――紅霧――




     第1章 真神



     《1》


 満月の煌々とした明かりを浴びる奥多摩の山林。
 鬱蒼と生い茂った雑木林が、夏の微風に合わせてゆっくりと揺れ、はためいている。
 セミの鳴蝉の代わりなのか、鈴虫の鳴き声が山林を優しく包むかのように奏でていた。


 奥多摩の林間──
 車道用に補修された一本道を一台のワゴン車が一定の速度で走っていた。
 その車両内。
「あーッ、もう何で花火大会が中止になるよ──ッ!」
 と、いきなり愚痴を吐いたのは、ワゴン車の助手席に座った女性だった。
 見た目からして歳は二十歳前後といったところか。
 真っ直ぐに腰近くまで落ちた長い黒髪。大きな黒い瞳は普段強い意志と、豊かな感情で輝いていると思われるが、今はフロントガラスから見える星空を目の敵のように睨み付けている。
 キャミソールにストレートパンツ姿という出で立ちは、夏の猛暑から逃れようという印象が色濃くでていた。
「それにしても、あの大雨。花火大会が中止になったとたん、ぱったりと止んじゃうなんて酷過ぎない? 新手のイジメよ! そうでしょ明彦あきひこ!」
「いや、俺に突っ込みされてもなー……。今回は不慮の災難なんだ。ぐちぐち言ってないで割り切れよさくら
 桜という少女に対し、なだめる言葉を選んだのは隣でハンドルを握った青年だ。
 年は彼女と同じくらいの二十代前後だろう。
 口元に苦笑を浮かべる顔立ちは、意外と整っておりハンサム。軽薄そうな表情と外見とは裏腹に、無駄のない筋肉の付いた身体は砕けたように着崩れさたアロハシャツに包まれている。後ろで束ねた脱色しきった金髪が特徴の青年だ。
「まあ桜の気持ちも分からなくはねえけどな。何だかんだ言ったって、中止になっちまえば結局は無駄足だしよ。ったく、せっかく穴場を見つけたっていうのに」
「全くもってその通りよ。第一、花火を見るために、こんな辺ぴな所まで遠出してきたのにこの有様だもん。明彦、ちゃんと責任とりなさいよ」
「ちょいまち。誘ったのは確かにおれだが……全面的におれの所為になるのか?」
「当然じゃない。ちなみに拒否権なしだから」
「……鬼だ」
 うな垂れる明彦は、バックミラー越しに映った後部座席の人物に目配せし、
月宮つきみやー。こいつを何とかしてくれ〜。俺じゃあ手が付けられねぇ〜」
「明彦! 人を手懐けられないライオンみたいに言わないでよっ」
 辟易した明彦の物言いに桜は食って掛かる。
 そこで言い聞かせるように口を開いたのは、後部座席から身を乗り出す女の子だった。
「桜ちゃん、この大雨じゃ仕方がないよ。それに明彦くん一任の責任とは言えないんじゃないかな?」
 小柄な痩躯と、左右に括り背中に流した三つ編み。さらに黒いセルフレームの大きな眼鏡のせいか、外見が中学生のように見える。
「明彦くんが『花火を一望できる、いい穴場があるぜ』って言ったら、桜ちゃんだってここに来るの乗り気だったでしょ? これはもう自業自得として見るしかないね」
「ふぅ〜ん……。由里ゆりは明彦の肩を持つ気な・の・か・し・ら?」
「そんなつもりで言ったわけじゃないよー。これ以上、花火大会の話を長引かせるのは、桜ちゃんにとっても苦になると思ったからだよ。違う〜?」
 悪意の感じさせない口調と、小学生のような笑みを前に、桜は所在無げに呻く。
「そ、それはそうだけど……。でも、納得できないわ。何とかしないさい明彦」
「あのなー桜、もう諦めろって。今回はツキと天候に見放されたんだ。駄々こねたって仕方がねえだろ」
「そうだよ桜ちゃん。また来年見に来ればいいじゃん。ね?」
「うぅ……」
 不承不承に呻きながら、ふて腐れるようにサイドガラスに視線を向けた桜。
 ガラス越しに映し出される光景は、ワゴン車にあるヘッドライトの明かりを浴び、視覚できるほどの明瞭さがある。そこに映るのは延々と続く雑木林だった。

