――紅霧――



     《2》


「──とりあえず処置はこれで終わりです。若干深いとはいえ、命に関わるほどではありません。傷口は縫っておきましたから、後は安静にしていれば平気でしょう」
「いやー、さすが宗一! 医者の卵は違うねぇ〜。ほんと、夜遅くに呼びつけて悪かったな」
「気にしなくていいですよ。明彦の突発的な出来事に巻き込まれるのは、もう慣れていますから」
「…………それ、嫌味か?」
 朦朧とした意識の中、切の耳朶に触れたのは会話の声だった。

 ……誰か、そばにいるのか?

 目を開けて確かめる気力はない。意識が飛ぶのを堪えるので精一杯の切は、何とか会話に耳を傾け、内容を聞き入ろうとする。
「しかし、傷口から見て刺傷ではなく切傷による創傷。これは憶測ですが、深さ、切断面からしてナイフなどの小物では無いと考えられますね。刺すならともかく、ナイフは小さすぎて斬るという行為において、過度の圧力が掛かり並の腕力では不可能です」
「……『日本刀』くらいの長さなら可能か?」
「恐らく……。とは言っても、この青年が日本刀を所持していたのは小耳に挟みましたが、どのような状況下でこのような負傷を招いたのかは、理解に苦しみます。常識から考えて、いまどきチャンバラなんて存在するとは思えませんし。それだけならまだいい。もう一つ、斬られた張本人であるこの人自身も、その……普通とは違うんです」
「どういうこった?」
「信じられないことに傷口の皮膚組織及び筋肉組織の細胞が、すでに再結合を始めているんですよ」
「…………すまん。もー少し分かりやすく言ってくれ」
「再結合。言い換えるのなら自然治癒には、マクロファージという細胞が深く関与しています。この人は、そのマクロファージ細胞が異常な活性化を見せているんです。常人とは比べものにならないほど新陳代謝が高まり、それによって傷口を中心に急激な速度での自然治癒力を促している。簡単に言ってしまうと、通常ではありえないほどのスピードで傷口が塞がっているんですよ」
「……それってすげえの?」
「当たり前です。組織の回復を助けるホルモン剤を投与しようとしたんですが、それすら必要が無いほどの、驚異的な回復力が、この青年の身の内で起こっているんですよ。常識なら考えられない。僕も医者を目指している身ではありますが、好奇心以上に恐怖を覚えましたよ」
「それで、完治までどれくらいかかる?」
「傷口の深さからして、通常なら全治一ヶ月以上の見通しです。ですが、彼なら三日……いや、ニ日あれば充分かと」
 会話からして二人、と切は思案。
 ただ双方の事柄ではなく、第三者のことで話し合っているように聞こえた。
 もっとも切は、その会話が自分自身の事だとは理解できてないらしい。鈍った思考能力では、そこまでが限界だった。
「まあ、この話は他言無用で頼む。部屋の外で待っている二人には特に、だ。それより、そろそろ帰ったほうがいいんじゃねえか? もう日にち変わってるぞ」
「……そうですね。それじゃあ、今日はこれで御暇させてもらいます」
「ああ。礼は、こいつが目ぇ覚ましたらおれから伝えておいてやる」
「分かりました。とりあえず、何かあったら連絡してください。すぐに駆けつけますから」
「了解」
 そこで会話が途切れる。
 頃合いを見計らったように切の意識もそこで途切れた。

     *     *     *

 遡ること一週間前──京都。

 見渡す限り山、山、山。
 そこは京都府の北部に広がる山地だ。
 起伏が激しい山々に、荒々とした針葉樹林が深々と根を張る様は、まるで山地一帯に緑草色のカーペットを敷き詰めたかのような壮大な景色。手を加えられないまま無法地帯と化したそこは、まともな登山道すらなく、一般人が足を踏み入れることはないだろう。
 その一角。
 山地の中にある数少ない平地に、傍から見ても歴史を感じさせる屋敷が、静かに鎮座している。周囲の深緑色の針葉樹林と、格子模様の壁によって覆われた、二段の突き上げ屋根を設けた大屋敷だ。
 屋敷の正面及び、側面に複数の破風が設けられ豪奢な印象を与えている。
 が、外壁と屋根に施された漆喰塗によって落ち着いた気品をも同時に漂わせ、優れた美観を呈していた。
 幾重もの会話が連なって聞こえるのは、その屋敷内からだった。


