない"。構わないか?」 「うん、いい返事ね。それで構わないわ。無理強いする気はないから、オッケー。それじゃ、いきなりだけど質問。きみを見つけたのは奥多摩の山中なんだけど、あそこで何があったの?」 彼女から問いかけられた初めの質問は、最も答えられないものだ。 次期当主を掛けて、実の兄と殺しあっていたなど、どの口先が言えようか。 切は当然の如く―― 「すまないが、答えられない」 「ふむ。まあ最初に追及しないって言ったし仕方がない、か。じゃあ次の質問……の前に、これを返すか迷ってるんだけど」 そう言って立ち上がると、彼女の背の部分にある襖を滑らせ納戸を開けた。 何気なく垣間見ていた切の瞳が──ある一点に集中するのに時間は必要としなかった。
「それは……」 「これ、きみのでしょう?」
少女が納戸の中から取り出し、両手に抱えている物。 間違いなく切の日本刀だった。 鞘に納刀されていた日本刀は、その上から鞘袋のような細長い袋で包まれ、柄から下の部分が覆い隠されていた。 恐らく、外見だけでも隠そうと配慮してくれたのだろう。 だが切は内心、焦りだす。――不味い、と。 それを証拠品として何を問いだされるのか分からないからだ。 急き立つ心中は静まる気配がない。もし「これで人を殺した?」と問われれば一巻の終わりだ。「そうだ」と答えれば彼女の自分を見る目は変わり、どんな行動に移るか分からない。 だからと言って返答を長く引っ張れば、それは肯定に違いないのだから……。 しかし、そんな切の胸中を察したのか少女はやんわりと首を横に振った。 「これに関しては何も聞かないでおいてあげる。きみの私情に差し挟む事はしない、って言ったでしょ? 聞きたくないっていったら嘘になるけど、とりあえずは安心してちょうだい」 「……すまない」 「さっきから誤ってばかりじゃない。それにまだ質問は終わってないわ。次の質問いくわよ」 目の前の少女は切を落ち着かせようとしているのか、嬉々とした表情を浮かべた。 切は、たじろぎながらも「質問はいい?」という彼女に了承の返答をする。 「あ、ああ」 「よし! それじゃあ再び質問、って本当はこれが一番肝心な質問だったのかも……。ほら、私たち自己紹介まだしてないでしょ? あたしは東野桜。さん付けとか嫌いだから、呼び捨てでいいわ。きみは? 名前くらい言えるんじゃない?」 桜という少女は、手を差し出してきた。握手を交わそうとしているのだろう。 ……名前。 確かに、その程度なら問題ないと言える。それに助けられた恩を仇で返すような真似は出来ないと、その質問に関しては誠意をもって答える事にした。 切は桜の手を握り返し、
「切……。真神切だ」 「切、か。よろしくね切」
握手を交わす先にあるのは、彼女の裏表を感じさせない屈託の無い笑み。それこそ自分には到底できないような自然体の笑顔だ。 切には、そんな桜が少しだけ羨ましく、そして眩しく映っていた。
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