 夏の名物と言えば何か? 桜ならこう答える──花火大会だ、と。
 彼女は同じ大学に通う二人と一緒に、奥多摩で開催される予定だった花火大会を観賞するため八王子から赴いたのだ。
 今宵、夜空に咲く盛大な花火を堪能し、思うぞんぶん羽を伸ばすつもりでいた。
 だが──この大雨による花火大会の中止。とんだ空回りだ、と桜は思う。
 今日という日が終われば、夏という季節が終わりを告げるのはそう遠くない。
 桜が傍若無人に振る舞い、呻いているのはそういう理由からだった。

「はー、休暇はこれにて終了。夏休みは残りあと僅かだし。ある意味、印象に残った年ね……」
 助手席に身を沈め、桜はこれ見よがしに陰鬱なため息をこぼす。
 そんな彼女に「ドンマイ。ドンマイ」と肩を軽く叩きながらなだめる明彦。
 ……まあ、終わった事をくよくよと引きずっても仕方がないのは、分かってるけどさ。
 窓ガラスから、後方に流れていく景色を茫然と眺め直す。
 同じ光景が、延々と横に流れていくだけのもの。それを虚無に似た感覚で、見遣っていたその時だった。

「──え?」

 目を見張った。言葉はそれしか出てこない。
 虚ろになっていた思考が、一瞬でクリア。
 それは突如として、冷水をかけられたかのような感覚。もしくは冷気を帯びた液体が、血液に混じりこんでくるような錯覚とでも言えようか。

 ──イマノハ……ナニ?

 桜は"視界に入ったもの"を確認しようと、咄嗟に来た道を振り返る。
「どしたの桜ちゃん?」
「止めて」
 由里の問いかけに桜は即答。車の速度は差ほど速くはなかった。暗闇の中ヘッドライトに映し出された"視界に入ったもの"は、明瞭に脳裏に焼き付けられている。
 ……間違いない、ヒトだ。
 心臓が躍動するように大きく鼓動を繰り返しているのが、その裏返しによるものと合点。
 が、そんな桜の胸中で揺れ動く心理に気付く様子なく、明彦はハンドルを握り視線を前に向けていた。
「おいおい、なに言っ──」
「いいから早く車を止めて!!」
 激昂によって口にしようとした言葉を一蹴された明彦は、虚を衝かれたように硬直する。
 しかし桜の勢いはそれで止まらず、
「なにやってるの早くッ!!」
「わ、分かったから、落ち着け」
 桜の命令的な言い分に、右往左往しながらも明彦はブレーキを踏む。タイヤが路面と擦れ、甲高いブレーキ音と共に急停止。
 桜はドアを開け、いま来た道を走り始めた。
 距離にして約二百メートル強を無心になって駆ける。
 彼我の距離が近くなるにつれ、次第に感情が高ぶっていく。街中の雑踏に倒れているのならまだしも、こんな辺境の場所に人が倒れていれば、焦りは何倍にも膨れ上がった。

 ──仮に、もしもこれが殺人事件だったとしたら、自分は第一発見者として、警察に事情聴取など取られたりするのではないだろうか?
 ──さらに、場合によっては自分が犯人扱いされてしまうのでは?
 ――ならば見たものは目の錯覚だと思って引き返す?
 ――だが『錯覚』ではなく『事実』だったらどうすればいい?

 走っている途中、様々な思いが桜の胸中で相反し合っていた。眼の当たりにした光景を追憶し、正しいか否かと半信半疑に思考を巡らしている間にも、
 徐々に……。徐々に……。徐々に……。
 距離の間隔が短くなっていき──
「はぁ……はぁ……」
 目的の場所に到着した桜は、荒くなった呼吸を即急に整え──意図的に視界を車道横にある草むらに向けた。視界には車道に並行するようにして、延々と続く草むらが存在している。
 先ほど雨が振っていたからだろうか、水捌けのいい草に纏わりつく雨粒が月に照らされ反射し、幻想的な輝きを生み出している。月光の明かりはそれだけに留まらず、その場にあるものを淡い光で薄っすらと映しだしていた。