 そこは襖障子の部屋。
 三十量ほどある部屋の床に敷き詰められた畳が、落ち着いた雰囲気を醸し出し、日本文化を受け継いだ情緒溢れる和室。だが、今現在そこに溢れているのは和を乱すような喧騒だ。
 その部屋で切と刃の二人が、九人の老若男女に取り囲まれるようにして正座し、周囲の弾劾や糾弾に似た言葉を耳にしていた。
 ある者は怪訝に睨むようにして、ある者は怒号を吐き散らして、またある者は苦渋に顔を歪めて──様々な感情を露にしている。
 友好的な感情を表している者は無いに等しい。
 険悪な雰囲気を漂わせている者は皆、切や刃の家臣──《真神まがみ》に仕える者達だった。

     *     *     *

 《真神》──それは《魔神の血》という特殊な血を遺伝的に引き継ぐ家系。人と魔の混血の民と称され、その一生涯、暗殺を生業として生きる血族だ。
 その血筋を引く者は己の有無に関わらず、平和を甘受する同年代の子供たちとは明らかに違う生活を強いられる。生まれた時から暗殺者となるべく、修練の日々が決定付けられているのだ。
 真神家の末裔である切と刃も然り。
 彼らもまた、年を重ねる事に常人とは違う経験を積み、常人とは違う苦楽を味わい、常人とは違う世界で生きてきた証を身体に刻んでいった。

 超人離れした運動神経。
 どんな極限状況でも己を見失わない強固な意思。
 絵の描写に見られる繊密な観察眼に。
 必要とあれば力の行使を躊躇うことのない冷徹な本能。

 銃火器などの飛び道具類はいっさい使用せず、己の身体能力と真神家に代々伝わる《鬼神流》という剣術を駆使。
 日本刀を用いて、要人殺害の依頼などを忠実に行う暗殺者と化す……

 ──それが数百年以上の歴史をもつ《真神》だ。

     *     *     *

 喧騒はいつまで経っても止む気配がない。
 耳朶に触れる声に対し、鬱屈な気分になった切は、周囲の者に悟られない程度に目を動かし眼界を広げる。視界には、右横で同じように座禅を組んでいた刃が映った。
 微動だにせず、気配すらかき消すようなその様は、まるで菩薩行に励む修行者を彷彿とさせる。
 しかし両方の瞼を落とした刃の口元が、切には微かに吊り上がっているように見て取れた。
 ──なぜ?
 視線を真横に向けたまま、切は無意識のうちに思考を働かせる。
 だが――

「静まれ……汝らは烏合の衆ではなかろう」

 思考は突如として誰何の、錆を含んだ声によって遮られた。同時に、周囲の喧騒も水を打ったように、ぴたりと止んだ。
 声の主は切の前方からだ。
 視線をそちら側に移すと、床の間の前で胡坐を組み、肘掛けに右肘を預けている老人が映る。
 まるで鷹のように鋭い目つき。長い白髪に白い顎鬚。老いには勝てず、痩せこけてしまった彫りの深い顔立ち。痩躯の身体は羽織を重ねた和服に包まれている。
 しかし若かりし頃は、さも勇ましかったであろうと、未だ威厳のある視線がそれを表していた。
 現真神家の当主であり、切と刃の祖父にあたる人物──刀尖とうせんだ。
「皆の衆に集まってもらったのは他でもない……。秋水しゅうすいの事柄だということは、耳にしている内容から察しておろう」
 その重々しい刀尖の口調と台詞に、誰もが息を呑む。
「わが息子である秋水が里を離れ、行方不明になり早一ヶ月弱……。当主継承を目前とした失踪。彼奴の身に何かが起こったとみて、まず間違いないであろうな……」
 台詞が終わると共に、切の顔が翳った。
 真神家の世代交代を目前とした次期当主の失踪。それは真神一族、始まって以来の震撼させるほどの大事件だった。
 次期当主、秋水が忽然とその姿を消したのは――約一ヶ月前。
 最後に見た者の証言によると『少しの間だけ、屋敷を空ける』という言伝を頼まれていたと言う。
 何らかの事件に巻き込まれたのではないかと周囲に伝播したが、秋水の実力を考えると信憑性が薄く、誰もが"不可能"だと唱えた。それは秋水の実力を知っているからこそだ。
 故に第二の仮説として現行最強の剣士の"逃亡説"が上がる始末。
 そのため急遽、このような会合が設けられたのだが、切と刃以外に《八将神はっしょうじん》と呼ばれる真神一族の八つの分家――その各々の代表である八人も、この場に召還されていた。
「しかし刀尖さま。当主継承を目前としての失踪は大義名分と見て、実際のところ秋水さまは真神の当主という圧力を恐れ、逃避行なされたのでは……」
 突然、言葉を口にしたのは切の周囲を囲んでいた老若男女の一人──三十代半ばといった八将神の男性だった。
「以前、一時的に逃亡したという噂を当主も小耳にしたと思われます。あの方が事故や事件、ましてや暗殺に巻き込まれるなど、とてもではありませんが考えにくい……。やはり、この件は逃走という形に――」
「何を言うかッ!」
 その言葉に、いち早く反応したのは、同じ八将神である中老の人物だった。
 中老は座禅を解き、今にも立ち上がらんばかりの憤怒に満ちた顔で、
「秋水さまほどの屈強の持ち主が、そのような弱志の行動を取るはずがないッ! 神楽かぐら家の長よ、言葉を慎め!!」
「ふん……! そういう神武こうぶの長であるあなた様は、自らの家臣を使い秋水さまの行方を躍起になって探し回っているそうじゃないですか。このような時だけ、進んで手柄を取りに行くとは……神武は、なんとも醜悪なやり方をお使いになさる」
 鼻で笑うような神楽の物言いに、神武の長である中老の老人は、羞恥を晒された者のように顔を紅潮させ、
「若造……ッ! 同じ分家の立場とはいえ言語道断であるぞ! 刀尖さまを目の前にして、その言葉! 場をわきまえ──」

「止めいッ!」

 剣幕を遮ったのは、絶対者であるかのような無慈悲な言い渡し。
「分家の者同士が争ってどうする。いま我らに必要とされているのは、現状をどう受け止めるかだ」
 言い争いは、威圧感漂う刀尖の声を前に終止を打った。
 萎縮したように畏まった彼らを一瞥した刀尖は、興が削がれたように視線を虚空に泳がせ始める。
「死期はまだだがワシはもう歳……、前線に立つことすら間々ならない状況だというのは、各々にも知りうることだろう。だが――」
 刀尖は一間空けると自分達を見据え言葉を紡ぐ。
「真神と八将神を束ねる者として、それは有ってはならんこと。戦線に赴けぬ者に統率する資格などない。よって、次期当主は即急に決めねばならぬ」
「ですが、その次期当主である秋水さまが帰郷しない以上、この件は持ち越しに留めるのが妥当かと存じますが?」
「……うぅむ」
 小さく唸る刀尖。
 現状打破の具体策が出されない以上、この話は次回に流されるものと誰もが思っているのだ。
 それは真神――《魔神の血》という特殊な血統にある。
 《魔神の血》は、摂理によってなのか最初に生まれてきた長系のみ継承されるのだ。つまりは長男か長女にしか遺伝的に、この《魔神の血》が受け継がれない仕組みになっている。
 次期当主候補の秋水は、刀尖の息子であり《魔神の血》の正統なる継承者。
 よって、この会合はこれで一時終幕になると皆、無意識のうちに感じているのだ。
 だが――

「秋水は……死んだものとして扱う」

「「「「「────――」」」」」
 刀尖の公言によって、その場に戦慄が走った。
 なぜなら秋水を死去した者として扱ったという点で、真神家の次期当主という権利を"破棄"した事になるからだ。
 世代交代を急いでいた刀尖が、今度はその地位保全を剥奪すると言ったのだ。あきらかに矛盾している。

 では、次期当主の件は一体どうするのか?