 無論──そこに倒れている人間の姿も。

「……ぁ」
 眼前の光景を直視し尻餅を付いてしまう。
 悪い冗談だと思いたかった気持ちは、突きつけられた目の前にある事実に、一瞬で鵜呑みにされた。
 頭が理解すると同時に、身体中の血の気が引いていくのを彼女は悟る。
 ──でも、死んだと決め付けるのはまだ早い。
 無気力と化していた足を強引に奮い立たせ、起きる。桜は、それこそ忍び足に似た足取りで回り込むように移動すると、昏倒している人物の顔を恐る恐る伺うようにして覗き込んだ。
「……まだ若い」
 それが第一声だった。
 倒れているのが同年代くらいの青年だったという理由が大きいのかもしれない。
 見た目からして、年は自分と同じ二十歳前後。
 黒い袴のようなものを身体に纏った若い青年だ。
 その腹部──袴の引き裂かれた部位から、赤い血がじわりじわりと広がり、流れているのが彼女の目に入った。人体の傷口から流れ出す赤い液体を見て、自分の顔が青ざめているのを桜は理解する。
「ゆ、夢じゃないわよね、これ。リアリティーありすぎだし……」
 始めてみる夥しい血に思わず、ごくりと息を呑む桜。焦燥に駆られながらも、再び視線を青年の顔に移した。
 まるで刃物のような鋭さを感じさせる顔貌。思わず見た者が竦んでしまいそうな強面の青年だ。しかし均整の取れている端正な顔立ちは、美丈夫の部類に──
「……ぅ」
「──ッ!」
 あれやこれやと巡らしていた桜の思考は、眼下に倒れている青年の苦悶によって遮られた。
 あたふたと挙動な振る舞いをしている己の顔が、紅潮していると否応にも理解できてしまい、顔向けの出来ない恥ずかしさが身体を熱くしていた。
 ──ちょっとまって。身動ぎしたって事は……生きてる?
 我に返った桜は倒れている青年に、寄り添うようにして身を屈め、
「ちょ、ちょっと! 大丈夫ッ!?」
「…………」
 声を掛けるが、返答はなし。が、彼女はめげずに声を掛け続けた。
「もしもーし! ねえ! 聞こえてるなら返事してッ!!」
「…………」
 声を大きくしてみるが効果無しだった。反応が返ってこないと、状況が嫌な方向へと進んでいるようで、不安が募ってくる。
 一刻の猶予も無いと見て取れる状況。この危機的な状況を前にして、友人の二人の助力が必要だと気づく。自分は応急処置の取り方すらまともに知らないからだ。
「明彦に頼んで、すぐ病院に──」
 踵を返して振り向き、同乗者の二人に助けを求めようとした、その時だった。
 立ち上がろうとした矢先、桜の身体が中腰の位置で止まったのだ。
 否、止められた。
「────」
 心臓が止まるかと思った。
 恐る恐る首を――それこそ錆びれたブリキの人形が首を回すようにギギギッと、青年が倒れていた草地に視線を戻す。
 そして視界に入ったものを見、目を見開かずには入られなかった。
「……や、めろ。そこは……"足"が……付……く」
 虚ろな瞳でありながらも、桜を見据える青年が、そこにはいた。
 意識が朦朧とした様子を見せる中、彼の左手は彼女の華奢な腕をしっかりと掴んでいる。
 その儚いながらも鋭利さを思わせる瞳に、桜は一瞬すくみ上がりそうになった。
「え……ぁ……」
 二人の視線と視線が交じり合い、桜は言葉にならない言葉を口から漏らして、困惑し硬直。どうすればいいか分からず、再び湧き上がってきた気恥ずかしさに視線を泳がせた桜は、青年の右腕に視線を逸らし──

「ちょ、ちょっと……。な、何なのよ──『ソレ』」

 次の瞬間、彼女は青年の右腕が掴んでいる『ソレ』を凝視していた。
 資料などでしかお目にかかったことがない『ソレ』が、視線の先で鈍色に輝き放っていたのだ。普段の状況なら『ソレ』を玩具やその類のものだろう、と思考できるほどのゆとりが合っただろうが、今はそれが無い。
「……ほ、本物」
 彼の右腕にある『ソレ』。
 桜の視線の先にある『ソレ』。
 それは見間違うことなく『日本刀』と呼ばれる武具ほかならない。
 ──何で、こんな物持ってんのッ!?
 殺傷能力のある凶器を目の前にして、桜は動揺を隠せない。
 が、内に秘めた彼女の焦燥感に気づいた様子もなく、眼前の青年は懇願する物言いで、
「……頼……む」
 と、言葉を残し、それを最後に意識を失った。