 それのみが論議の対象とされ、喧騒が再開していた。
 先ほどまで静寂のあった襖障子の部屋が、再び沸き起こる騒然とした雰囲気によって霧散されているのを切は見る。
 ざわめき合い、罵り合う八将神の渦中にいるなか、ふと何処かしらから視線を向けられているのを察知。
 右隣も方を横合いから覗くと、そこには微笑を浮かべた刃が瞳に映った。
 まるで自分は蚊帳の外にでもいるかのような、弛緩した表情。
 刃は切と視線が合ったのを確かめると、騒然とした場に反する、ゆったりとした面持ちで口を開き始めた。
「大変なことになったねぇ、切」
「そう述べているにもかかわらず、なぜ笑っていられる? ……事の重大さが分かっていないわけではないはずだ」
 周囲に悟られない程度の小声で会話をしていた双子の兄弟。
 だが、周囲の物騒がしい雰囲気のせいで、気づかれる事なく話は進む。
「ん? ああ、それは勿論、分かってるさ。ただね、これから僕たちにとって、とても重大な発表が待っているはずなんだよ。それを考えると、自然と笑みがね……ふふっ」
「…………」
 切は切れ長の眼を刃に向ける。
 刃に何か思惑があるのは目に見えて明らかだった。しかし、その何かが解らない。
 原因は秋水の行方が途絶えた直後からの、刃の豹変ぶりにあった。
 朗らかな外見とは裏腹に、剣の実力は超一流。文武両道、質実剛健、眉目秀麗などの言葉がしっくりと嵌まり、人望も厚く、誰もが尊敬の念を抱く人物―─それが切の知る刃の姿だった。
 が、秋水が姿を暗ました直後から、刃は目に見えて明らかなほど行動や性格に、急激な変化が生じていた。
 そのせいもあり、極一部では刃が真神の『禁忌』に手を出したのではないかという情報が漏れているのだ。
 しかしながら、切は真っ向から否定しなかった。出来なかったのだ。
 真神の『禁忌』に触れ狂喜し、その力に溺れたとしたら、兄の豹変振りにも納得がいく。
 父親の失踪、次期当主の剥奪を耳にしても、飄々としたその態度が、如実に彼の変わった性格を述べているのが否応に見て取れたから……。
 切は眼光を鋭くし、そんな相手の意図を読み取ろうと睨む。
 反対に刃は、臆する様子もなく微笑を浮かべ、切の警戒の色が宿ったその視線を受け入れる。終止無言を貫き通された視線だけのやり取りが続く。
「次期真神の当主の件はすでに考えておる」
 八将神のざわめきと、切と刃の無言のやり取りは、刀尖の口から出た言葉によって、ぴたり、と止まった。
「では……次期当主の件はどの様に解決なさるおつもりでしょうか?」
 周囲の視線が再び刀尖の下に戻ったのは言うまでもない。
 刀尖は皆の目線が集まるのを確かめていたのか、一拍の間を置いてから、それに対する答えを口にした。