「ちょ……ちょっと?」
 再び昏倒した青年を目の前にして、桜は言葉を失った。
 病院がなぜ駄目なのか? 足が付くとはどういうことなのか? 青年の呟いていた言葉が胸の内で反芻し、その答えを見出そうと桜は無意識のうちに思考を巡らせていた。
「――ッ!?」
 が、それは突如として視界に差し込んできた強烈な光源によって、一時的に思考は遮られた。光源の正体は、乗ってきたワゴン車のヘッドライトだった。
 車が近づいてくる駆動音すら察することが出来なかったのは、青年の状態、服装や手に握る日本刀を視覚し、聴覚にまで脳の働きが回らなかったのかもしれない。
 ワゴン車は彼女の傍に停止。中から明彦と由里が出てきた。
「おい、桜! 一体どうし……」
 明彦が自分を──否、彼を見て言葉を噤み、茫然自失したように佇む。
 由里も同様に、眼前にある光景を見て、口元を手で抑え目を見開き震えている。
「さ、桜ちゃん……その人……だ、だれ?」
「……解らない。あたしにだって理解できない……」
 昏倒している青年を見、三人は驚愕の表情を顔に貼り付けたまま終始無言となる。
 そんな中──
「糞ッ!」
 明彦がバツの悪そうに舌打ちすると、こちら側へと接近してきた。
 近づくや桜の横隣で身を屈め──目の前でいきなり怪我人の袴の帯紐を解き始めた。
「ちょ……。 あんた、いきなり何してるのよ!?」
 その思いもしない行動に桜はギョッとするが、当の本人である明彦に臆する様子はない。
 帯紐を解き、上半身の袴を広げると明彦は傷口に視線を向けた。
「……見た目が派手に見えるかもしれないが、腹部にある毛細血管と動脈、静脈の一部が傷つけられたんだろう。とりあえず止血するのが先決だ」
「で、でも、もの凄く血が出て……」
「吐血はしてないから、内臓器官はやられてないな。虚血も見られねえし、消化管出血の心配は無さそうだ。血止めしちまえば、何とかなるか……。桜、何でもいいから、止血になりそうなもの貸せ」
 桜からハンカチを受け取った明彦は止血に取り掛かり始めた。
 が、傷口にハンカチを当て、手で圧迫を試みたとき明彦が再び舌打ちをした。
 無意識に桜は覗き込む。
 圧迫した血がハンカチをあっという間に赤く染め、滴れ落ちていたのが見えた。
 傷口が思っていたより深く、ハンカチなどの薄手の物では止血の代用が利かないらしい。
 明彦が翻るようにして振り返り、後方で棒立ちになっている由里に、
「車の中に新品のタオルがあるから、持ってきてくれ!」
 と促した。
 心ここに有らずの有様だった由里は、意識を取り戻したかのようにコクコクと頷くと、車の中を探りに行った。目的の物を見つけると、颯爽と駆けつけ、処置を施している明彦に渡す由里。
 明彦はそれを受け取ると、タオルをハンカチの上から覆い隠すように傷口に当て再び圧迫を試みる。
 その手馴れたような動作を目の当たりにし、桜は口を噤んだままだ。彼の動きは医者や救急隊員よろしく、状況を把握したうえで行われる的確な動きなのだ。
「よし。これなら」
 明彦はズボンのベルトを取り出す。それを青年の身体に回すと、ベルトでタオルごと身体を心臓に負担がかからない程度に締め付け、出血を止め終了。
 応急処置をし終え、安堵の息を吐く明彦。
 その間に桜と由里がしていた事はほとんど無いに等しかった。あまりにも迅速かつ手短な処置に、二人が介入する隙すらなかったのだ。
「止血はこれで完了だ。ただ所詮、応急処置に過ぎない。消毒が不完全な上、破傷風にならないとは限らないからな。麓を降りて、すぐ病院に連れて行くぞ」
 その言葉が、桜の胸を高鳴らせた。