「真神家の次期当主は切と刃、二人の中から選ぶ」

 そこにいた太腹の男性も、
 そこにいた年高の老婆も、
 そこにいた痩躯の若年も、
 皆が皆、予想だにしなかった回答に目を剥き唖然としている。
 その中には無論、切の姿もあった。
 予想外――では済まない。
 想像から余りにもかけ離れた答えを前にして、切は脳を揺さぶるような錯覚すら覚えた。
 自分と刃は、まだ成人すら迎えていないのだ。
 窮する状況とはいえ、真神一族の歴史上で前例を見せない世代交代の手段を用いてくる祖父を見、切は狂気に奔っているように思えた。
 同じような考えに到ったのか、八将神は俄か騒ぎを増そうとする一方だった。
「刀尖さま! いくら厳峻とした状況下とはいえ、それは無謀です! 御二方は、まだ成人すら迎えていないのですよ。いま真神の当主を継ぐのは、酷でしかありません!」
「秋水がいない以上、いたし方がない。ワシとて、考えに考え抜いた結果、だした結論だ」
 狼狽したような物言いを、刀尖は一蹴。
「しかし……、いくらなんでも早すぎますぞ。ならば、しばし秋水さまの御帰りをお待ちになり、それでも帰郷なさられないのでしたら、ここは八将神の中から一時的に当主代行を選ぶというのは如何でしょうか? その後、切さまと刃さまがご成長なられてから当主の地位を受け渡すというのは……」
 続いて丁重に咎める言葉を選んだのは、先程まで言い争っていた片割れの中老、神武の長だ。彼の言っていることは理の当然だった。
 ところが刀尖は、
「ならぬ。それこそ真神家の当主は《魔神の血》を引く者のみが継ぐという、今まで先代から築き上げた一族の慣わしを汚すものになる。だからこそ、ワシはこの地位を孫に譲ることを決めたのだ。断固として、結論は曲げぬ」
 全てを断ち切るような言い草に、八将神の各々は言葉を噤む。
 その一言で決着がついたのは、目に見えて明らかだった。
「……では、切様と刃様。この御二方のどちらから、次期当主を御選びになられるのですか?」
 それでも、納得が出来ない語調で質疑する八将神の一人。表情にもそれが見え隠れしているから、なお疑念や不満、わだかまりが残っているのだろう。
 だが刀尖が結論を下した以上、真神の世代交代の件は、ほぼ決定したも同然。残存した疑問といえば、二人の内どちらを選ぶかだ。
 着眼点が、既にその一点に絞られているのはまず間違いないだろう。

 しかし切はその地位――真神家の当主たる地位を渇望したりはしていなかった。
 むしろ当主という以前に、一族の生き様、やり方などに少なからず苦悩し始めている自分がいた事を、この会合の間に思い出していた。
 年を重ねるにつれ芽生えてきた、暗殺対象をこの手に掛けようとする瞬間の罪悪感。それは変貌する前の物優しかった刃に触発、感化されたものだ。
 それに一度でも"殺す"ことに喜悦を感じ割り切ってしまったら、坂道を落ちる雪玉のように、その喜びは再現なく膨れ上がっていくだろう。
 祖父が暗殺者だから父親も抹殺者に、父親が抹殺者だから子である自身らも抹殺者になる。まるで定められたレールを走っていくような列車に似た感覚だ。
 だが、一族のため、血筋のため、運命のためという大義名分など何の役に立とう。
 だが、その切の考思は……次に耳朶に触れた言葉によって、まるで厚氷に熱湯を注いだかのように、溶け散ることとなった。

「二人が刀を交え、生き残った者に次期真神の当主の地位を授ける」

 ――馬鹿なッ!
 と、切は胸臆で叫ぶ。
 刀を交えるという事は――つまりは相手の息の根を止めるまで戦えということ。
 それは実の兄弟同士で死闘を繰り広げろと、言外に仄めかしているようなものだ。
 横暴以外の何ものでもないのは、周囲を囲む八将神の表情に映し出されていた動揺が、それを物語っていたからだ。ざわめきは小波を立たせように混乱を生み出す。
 無論、当事者である切本人の胸中にも遣り切れない憤懣が宿り始めていた。
 ――止めなければ!
 刀尖の強行手段じみた発言を否定すべく、切は痺れを切らしたように立ち上がろうとする。
 実の兄である刃と殺しあうなどまっぴら御免だ。きっと刃も変わったとはいえ、本心ではそんな事を望んでないはず、と切は思考した。
 しかし、その行為は割り込んできた落ち着きのある声によって遮られることとなった。

「分かりました。父に対する次期当主の権利が消失したのですから、僕たちにその権利が譲渡されるのは至極当然なことです。当主が下した任……謹んで承りましょう」

 和室が、ひっそりと静まり返ったのは明白な事実だった。
 まるで氷結した冬の湖にいきなり落とされたような衝撃と、続いて身が凍結するような刺激を切は幻覚によって一遍に浴びていた。
 意識が戻ると、知らず知らずに横隣で正座している兄の姿を視認するため、向き直っている自分がいる事に気づく。

 そして切は見た。

 悪意も、憎しみも、怒りも映し出されていない。

 まるで全てを悟り、まるで全てを受け入れ、それでも快い表情を浮かべている。





 …………じんの姿を。




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