 『──……や、めろ。そこは……"足"が……付……く』

 先ほど、青年が口にしていた言葉が脳裏を過る。
 青年は病院には連れて行くな、と言っていた。
 しかしながら、連れて行かないことには、まともな処置は施せないだろう。放っておけば、命に関わるかもしれない。
 どうすればいい、と桜は逡巡した挙句──
「……駄目」
「は?」
「その子に……病院には連れて行くなって、頼まれたの」
「は、はぁ!?」
 患部に響かないように青年を抱き上げ、ワゴン車の後部席に寝かせた明彦は呆れ顔になっている。明彦に助力していた由里も同じだ。
 一部とはいえ、青年の動脈は切れている状態。そのため出血量も多く、直に医療機関にて適切な処置が必要不可欠なのだ。
「この馬鹿タレがッ! 人様に助けられている身で、そんな注文してくるんじゃねえよ!」
「ど、どうするの、明彦くん」
「どうするってよ……」
 由里の狼狽した問いかけに対し、明彦は俯き、考える仕草を始めた。
 その考案に努める横顔を黙って見守る桜と由里。
 この場に頼れるのが、明彦以外にいないというのが如実に現れている。
 数秒の間を空け、明彦を顔を上げるとポケットを探り始めた。取り出したのは携帯電話。
 明彦は数度ボタンを押し、
「おう、宗一そういち。夜分遅く悪いな。緊急の用なんだが、いま空いてるか? 山中でとんでもない落しもの拾っちまったんだ。……なに? 『明彦の冗談は聞き飽きました』だと? おれがいつも冗談言ってるわけ無いだろ!」
 がなり立て始めたが、どうやら助け船を呼ぼうと知人に連絡を取り始めたらしい。
 桜は黙したまま何も語らず、ただジッと視線を明彦に向けていた。
「ああ、腹部に深い傷がある。応急処置はしたんだが、これ以上の処置はおれには無理なんだ」
 見えない相手との会話で、説明をし、何度も相槌を打ち、冗談ではないと否定。必要最低限の事を手短に次々と告げて行く明彦。
「どうも訳有りらしくてな。病院は拒否してやがる。すると身近で頼れるのがお前だけでさ……」
 相手のほうも、達の悪い冗談では無く非常事態と察したらしい。
 携帯電話に向かって言葉を発している明彦の口調が、流暢なものになっていくのが桜には理解できた。
「ああ、頼む。ん? 何処で落ち合うかって? そうだな……宗一、お前《Cube》って喫茶店知ってるだろ? ああ、以前におれと一緒に行った所だ。友人の家がその喫茶店だから、そこで待っててくれ」
 思わず唖然とする桜。
 それもそのはず《Cube》とは自分の実家である喫茶店のことなのだ。
 目配せし「いいよな?」と促してくる明彦に、一時の気の迷いを見せるが、すぐ何度も縦に頷き了承の合図を送る。
 桜から承諾を得た明彦は、さらに電話先の相手との会話を進め──
「おれたちも至急そっちに戻る。それじゃあ、頼んだぞ」
 会話を終えた明彦は携帯電話を閉じた。
「二人とも、車に乗れ! 急いで、下山するぞ」
「分かった!」
「う、うん」
 明彦の促しに、桜と由里は急いで行動に移った。
 と、不意に桜が地面に視線をやる。
 そこには先ほど青年の手の中にあった日本刀。さらに明彦が青年の服を脱がした際、帯紐を解いたときにでも外れたのだろう、その日本刀を納める鞘が草地に転がり落ちていた。
「…………」
 桜が悩んだのは一瞬。
 こんな場所に置いておくのは流石にまずいと彼女は思案し、恐る恐るといった感じで日本刀に触れ、持ち上げる。
 持ち上げた瞬間、右手に感じたのは、ずしりとした重量感。細長い見た目とは裏腹に以外にも重量があるんだ、と初めて手にする日本刀に、驚きと感嘆の表情を作る。
 草地に転げ落ちている鞘も一緒に拾うと、桜は慎重な手付きで日本刀を鞘に納めた。
「よし」
 鞘に刀を納めた彼女は、先にワゴン車に乗った明彦と由里に続き乗車する。
 助手席のシートに腰を下ろす桜。
 その隣の運転席には明彦が、いつでも発進できるようにハンドルに手を掛けていた。
 桜は一度振り返り、一つ後ろの後部座席に横たわる青年を視線をやる。
 今もなお、苦しげに呻いている青年が桜の瞳に映る。思えば、あまりにも突然な出来事だった。花火大会に赴き、その帰路、このような成り行きになると誰が思っただろう。
「二人ともしっかり掴まってろよ!」
 三人と青年の四人を乗せたワゴン車は、明彦がアクセルを踏むと同時に走り始めた。




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